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第23話 罪滅ぼし

 夜、部屋の扉を叩く音に、鏡矢は読んでいた本に栞を挟むと、それを机に置いた。

「どうぞ」と声をかけると、そっと扉が開かれる。そろりと開けられた扉から、鈴音が不安げな顔を覗かせた。


「こんばんは、お兄様。お時間よろしいでしょうか?」

「珍しいな、お前から訪ねてくるなんて。何かあったのか?」


 これは嫌味でもなんでもなく、鈴音が鏡矢を訪ねてくることなど滅多にない。あったとしても業務連絡程度で、このように鏡矢の予定を確認することなどない。

 しかし、いまの鏡矢にはその理由がすぐに思い当たった。十年前ならいざ知らず、いまの鏡矢と鈴音の関係に大きな問題はない。家族の集まる場では普通に話をしている。それがなぜ、極力二人での話を避けるのか、思い当たるのは一人の顔だった。


 鈴音は少しだけ視線を彷徨わせ、その先を鏡矢の足元に定めると、困ったように眉を下げた。

「ええ、小鐘があまりいい顔をしませんから……」

 案の定と言うべきか。今更驚くべきこともない。

「身内にまで嫉妬とは、と言いたいところだが……そもそもあいつが身内だったな」


 小鐘は自分が普通でないと理解している。

 だからこそ表立っては鏡矢が鈴音と会話することを厭うことはない。鈴音の言う「いい顔をしない」も口に出して抗議をしているわけでなく、ましてや表情にだって出していないつもりだろう。鈴音が小鐘の感情の機微に敏いからこそ気付けた些細な変化なのだと思う。

 鏡矢としては今更あえてそれを隠す意味もわからないが、指摘もしない。何か違う感性なのだろう。同じ家族でも感性が全く違うのは親を見ればよく分かる。


「それで、話というのは?」

 話を進めようと鏡矢が尋ねると、自ら訪ねてきたにも関わらず、鈴音はすぐには口を開かなかった。どう切り出せばよいのか決めあぐねているようで、何度か口を開いては閉じてを繰り返す。

 数秒経ってようやく鈴音は話を切り出した。


「最近、小鐘の様子が変だと思いませんか?」


 問いに答えるのは簡単だった。なぜなら鏡矢も同じ疑問を抱えていたからだ。鏡矢でさえ感じられるほどなのだから、普段誰よりも妹の近くにいる鈴音はその変化をより強く感じていただろう。

「その、避けられているとは違うのですが、以前より距離を感じるというか。これではまるで──」

 何かを言いかけて、鈴音が慌てて口を閉じる。しかし、その言葉の先は想像に難くない。


「まるで、普通の姉妹、だな」


 隠した言葉の先を鏡矢が続けると、鈴音は何かまずいものでも見られたかのような表情を浮かべた。


 実の姉に本気の恋愛感情を抱く人間がいる以上、今更鈴音がどんな感情を抱いていようと鏡矢にとっては問題でないのだが、鈴音はそれを隠したいらしかった。もしくは、まだ認めてはいないのか。

 ただ問題なのは、いまの状態は世間一般からして普通であることだ。

 普段の小鐘は実の姉である鈴音を心底愛していて、まるで恋人のような距離感と独占欲を持っている。それに対して、鈴音が変だという最近の様子はどちらかといえば普通なのだ。

