第21話 守るべきもの
汐さんからお守りを受け取った翌日、つまり神無月の始まりから、小鐘の周りは目に見えて騒がしくなった。
子供の諍いに巻き込まれて擦り傷を負ったり、急に飛び出してきた鳥を避けようとして捻挫したり、雨でスリップした自転車にぶつかりかけたり……。例を挙げるときりがない。
明らかに例年より異変が多い。普段なら神無月でも、事故や事件に遭うことなんて殆どない。あったとしても精々擦り傷程度だ。それなのに、今年は明らかに様子がおかしい。病気になっていないことだけは救いだが、神無月が終わるまで油断はできない。
まだ些細な災いが、いつか大禍となって小鐘に襲いかからないだろうか。鈴音は不安でたまらなかった。
お守りは間違いなく二人の手元にある。例年通り、長い紐を通して首からかけている。それなのに、どうしてこんなにも事故が続くのか。
鈴音の中に焦りが募ってゆく。
たった一週間。だが、一週間もある。
日を追うごとに事態は大きくなり、災厄が近づいているような気がした。
始めは捻挫や擦り傷、切り傷などですんでいたものが、徐々に凶暴性を増している。
民家のベランダから予兆もなく落ちてくるプランター、突如砕ける階段、折れる手すり。これらはもはや、小鐘の命を狙っていた。
そして大潮命が不在となる最後の日。
山の畑から仕事を終えて、一台の軽トラックが、山道を降りてきていた。それが四つ辻に差し掛かったところで、突然子どもが飛び出してきた。
トラックの運転手は慌てて、飛び出してきた子供を避けるべく急ハンドルを切った。
その先に、小鐘がいた。
鈴音に迷う余地などなかった。
神子だからじゃない。
大切な家族を、妹を、守らなければならないと思った。
「小鐘!」
焦る姉の声と同時に感じた衝撃に、小鐘は二歩ほど後ろによろめいて、尻餅をついた。
そして、それまで小鐘がいた場所で、何かがぶつかる音と、何かが壊れる音がした。
小鐘はふらふらと立ち上がり、”それ”を目撃する。
息が浅くなる。
ガードレールにぶつかってひしゃげた車の、少し先に、人が倒れている。
それが誰なのかを認識するのに、小鐘は実に五秒もの時間を有した。見慣れたはずの姿なのに、脳が理解を拒み、それでも受け止めるべき事実が、目の前にある。
冷たい秋風、それに揺られて乾いた枯れ葉の音、人々のざわめき。
ひれ伏す鈴音の体から、ゆっくりと赤いものが広がっていく。
「い、イヤァァアーーーーーーッ!!」
奥歯の奥がガタガタと震える。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、真っ白になって、真っ黒になる。
それでもなんとか姉の無事を確かめようと、小鐘は鈴音の元へ駆け寄った。
そして、近付いたことで、姉の右腕があらぬ方向に曲がっていることに気付いてしまった。
「ぁ、お、お姉様、お姉様……っ」
小鐘のなけなしの理性が、姉の体に触れることを制する。わかっている、こういうときは、下手に動かさないほうが良い。特に、頭を打っているときは。
通行人たちが救急の手配や、車の誘導をしてくれている音が遠く聞こえ、脳が現実を拒否しているような感覚だった。
小鐘にできることは、ただ、名前を呼んで、最愛の姉を、繋ぎ止めておくことだけ。
姉の元で声を上げて泣くことしか出来ない私の頭に、ふと何かが触れた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶよ……」
鈴音が無事だった左腕で、なんとか力を振り絞り、小鐘の頭を撫でていた。
幼い頃、夜が怖いと泣いたあの日のように。海の底の暗闇を恐れたあの日のように。ただ、小鐘を安心させるために、鈴音は小鐘の頭を撫で続ける。
小鐘は、姉のその手を、両手で包み、抱きしめた。
「……はい、大丈夫、ですよ」
**
数日後、鈴音は病院のベッドで目を覚ました。
右手はギプスが巻かれ、左手には包帯が巻かれていた。触ってみたところ、顔や頭にもなにやら処置が施されているらしい。
自分の状況をいまいち理解できないまま、鈴音は体を起こそうと力を入れた。少し体が痛んだが、問題はない。時間をかけて上半身を起こすと、ベッド脇で妹が寝ていることに気がついた。
