第2話 誰がための祈り
鈴音が身支度を終え、学生鞄を侍女に預けて部屋を出ると、小鐘が廊下で待っていた。
姉の部屋から出て、自分の部屋に戻るという工程を経る分、小鐘の支度の時間は、鈴音より少ないはずだ。どこにそんな時間があるのか、小鐘はいつもこうして鈴音を待っている。
「行きましょう、お姉様」
鈴音に向かって、さも当然のように差し出される小鐘の手。鈴音は抗うことなくその手を取った。
「ええ」
小鐘の手は温かく、優しい。妙な執着さえなければ、小鐘のそばが最も安心できる場所だと鈴音は思っていた。妹から与えられるものは、どんな形であれ、常に”愛”であったから。
小鐘は無邪気に笑い、嬉しそうに姉の手を強く握った。
二人が居間へ向かって歩いていると、正面から人影が現れた。鈴音より頭一つ分ほど背が高く、白の道着を身にまとっている。
鈴音はその姿を確認し、立ち止まって頭を下げた。
「お兄様、おはようございます」
鈴音に倣い、小鐘も頭を下げる。
「ああ、おはよう二人とも」
二人の兄である鏡矢は、二人に対してにこやかに応じた。朝の鍛錬を終えた後で、その額には汗が滲んでいる。
穏やかな朝だった。数年前には想像も付かなかったほど。
未だに兄と言葉を交わすとき、自分の内に怯える自分がいることを鈴音は自覚していた。
決して短くない期間、彼と、彼らに怯え続けてきた。次の言葉がどんな凶器の形をしていて、どんな襲い方をするのか。今でも脳裏をかすめる仄暗い記憶。
そして自分はまだ、その延長線上にいる。
「二人が起きてきたのならもうすぐ朝食の時間か。おれも軽く汗を流してすぐ向かうよ」
鏡矢の視線は常に小鐘にある。それは小鐘が”神子”だからに他ならず、彼は兄妹の中で誰よりも信仰心に篤かった。
例えば二人の名を呼ぶとき、鏡矢は必ず小鐘を先に呼ぶ。これが単純な語呂の良し悪しの都合であれば、そこに深い意味がないのなら、小鐘はそれを気にすることはなかった。
しかし、鏡矢は明確に、小鐘と鈴音を──神子とそれ以外を区別している。
鈴音はそれをあまり気にしていない様子だが、小鐘は違った。ずっとそれが、不愉快だった。
三人は家族だ。そこに上下の関係はない。優先順位もない。故に、小鐘は、平等を求めていた。
とはいえ土地柄というものもある。神子という存在が特別なことも理解している。だから小鐘も、兄からの対応の違いについては諦めていた。
「では、また後ほど」
鈴音が頭を下げるので、小鐘も再び頭を下げる。
去っていく鏡矢の背を見送り、小鐘は姉の目には届かぬようこっそりと眉をひそめる。
自分を特別にしようとする兄のことは嫌いだ。とはいえ、兄は兄なりに努力している。
小鐘が特別扱いされることを好まないと知っているから、極力気を遣ってくれているし、気を遣いすぎないという努力も見える。その点では、母やあの男よりはよほど好感が持てた。
故に、小鐘は鏡矢と一対一の関係に於いては、比較的良い印象を持っている。それでも兄を好きになれないのは、時折、鈴音が鏡矢を見て怯えた目をしているからだ。
過去のことは、小鐘にはわからない。
小鐘を心配させまいと、鈴音が隠そうとするからだ。けれどもにじみ出る怯えが、過去の歪みを明確に物語っていた。
居間のガラス戸を開くと、奥に長い机があり、向かって右奥に母が既に席に着いていた。母の隣にある兄の席は当然ながらまだ空席。姉妹の席は、母と兄の正面にある。
上座にあたる一番奥の席は、いつも通り空席だ。
そこにいるはずの榊原家当主がいないことは、小鐘にとって不愉快であったが、鈴音にとっては救いであった。
小鐘が食卓に忠臣の姿を認めたのは、果たしてどのくらい前だったか。
考えたって仕方のないことだ。どうせ今日も、私に怯えて逃げているだけ。小鐘は無感動に目を伏せた。
「今朝も賑やかだったね」
ふいに母に声をかけられ、鈴音はいつの間にか下を向いていた顔を、勢いよく上げた。
「す、すみません」
咄嗟に出てきたのは謝罪の言葉だった。それが鈴音のこれまでの人生を表している。
母、海良にこれといって責める意図はない。ただ思ったことをそのまま口にして、それを鈴音が責められているように感じてしまっただけだ。