 朝の挨拶を交わし、共に朝食を摂り、会話をしながら登下校し、夕食を済ませ、別々の部屋で眠る。

 ただそれだけの普通の生活なのだ。これを変だというのはあまりに不自然に慣れすぎている。


「確かにこれまでの小鐘と比較すると変だと言えるかもしれない。しかし、これが普通の距離感でもある。お前が迷っているのはそれが理由だろ?」

 もはや呆れる他無いが、鈴音は未だに自覚がないらしい。どのタイミングかと聞かれると鏡矢にも判断がつかないが、少なくとも夏の時点で鈴音の心はかなり傾いていたはずだ。

 秋を越えてその気持ちがどこまで変わったか、鏡矢にはわからない。しかしこんな相談をしてくる程度には小鐘を気にかけているということだろう。


 二人の気持ちや関係はさておき、普段と違う行動をしていれば気になるのは当然のことである。鏡矢も小鐘の変化には気づいていたし、気にもなっていた。

 大人になったのか、諦めたのか。小鐘が今更ながら"普通"というものを意識しているのなら鏡矢が口を出すことではない。鈴音がどう思うかは別として。

「小鐘にも何か考えがあるのかもしれないし、もう少し様子を見てもいいんじゃないか?」

 なんにせよ、鈴音の反応は少し過剰なように思えた。まるきり避けられているというわけでもなく、ただ普通の姉妹の距離感になっただけなのだ。


 顎に指を当てて少し首を傾げると、鏡矢は「ふむ」と声を漏らした。

 鈴音の反応は明らかに行き過ぎている。しかしそれは、鏡矢の認識では、という話だ。

 この家で最も小鐘のそばにいて、小鐘と接してきたのは鈴音である。その鈴音がわざわざ鏡矢を訪ねてきたのには何か理由があるはずだ。

 反論してこないところを見て、鈴音はおそらくその理由を言語化できていない。勘や違和感といった類のものだろう。

 不確かなものだと切り捨てることはできる。しかし、その判断がつくほど、鏡矢は二人と長く関わりを持っていない。


「まあ、お前がそれほど気にするなら何かあるかもしれないな。理由は見当も付かないが、俺の方も気にかけておこう」

「あっ、ありがとうございます!」

 それまで暗かった鈴音の表情がパッと晴れるのを見て、鏡矢はつい面食らう。

 鏡矢の中の鈴音はこんな表情をする人間ではなかったし、鏡矢にそれを向けることなどありえなかった。

 いや、そもそも俺に頼ることなど考えもしなかっただろうな。


 既に遠い過去のようで、未だ褪せないあの深海のような日々。

 押しつぶされそうなほどの重責と、闇の中をさまようような不安と焦燥は、まるで深い海を溺れているかのようだった。

 生き苦しい日々を、息を止めて生きてきた。


 話は終わったと去っていこうとした鈴音に、鏡矢はつい、声をかけた。

「なあ、鈴音」

 鈴音はただキョトンとして「どうかしましたか?」と尋ねた。


 俺はお前にそんな顔を向けられて良い人間なのか?

 俺はお前に頼られるべき人間か?


 浮かんだ言葉はどれも届かない。言葉が、喉に詰まって出てこない。


「お兄様?」


 あんな日々を過ごしてきたのに、どうして、そんなに優しく育つことができる?

 あんな日々を過ごしてきたのに、どうして、俺を責める言葉一つもないんだ?


「鈴音、俺はずっと、ひどい兄だった。お前にひどい態度を取ってきた。そうだろう?」


 鏡矢の言葉に、鈴音が少し目を見開く。鈴音が何か言おうとしたのを遮り、鏡矢は更に続ける。


「鈴音、お前には俺を責める権利がある。俺を嫌う権利がある。その全てに理由がある」


 一度口にしてしまえば、鏡矢の内から全てが雪崩のように、思いや言葉が押し寄せてくる。

 あの冷たい関係だった日々が。

 ひどい兄であった日々が。


 兄ならば、父の理不尽な叱責から妹を守るという選択肢もあったはずだ。

 それなのに、俺が選んだのは、苦しみをそのまま妹にぶつけることだ。


「父さんが居たあの頃、俺は苦しかった。ずっと、苦しくて仕方がなかった。だがそれはお前を苦しめて良い理由にはならない。俺はずっと、ずっとお前にひどい態度を取ってきた。それなのに、どうして俺に笑いかけてくれるんだ」


