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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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九 取引

臘春(ろうしゅん)は、神官に言われた言葉をずっと胸の奥で転がしていた。


──務めを果たせる者だけが、ここに残るべきだからな


その言葉が、臘春の心のどこかにべったりと貼り付いて離れない。

竹に縛られたまま男と向き合っている今ですら、神官の渋い顔が脳裏にちらつく。


(……分かってますよ。役に立ってないの、私が一番分かってる)


だが、目の前の男を見れば見るほど、臘春は確信に近い何かを覚えつつあった。


──この人、いくら穢れ落とししても無意味なんじゃ……?


理由は分からない。ただの直感。

でも巫女として何年もやってきた勘が「恐らく無理」と耳元で囁いている。


この国の月光には、人の精神を落ち着かせ鎮める力がある。


それなのに、男は月光を浴びても眉ひとつ動かさない。

むしろ「月が何だ」という態度で、臘春の胃に月ほどの穴を開けにくる。


こんな事は初めてだった。

何が原因なのかまったく分からないが、男には浄化に対する耐性か何かがあるようだ。


とはいえ、当初の凶気は今は影を潜めている。臘春に襲いかかろうとする気配もない。


(……それは良いことです。ええ、良いことなのですが)


しかし、臘春の心にはまったく安堵が落ちてこなかった。


過去に穢れ落としが効かなかった例など一つもない。

ここまで激しく暴れた者も、神官であれ巫女であれ、臘春が知る限りだと過去には存在しなかった。

ゆえに、月神が誰かを罰するということも、今までただの一度も起きなかった。


罰する必要もなかったからだ。


このまま宮に戻れたとして──

臘春が述べた「月神が罰を与えた」という話が嘘だと露見すれば、男はどうなるのだろう。

再び荒れ狂うのか。


(でも……この男なら、月神様に“初めての罰”をもらってもおかしくない気が……)


そう思ってしまうほど、男の存在は常識から外れていた。


そして、男が暴れ続ける限り──

臘春の巫女としての評判は、竹林の土より下に潜り続けるだろう。



星祀りの巫女を選定している話が、ふと脳裏をよぎる。

月神の妻としてこの国を支える十二人の巫女。


(こんな者がこのまま実を求めて暴れ続けても、得るものはない……それなら、少しだけ手を貸す気にさせる方が得策かもしれない)


臘春は呼吸を整え、静かに男の目を見つめた。


「……あの、実を求めて無駄に暴れるよりも、私と手を組んでみませんか」

声には柔らかさを帯びさせながらも、言葉の芯には揺るがぬ覚悟を込める。


男はしばし沈黙したまま、臘春を見返す。その視線はまだ疑念と怒りを含んでいるが、少しだけ興味の色も混じっているように見えた。


臘春は言葉を続ける。

「この国には、星祀りの巫女という役割があります。月神様の妻にあたる立場で、月神様と深く関われる存在。……それに選ばれれば、あなたが探している不老不死の実の在処についても有力な情報を得ることができるかもしれない」


男の眉がわずかに動く。

「……ほう。神の妻となれば、か」


「はい。もしあなたが私と手を組み、浄化されたふりをすることができれば、私はあなたを浄化させた優秀な巫女として月神様に印象づけることができます。そうなれば、星祀り巫女の座に近づくことも、夢ではなくなるかもしれません」


竹林の隙間から差す月光が二人を包み、臘春の声に静かに力を与える。


「つまり……私が手を貸せば、暴れ回るよりも効率的に、あなたが求める実に近づける」


男は考え込むような顔をする。

臘春はその隙を逃さず、言葉をそっと乗せる。


「どうです……このまま徒労(とろう)に終わるより、少しだけ、私の力を借りてみませんか」


「……その“浄化されたふり”というのは、具体的に何だ」


「簡単なことです。何があっても暴れず、穏やかに振る舞うんです。それから──話し方も、改めた方がよろしいでしょう」


「話し方?」

男は露骨に顔をしかめる。

「どう変えればいいのだ。我は丁寧に話す柄ではない」


「難しく考えず……とりあえず、私の話し方を真似すればいいんですよ」


男はしばし黙して考え込む。やがて、その荒くれ者らしからぬほど素直な返事が返ってきた。


「ふむ……分かった。なら、その方法でやってみよう」


臘春は胸の中で安堵の息を吐く。

これで男が再び神殿を荒らす可能性は、少なくとも半分以下には減ったはずだ。



しかし──ふと、大切なことに思い至る。


「ところで……あなたのお名前を、まだ伺っておりません。呼び名がなければ、何かと不便です」


男は「名前か」と低くつぶやき、腕を組んで沈思した。


やがて男は顔を上げ、短く告げた。


「……そうだな。なら、俺のことは――カグヤと呼べ」


「……かぐや?」

臘春は思わず聞き返す。

人名として耳慣れぬ響きだったし、男の雰囲気に似つかわしくもなかった。


男は黙ってしゃがみ込み、木の棒を使って土をなぞる。

さらさらと乾いた音がして、地面に文字が浮かび上がった。


火久弥


「──こう書く」

男は胸を張る。


「永久に燃え盛る火、という意味を込めた。今、思いついたにしては……うむ、なかなか良い名だ」


その顔は誇らしさに満ちている。

臘春は一瞬、返答を迷う。

どう見ても今思いついた名だ。


臘春は努めて穏やかに微笑む。

「……とても立派なお名前です、火久弥さま」


男──火久弥は満足げに鼻を鳴らした。


月光の下、荒くれ者が自作の名に酔いしれる姿を前に、臘春は小さくため息をつく。


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