第12話 降り注ぐ愛
神社には祭り囃子が響き、普段の静かで厳かな雰囲気とは打って変わって、賑やかな様子だ。
小鐘はその音を遠くに聞きながら、神楽舞の衣装の着付けをしてもらっていた。
毎年のことではあるが、せっかくの夏祭りなのに姉と巡ることが出来ないのは、小鐘にはとても不服だった。
出店は四つほどしかないが、それでも私は姉と一緒ならそれでいいのに。
不満の種が不満を生み、プカプカと宙へ浮いていく。どこにも行けない心。
町民のために、神様へ祈る舞。
私は、本心で町民らの幸せを願えるだろうか……
着付けが終わっても、舞の時間にはまだ少し早かった。小鐘は巫女たちを置いて、神社の裏へと休みに行くことにした。
騒がしい表と違って、神社の裏は暗く寂しい。
夏はよく、雲で月を隠す。今日も薄い雲がかかった、いつも通りの日。
そして、小鐘が特別でなければならない日。
小鐘が行うのは、この夏祭りで最も重要とされる『大潮の舞』だ。一般に『神楽舞』と呼ばれるそれは、青海独自の変化と発展を遂げ、特別な舞となっている。
舞は小鐘が受け継ぐ前は姉が舞っていたと聞く。小鐘が生まれてからもしばらくは姉が舞っていたはずだが、あまりに幼く、記憶がない。
幼い頃はよく一緒に練習をしたものだと、姉の顔を思い起こす。
いつかまた、姉の舞を見ることはできるだろうか。
「会いたいな……」
ぽつりとこぼした言葉は、自分でも予想外で、思わず口を塞ぐ。
小鐘が姉に会いたいと思ったのは本当だけれど、そんなことを口にしても叶わないと思っていた。
それなのに、ふわりと風が運んできたのは、いつも姉の部屋で嗅ぐあの淡い花の香りだった。強張っていたはずの小鐘の心が、その気配を認めた瞬間に、すとんと静かにほどけていく。
「小鐘」
名を呼ぶ、優しい声。
「お姉様……」
派手すぎず、地味すぎない、鈴音らしい浴衣は、小鐘の派手な衣装を一層際立たせる。
いつの間に、どこから現れたのだろうか。
小鐘はいつもなんとなく、全体を警戒している。考え事をしているときにはつい疎かになりがちだが、それでも他人をそう簡単に近寄らせるつもりはない。
けれども、自分が唯一心を許す姉にだけは無防備になってしまう。だから、普通に歩いてきた鈴音にすら気付かなかった。
「びっくりしました。こんなところでどうしたんですか?」
小鐘が素直にそう言うと、鈴音は少し目を見開いて、それからくすくすと笑った。
「普段は小動物みたいに警戒心たっぷりなのに」
「小動物って……」
そんなに警戒心が漏れ出ていただろうかと、小鐘は途端に不安になった。あまり露骨なようでは、周囲からの小鐘の評価に問題が出るかもしれない。
「ま、私にしかわからない程度だけれどね」
そう言いながら、鈴音は小鐘の隣に腰掛けた。
「静かね、ここは」
「はい……」
祭り囃子は確かに遠く聞こえるけれど、断絶された壁の向こうのように思える。
「小鐘にね、会いに来たの。寂しくしてるかな、と思って」
それは、小鐘にとってこの上ない幸せなことだった。大好きな人が自分のことを考えて、慮ってくれる。
そして、きっとその優しさが、好きなんだと思った。
「でも、どうしてここが?」
神社は確かに広くはないが、小鐘のいた場所はかなり入り組んだ道を抜けた奥にある。場所をわかっていても、行くのが大変で、あまり行きたいとも思えないだろう。
「昔も、ここに来たことがあるのよ」
それは、小鐘がまだ幼かった頃。
神子という立場を理解しきれず、毎年強要される神楽舞は苦痛に他ならなかった。
だから、稽古からはいつも逃げ回っていたし、本番となる祭りの日さえも隠れて過ごしていた。
そのときに迎えに来てくれたのは、いつも鈴音だった。
小鐘の小さな体で、重い衣装を着て、どこへ隠れてしまったのだろうか。考えて、考えて、歩き回り、そうしてたどり着いたのが今二人がいる場所だった。
小鐘がすっかり忘れてしまっていた、幼い日の記憶。
『大丈夫よ。ちょっとくらい失敗したくらいじゃ神様もみんなも怒らないわ』
姉に励まされて、なんとか勇気を出して、予定より少し遅れて神楽舞は始まった。
失敗もしたけれど、確かに誰も小鐘を責めなかった。まだ幼い小鐘を責めようなんて人間が、この町にいるはずがなかった。
稽古をつけていた人も『失敗もあったけれど、とても素敵な舞でしたよ』と褒めてくれた。
「大丈夫よ、小鐘。あなたは私の素敵な妹だもの、舞も上手くいくわ。上手く行かなくたって、あなたは変わらず私の大切な妹よ」
鈴音が小鐘に微笑みかける。
ただ無条件に与えられる愛がほしい。
ただ何の憂いもなく帰れる場所がほしい。
小鐘の願いは、いつも姉のそばにいることだ。
物理的には離れていても、姉の心は常に小鐘の心に寄り添ってくれている。降り注ぐ愛は、とめどない。
さあ、立ち上がろう。
大好きな姉に、自分の勇姿を見てもらうのだ。
**
……トチってしまった。
あんなに練習して、あんなに気合を入れて挑んだのに、一箇所、運足を間違えた。
観衆らはそんなこと気にもしていないように振る舞い、労って、褒めてくれるけど、長年神楽舞を観続けている人たちにあの失敗が気付かれていないはずがない。
神に捧げる祈りとして、許されるべきことなのか。大潮命は寛大な心を持っているが、小鐘の中には不安が残る。
衣装から私服に着替えた小鐘は、また神社の隅で丸まって自己嫌悪していた。
「お疲れ様、小鐘」
小鐘が顔を上げると、鈴音が変わらない笑顔でそこに立っていた。
「お水、飲む?」
「いただきます……」
鈴音にもあの失敗は気付かれただろうと、小鐘は更に肩を落とす。
「今年も素敵だったわよ、神楽舞」
「ありがとう、ございます」
自分の失敗のせいでその言葉をまっすぐに受け取れないことが悔しかった。
鈴音は舞の前に言ったように、何があっても小鐘を大切に思ってくれる人だ。そう簡単に失望して見捨てるような人ではない。
けれど──いや、だからこそ、小鐘は大好きな姉に、今の自分の最高点を見せたかった。
「夏祭りももう終わりね」
大潮神社の夏祭りは、神楽舞を掉尾として、その後はすぐに撤収作業が始まる。
二人はこの作業を免除されているため、神社の隅で静かに座り続けていた。
かすかな雲の隙間から覗く月は弱々しく光り、二人を照らしている。
祭り囃子の音は、もう聞こえない。