鈴音だってわかっている。幼少期こそ誤解していたが、母は迂遠な言い回しなどしない。感情や感想をそのまま口に出しているだけで、その言葉に裏はない。母の言う「賑やかだったね」にそれ以上の意味はなく、「騒がしくするな」という注意ではないのだ。
実に馬鹿らしい呪いだ。
小鐘は、隣に座る姉の肩が小さく震えるのを見てそう思った。実に馬鹿らしく、実に憎らしい呪いは、最愛の姉をずっと苦しめ続けている。
何かをすれば叱責されるのではないか、そんな恐怖がいつまでも彼女につきまとっている。神子というだけで自分を避ける、臆病者のかけた忌まわしい呪い。
「すみません、遅れました」
兄が少し息を荒くして現れる。走っているような音はしなかったが、急いで来たようだ。
「いいや、構わないさ。それじゃあ朝食にしようか」
海良がそう言うと、使用人らが動き出した。いつものように、慣れた手つきで、席に座る全員分の朝食を用意する。勿論、空席の前に食事はない。
小鐘が両手を合わせ、それに倣うように家族全員が両手を合わせる。
「いただきます」
重なる食前の言葉を教えてくれたのは、他でもない姉だった。こんな普通のことですら、小鐘は、姉を通して知った。
挨拶を終えると、円滑に回り始める食事。
いつの間にか自分を中心に回るようになった食卓も、小鐘にとっては全く不愉快なものであった。
食事中、ふいに海良がこんなことを言い始めた。
「こうやってみんなで食卓を囲むのも、今日で最後にしようか」
提案は唐突であり、三兄妹に大きな衝撃をもたらした。
「小鐘も進学して、生活が変わるでしょう?」
「そうですね」
「鏡矢ももう社会人で、生活を合わせるのも大変でしょう。明日からは早いんでしょう?」
「え、ええ、はい……」
鏡矢の仕事は父の手伝いだ。今日は挨拶回りだからと遅い時間だが、明日以降は父に付き合わされてかなり早い時間の出になる。帰りも仕事次第で遅くなるだろう。
「とはいえこれが最後になるのも寂しい。チューちゃんもいないしね」
チューちゃんとは、この家の当主・忠臣の愛称である。呼んでいるのは海良一人だが。
正しい名前の呼び方は「ただおみ」であるが、過去の海良がこれを「ちゅうしん」と読み違えたのが由来だ。
「夜にはチューちゃんも食事に出るように言っておくから、みんなも早く帰ってきてね」
気難しくて頑固な忠臣だが、海良には弱い。
幼馴染である二人の関係は昔から殆ど変わらず、奔放な海良と、それに振り回される忠臣。海良が説得すれば、最後ならばと忠臣も夕食には現れるだろう。
誰にも聞かれぬように、小鐘はため息を吐いた。
家族全員が食卓を囲むことを喜ばしいことだと考えているのは、母くらいだろう。忠臣を呼ぶと聞いたときの姉や兄の反応を、母は見ていないのだろうか。いや、見ていたとしても、きっと気付きやしないのだろう。
血の気の引いた真っ白な顔。箸を持つ姉の手は小さく震えていた。彼女は、明らかに家族全員での食事など望んではいない。
兄は上手く隠したが、それでも一瞬動きを止めていた。だが、その兄の反応すら、海良という人間は察することがないのだろう。
「うん、そうしよう!」
カラリと言い放った母に、小鐘は再びため息を落とした。
その後も食事は続き、海良が一人でよく喋っていた。小鐘はそれをなんとなく聞き流しながら、自分が何故、母をあまり好きでないかを思い出した。
ここまでの話で、鈴音の話は一度も出てきていない。確かに、今年度から生活が大きく変わった小鐘と鏡矢の話が出るのは必然とも言える。対して鈴音は、一つ学年が上がっただけで、大きな変化はない。
だからといって、何も話すことがないなんてことはありえないはずだ。最高学年になること、来年からの姉の活動。考えれば、いくらだって思い付く。
やはり配慮に欠けた人だ。
ここで一言でも姉に言葉をかけることがあれば、小鐘は今ほど母を嫌ってはいないだろう。
味噌汁の出汁の匂い、焼き魚の香ばしさ、卵焼きの甘い匂い。小鐘にとって朝食はいつも通り、美味しかった。
しかし鈴音は、それをまともに味わうことができただろうか。それだけが小鐘の憂うところであった。