 家族ではないと、家族で居たくないと、そう言われても仕方がないことをしてきた。

 小鐘にとっての父のように、鈴音にとっての鏡矢は、その関係に相応しいものだとは思えなかった。

 それなのに何故、鈴音はただ静かに、穏やかに、自分の言葉を受け入れてくれるのか。鏡矢はずっと不思議でならなかった。


「俺は、俺は──そんな人間ではないのに。お前を苦しめた一人であったことは確かなのに、どうして俺を頼り、信じ、笑いかけてくれるんだ……?」


 これは懺悔だろうか。

 鏡矢はただ自分から溢れ出した感情に、自分で呑まれてしまって、呆然と鈴音の顔を見上げていた。


 鈴音は兄の言葉を聞き、兄もまだあの暗い過去に囚われていたことを初めて知った。今の穏やかな兄は、既に過去を乗り越えたものだと思い込んでいた。けれど、兄も、まだ鈴音と同じ闇の中にいる。

 そして兄もきっと、鈴音に対して同じように感じているのだろう。


「小鐘が生まれる前、お父様が今のお父様になる前、あの日々は確かに、苦しかったです。覚えていますよ、ちゃんと」


 懐かしむように、鈴音は目を細めた。

 いつの間にかうなだれていた鏡矢は、鈴音の言葉に、弾かれたように頭を上げた。


「なら、何故……!」


 繋がった視線の先で、鈴音は、兄に、何をどう伝えるべきか、考えた。考えて、考えて、結局は伝えるべきことなんてわからなかった。

 だから、全て伝えることにした。


「そうですね、今まで、ずっと、覚えていました。きっと、あなたと同じ、暗闇の中に、私は居ます。あなたが私に微笑むたびに、ずっと私一人が過去に取り残されているのだと思っていました」


 置いていかれてなんてなかった。

 鈴音の心に湧いたのは、きっと安堵だ。一人、暗い闇の中にいたわけじゃない。


「けれど、生きていかなきゃ、いけないから。この先も、家族として。生きていきましょう、お兄様」


 鏡矢の双眸から涙がこぼれ出した。

 それは本当に無意識で、自分自身すら涙が出ていることに気づかぬほど自然に、涙が溢れていた。


「私が上守に入ったその後も、あなたは私のお兄様です」


 許されたと思っても良いのだろうか、そう思って、すぐに首を振る。それは加害者が望むべきことではない。

 けれどもただ穏やかに自分を見て微笑む鈴音を見て、鏡矢はようやく、心の中にあった重いものが一つ、消えた気がした。それは鈴音も同じで、二人はゆっくりと息を吐いた。


「ああ……、ああ、生きて、いこう。鈴音。お前は、俺の、大切な妹だ」


 短い話し合いの中で、二人はようやく、長い暗闇を抜け出す出口を見つけた。


「いままですまなかった、鈴音。これまでの分、俺はお前の兄として生きてく」

 決意の滲む兄の表情は、最後に向かってゆっくりと崩れ「……今更、遅すぎるかもしれないが」と、消えるように呟いた。

 だからこそ鈴音は、力強く、その言葉を受け止めた。

「はい、お兄様の謝罪を、受け入れます。今後とも、よろしくお願いします」


 鏡矢と鈴音は、意味こそ違えど、二人揃って頭を下げた。

 頭を上げた二人は、初めて本当の兄妹として、穏やかに微笑みあった。


 今度こそ部屋から出ていく鈴音の背中に、鏡矢は「おやすみ」と声をかけた。鈴音は振り返ると微笑みを浮かべる。

「おやすみなさい、お兄様」

 閉じる扉を見つめながら、同じように微笑んでいた。


 パタン、と扉が閉じられた。

 部屋の鍵をかけて、扉に頭を当てる。

 目を閉じて、深く、息をする。


 これは罪滅ぼしなのだ。

 許されたことに甘えてはいけない。


 鈴音も、小鐘も、いつかは榊原家を出ていってしまう。しかし、二人が鏡矢の妹であることに変わりはない。

 今度こそ、兄として生きていこう。

 兄として、二人を守っていこう。


 この先の未来が、あの頃のように、深く閉ざされることのないように。


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