窓の外は夕暮れ。事故に遭ったのも夕方だったが、さすがに当日ということはないだろう。短くとも、一日は経っている。
なんとかぎこちなくも動かせる右手で、小鐘の頭を撫でる。すると彼女は、薄っすらと目を開いた。目元が赤くなっているのは、それだけ泣いた証拠だろう。
「おはよう、小鐘」
鈴音はいつものように、小鐘に微笑みかけた。同じように笑顔が返ってくると思って。
けれども小鐘の様子はいつもと違い、少し怒っているように見えた。
「どうして、私を助けたのですか?」
いつもより低い小鐘の声に、鈴音はつい面食らう。
小鐘は基本的に姉に従順だ。盲目的で、妄信的。だからこそ、姉に怒りの感情を見せることは殆ど無い。そんな小鐘が、明確に、怒っていた。
「それは、私が神子だからですか?」
そして怒りの中に、悲しみが混ざっていた。
「私が怪我をすると、皆さんに影響を及ぼすからですか?」
確かに、神子という存在は特別だ。この町においては、最も守るべき人間だと言っていいだろう。だからそれが、助けた理由になり得ることも知っている。
文化祭の一件でも、鈴音は小鐘を庇っていた。あの日のことは軽い段ボールが落ちてくるという大したものではなかったが、交通事故となると事態の深刻さには雲泥の差がある。
「それなら私は、神子になんてなりたくなかった。それでお姉様が傷つくのなら、こんな力、いらなかった!」
このとき鈴音は初めて、小鐘の、心からの感情の発露を目にした気がした。
小鐘の瞳からは怒りと悲しみ、そして不甲斐ない自分への悔しさが読み取れた。
小鐘はめったに怒らない。というより、怒りや悲しみといった負の感情を、意図的に見せないようにしている。
姉の姿を写し取ったような、穏やかで優しい外面と、姉の前でだけ見せる甘え。
小鐘が発露する感情は、非常に偏っているのだ。基本的に、怒りや悲しみといった負の感情を見せない。
それは元来の性格というのもあるのだろうが、小鐘は非常に強い理性で、それらを抑制している。
そうでなければ、神子の器たり得ないから。そして、場合によっては神からの介入さえあり得るからだ。
例えば、小鐘が誰かの意地悪で怪我をしたとする。それに対して小鐘が本気で怒ると、相手に神罰が下る可能性があるのだ。
しかし、そんなものは鈴音に関係がない。
鈴音は一度深く息をして、小鐘の問いに答えた。
「私があなたを助けたのは、あなたが私の妹だからよ」
姉とは妹を守るものだ。良き友であり、良き理解者であると共に、姉には妹を守る義務があると、鈴音は考えている。
「あなたが神子であることは何の関係もない、私は姉で、あなたが私の妹だから、私はあなたを助けたの」
姉としての義務だと思ったから。
「もっと単純に答えることもできるわ。私はあなたを大切に思っているから、助けたの」
別に、深く考える必要など、何一つないのだ。
決して問題がないとは言えないけれど、二人の関係は良好で、鈴音は小鐘を大切だと思っている。
大切に思っている人が危機に瀕しているのなら、助けたいと思う。
そんな、至極真っ当な考えなのだ。
ただ、それだけなのだ。
鈴音の答えを聞いて、小鐘はしばらくぽかんと呆けていた。姉の答えは至極単純だったが、だからこそとても強烈だ。
「……そう、そうでしたね。お姉様は」
小鐘がようやくしぼりだした言葉は、そんなものだった。
そう、そうだったのだ。
はじめから。
姉ははじめからずっとそうで、だから私は姉のことが好きなのだ。
普通じゃない私を、普通じゃないとわかっていながら、普通の妹として見てくれる。
神子だから、なんて言わずに、一人の人間として向き合ってくれる。
その形が私と違っても、心から私を愛してくれる。
好き。
好きだなぁ。
胸の奥から際限なく溢れてくる、切ないほどの愛おしさ。
私を狂わせる、愛。
**
事故から三日後、鈴音の退院日がやってきた。
右腕はまだしばらく使えないが、家には使用人がいるし、困ることはないだろう。それに、妹もいる。
上守の血筋があるからか、傷の治りも早く、骨折も再起不能と思われかけていたのに何故か治ったと医者が目を丸くしていた。
鈴音が目を覚ました日から、妹はとにかく甲斐甲斐しく鈴音の世話を焼こうとした。罪滅ぼし、という側面もあるのだろうとは思う。鈴音はあまり気にしていない様子だが。
