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第15話 居るべき場所

 ゆらゆら ゆらゆら

 渦を巻く 憎悪


 ゆらゆら ゆらゆら

 暗い水底から 私を呼ぶ声


**


「今日はお散歩に行きましょう!」


 二日と空けずに、小鐘は鈴音のもとに来ていた。夏休みが終わるまであと三日。

 夏休みの思い出を作りたいと小鐘が考えるのも無理のないことだった。


 鈴音は読んでいた本を閉じて、小鐘へと目線を移した。


「今日は、お散歩?」

「前回は神社に行っただけだったので、今度は町をぐるーっと歩こうかなって。遊べる場所も別にないですからね」


 小鐘の言うように、この町には特に何か遊べるような場所はない。

 そういえば公園すら無いな、と鈴音はふと思い出した。大抵は小さい町でも簡易な公園くらいはあるものだ。

 場所が無いのかと言えばそういうわけでもなく、何も無いだだっ広い空間はいくつかある。


 青海の子どもたちは公園代わりに学校の校庭を使っているが、卒業後、私たちはどこへ行けば良いのだろうか。

 だから家にこもって将棋や囲碁ばかりをしているのだろうか。


 空いた土地はすべて神の通り道か、あるいは神が休息するための庭として残されているのだろうか。人間が土を掘り返し、鉄の塊を置くことなど、不敬ですらあるのかもしれない。


 ──この町は、人を慈しむ場所ではなく、神を鎮めるための器なのだから。


 一度、汐さんに相談してみようか。大潮命の意向を伺って、問題がなければ兄に相談してみよう。父と直接話すことは、きっとできないから、父の手伝いをしている兄に相談することで現状を変えようと考える。

 学校以外でも子どもたちが遊べる場所、そんな場所があれば、きっとこの町はもっと良くなるのではないだろうか。

 小鐘を満足させられるものができるかは、難しいところだけれど……


「いいわ。今日も、お昼ご飯を食べたら出かけましょうか」


 しかしそれも、兄が仕事を終えて帰ってくるまではどうしようもない。

 ただの散歩だと言うのに楽しそうに笑う小鐘を見て、鈴音は自然と笑みがこぼれた。

 どんなときも、自分の味方でいてくれて、そばにいることをこんなにも喜んでくれる人。


 鈴音の中の小鐘という存在がどんどんと大きくなっていることに、鈴音はまだ気付いていない。


**


 昼食を終えて、当て所なく町を歩き始める。

 この狭い町は、ゆっくり歩いても半日とかからず一周できてしまう。これを散歩と呼ぶには短すぎるのではないか?

 さりとて神社のある山道は、神社より奥は整備されていないただの山だ。散歩には向いてない。


 二人は日傘を差しながら、たまに、アスファルトを割る屈強な植物に笑い合ったり、駄菓子屋でアイスを買ったり、町民たちに手を振りながら散歩を続けた。


 道行く人々は、二人の姿を見ると静かに頭を下げる。そこには熱狂的な崇拝も、卑屈な畏怖もない。ただ、この土地の空気がそうさせるのか、住人たちは皆、凪いだ海のように穏やかだ。

 感情の起伏を波風の立たない水底に沈めてしまったかのような、静謐な気質。それがこの町を、より一層、外界から切り離された異界のように見せていた。


 そうして気付けば海が見えていた。まるで何かに誘われるように。

 青海は小さな町だ。山に登らず、下って歩けばすぐに海に着く。

 だから、小鐘が海に来たことに、深い意味はない。そのはずだ。


 しかし先程から口数が減り、どこか遠くを見ているような小鐘に、鈴音は不安を覚えた。

 なんとなくや、無意識ではない。何かに操られ、誘われているように思える。


 海の大岩には、禍津神が封印されている。

 それは、この町に住む誰もが知る恐ろしい悪神。

 しめ縄に付けられた紙垂が、海風によって揺れる。自分の存在を主張するように、大きな音を立てて。

 遠い空には暗雲が立ち込めている。今夜は嵐になるだろうか。


 ぼんやりと姉を見つめる小鐘は、目の前の姉を見ているようでいて、その実、数キロ先の水平線の裏側を凝視しているようだった。

 瞳孔は海の色を吸い込んで真っ黒に広がり、まばたき一つしない。その瞳には、鈴音の姿ではなく、あの夢で見た黒い渦が、深い憎悪とともに反射しているように見えた。


「小鐘」


 さらりと、鈴音の指が小鐘の髪を梳いていく。その手が、鈴音の声が、ゆっくりと小鐘の意識を引き戻す。


 波打ち際に立つ小鐘の足を、寄せては返す波が一瞬だけ飲み込んだ。


「あまり長居すると、冷えるわよ」


 八月の終わり、いくら夏とはいえ、夜になると海辺は寒くなる。

 海風が吹き、二人の髪を押し上げた。


 手を握り、歩き始める。

 鈴音は小鐘を防波堤に座らせると、サンダルを脱がせて、濡れた足をハンカチで拭き始めた。

 日中はあれほど暑かったのに、たった一瞬波に触れただけの小鐘の足は氷のように冷え切っていた。それを温め、丁寧に、指先までゆっくりと水気を取ってゆく。


 小鐘は抵抗することもなく、ただ、ぼんやりと海を見つめている。

 サンダルまできれいに拭き終えた鈴音は、再び小鐘にサンダルを履かせると、小鐘の手を取って立ち上がらせた。

 鈴音は少しの焦りを抱え、それでも極めて冷静に、小鐘の手を取り、優しく声をかけた。


「さあ、もう帰りましょう。あなたの居場所はここではないわ」


 鈴音の言葉に、小鐘の意識が一気に覚醒する。海風が全てを払うように、今まで小鐘を誘っていた不可思議な感覚が消え去る。

 ただ、目の前には愛する姉がいて、優しく微笑んでくれている。握られた手は温かく、二人を繋いでくれている。


 そこにはもう、小鐘を惑わせるものは無い。冷たい夜風と、揺れる波があるだけだった。


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