退院の準備は昨日の内に殆ど済ませた鈴音が病院着から私服に着替え、病室で待っていると、病室の扉がノックされた。
きっと小鐘が迎えに来たのだろうと、鈴音は「どうぞ」と返した。現れたのは予想通り小鐘だった。
「おはようございます、お姉様。お加減はいかがでしょうか?」
「問題ないわ。心配かけてごめんなさいね」
「いえ。お姉様が元気なら何よりです」
小鐘は鈴音を安心させるように微笑んだ。
「ではお姉様、帰りましょうか」
小鐘が荷物を持って歩き出したので、鈴音はその後ろに続く。本当は自分で荷物を持っても良かったのだが、小鐘に「安静にして」と言われたので仕方がない。
鈴音は怪我が完治するまで、小鐘の世話焼きを諦めることにした。
「そういえば使用人は?」
そもそも使用人さえいれば小鐘に荷物をもたせることなんてしなくてすんだのに。
「置いてきちゃいました」
「え?」
そうなると、迎えの車は誰が出すのだろう。そう考えながら駐車場へ行くと、予想外の人物が立っていた。
「退院おめでとう、鈴音」
いつもの無表情さ、起伏のない声で、鏡矢は二人を出迎えた。
荷物をトランクへ、姉妹を後部座席へ乗せる。そして鏡矢は当然のように運転席へと回った。
「すみません、お兄様自ら運転をしていただくなんて」
運転席の鏡矢はいつも通りの無表情で、運転手をさせられていることに不満があるのか、それとも無いのか、はたまた自分から率先してきたのかもよくわからない。
「別にいいよ。お守りも三つあったら三つ分働くだろ。たぶん」
兄から発せられた言葉に、鈴音は驚き、目を見開いた。これまでの二人の会話に、冗談を言い合うようなことはなかったからだ。
「お兄様でも冗談言うんですね」
「一応本気だよ」
鏡矢はくつくつ笑いながら、車を発進させた。
兄の言葉が本気なら、使用人を連れてこずに兄と来た意味はそこにあるのかもしれない。
大潮命の不在は昨日で終えたが、念には念を、といったところか。
家に到着すると鈴音は、篠乃を始めとした数人の使用人に手助けしてもらいながら車を降りた。
なんとか無事に家にたどり着けたことにホッとすると、小鐘も車を降りる。同じタイミングで鏡矢も車を降りて、車庫入れを使用人に申し付けた。
自分も姉の元へ駆けつけようとした矢先、小鐘は鏡矢に呼び止められた。
「小鐘」
普段、自分の名前を呼ぶことなど無い兄に若干動揺しつつ、小鐘は「はい、なんでしょう」と微笑みながら返事をする。
鏡矢は無表情ではあるが、無感情ではない。怒りもするし、悩みもするし、憂いもする。
小鐘もそれをわかっているが、兄という存在そのものはいまいち掴めていなかった。
そんな兄が自分に何の用事だろうかと考える。兄は少し迷った様子で、ようやく口を開いた。
「お前は神子だ」
その言葉は、小鐘を動揺させるには十分だった。
それ以上何か言うことは無いようで、鏡矢はただ黙って小鐘を見ていた。口数の少ない兄らしく端的で、言葉の意味を汲み取るにはあまりに情報量が少ない。
鏡矢の言うように、小鐘は神子だ。故に背負わされた宿命がある。
小鐘には、神子としてやるべきことがある。
そして、上守の血筋としてやるべきことがある。
それは、わかっているつもりだ。
わかりたくもないけれど。
今一度、兄の言葉の意味を考える。
血縁である鈴音に執着する自分。
上守の血を継ぐ鈴音と自分。そして二人は上守の血を繋がなければならない。
なぜならそれが、学校卒業後の鈴音と小鐘が上守へ入る理由だから。
当主を継ぐのは、鈴音でも小鐘でも良いが、神子であるべきだと誰もが考えているだろう。
兄は私に、姉を諦めろと言っているのだろうか……?
導き出した答えは小鐘にとって耐え難く、しかし否定するには分が悪すぎる。
暗い闇の中、選ぶべき道を探し続けている。
そして今選んでいる意味はきっと正しくはないのだ。
それをいま、突きつけられているのかもしれない。
──子供の頃から、教わったことは何でも出来た。
──子供の頃から、望めば何でも与えられた。
小鐘は今初めて、挫折の味を知ろうとしていた。
けれど、そんなことは認めたくない。
「わかっています!」
八つ当たりのように兄にそう言うと、小鐘は最愛の姉の元へ駆け出した。




