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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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八 迷子

だが臘春(ろうしゅん)は、必死に声を絞り出す。


「……わ、私に暴力を振るったところで、意味はないわ……」


荒い息を整えながら、声を震わせまいと必死に押し殺す。

「そんなことをしたら……月神様はきっと……あなたに重い罰をお下しになる……」


男の手がぴたりと止まる。

一瞬、沈黙。


次の瞬間、男はくつ、と喉の奥で笑った。

冷たく、嘲るように。


「罰だと?月神が何だ。呼びかけても姿ひとつ見せない腰抜けが」

男は臘春の髪を指に巻きつけ、無造作に持ち上げた。


「そんなものを盾にできると思うな。神が守る?笑わせる」


臘春は苦痛に顔をしかめつつも、目だけは逸らさなかった。そこに、最後の拠り所としての強い光が宿る。


臘春は続けた。

「あなた……縄で縛られたとき、自力で抜け出すこともできなかったでしょう?」

息を荒くしながらも、臘春は男を真っ向から睨み返す。


「そんなあなたが……月神様に勝てるはずがない……」

「……なんだと」


「月神様の神通力は恐ろしいものよ。夜を統べ、影を従え、人の罪を照らし出す……」

臘春の声は少し震えながらも、どこか祈るように静かだった。


「あなたがさらに私に手を上げれば……きっと月神様は見逃さない。その怒りがどれほど恐ろしいか……あなたが一番よく知ることになるわ」


男は臘春を激しく睨み付ける。

怒りは燃え上がっているのに、一歩踏み切れずにいる──そんな顔。



臘春は男の目に浮かぶ、わずかな“揺れ”を逃さなかった。その揺らぎを励みに、恐怖で乾く舌を無理やり動かす。


「ねえ、まだ信じられないの?月神様は本当に、容赦がないのよ」


男の眉がぴくりと動く。

臘春はまるで本当に見てきたかのように、静かに淡々と語り始めた。


「昔……月神様の怒りを買った神官がいたの。その神官は月神様を侮辱し、神殿を踏みにじった。神官に下された罰は“影で絞められる”ことだった」


「影で……絞められる?」

男は思わず聞き返していた。


臘春は小さくうなずいた。


「そうよ。その神官、歩いてたら急に自分の影が膨らんで、地面から這い出してきたのよ。影が……自分の影が、縄になって首に巻きついて。息ができなくなって、這いつくばって逃げようとしたって、影はどんどん増えて、手足を縛り、指一本ずつ、ゆっくりとねじ曲げていったって」


臘春は淡々と語り続ける。


「次の朝、見つけられたときにはもう人間の形じゃなかった。骨って、こんなに簡単に折れるんだって……みんなが震えながら言ってたわ。折れた骨が皮膚を突き破って、月の光に白く光ってたって」


「……作り話だ」

男は鼻で笑ったが、笑い声はわずかに乾いていた。

臘春はさらに畳み掛ける。


「それからね、去年。巫女で、嘘ばかりついて人を騙してた女がいたの。ある日に、夢の中で月神様に呼ばれたって言ってたわ。目覚めたら、自分の舌が真っ黒に腐って、口の中が血だらけ。痛くて痛くて、壁に頭を打ちつけて気を失っても、痛みだけは消えなかったって。結局、自分で舌を引きちぎったの。でもね、ちぎった舌は床に落ちた途端に、何百もの小さな虫になって、這い戻ってきて……また口の中に」


男の目はなお強気に吊り上がっているのに、手だけが中途半端に宙で止まっている。


「ねえ、あなた……まだ足りない?」

臘春は静かに囁く。縄で縛られた手首が軋む音がする。


「月神様はね、特に『偽りの神』を憎むの。自分を神だと言い張る人間が、一番残酷に罰せられるって聞くわ。影が皮膚の下にもぐりこんで、内側から肉を食いちぎっていくんだって。痛いだけじゃない。自分の声が、骨を削る音に変わって、耳の奥で永遠に響き続けるのよ。死にたくても死ねない。月の光が当たる限り、永遠に」


男の肩が小さく震えた。

それでも、彼は唇を噛んで強がる。

「……ふざけるな。そんな馬鹿な話があるか」


臘春は静かに、静かに微笑んだ。

「だったら……どうして、あなたは私に手を上げられないの?」


その一言で男の顔が歪んだ。

臘春はそれを見逃さず、さらに追い打ちをかける。


「あなた……怖いんでしょう?」

「怖いだと?馬鹿を言うな。」


「じゃあ、なぜ触れないの?」

臘春は目をそらさずに言った。


「月神様の罰が……本当に落ちるかもしれないって、思っているからでしょう?」


男は怒鳴りつけたいのに、声がすぐには出てこないようだった。


「もう……素直に認めたらいかがですか」


男の目が鋭くなる。


「あなたは神じゃない。月神様には勝てない。それを本当は理解している」


臘春はきっぱりと言い放つ。


「罰を恐れるあなたは、ただの人です」



一瞬の沈黙。

男の瞳の奥で、怒りと焦りと……何か別の色が混じり合って渦巻いた。


そして──


「……我は人ではない!」

怒声が竹藪に響き渡った。


「だったら、どうぞ。気のすむまで私に手を上げればいい。月があなたを見ているわ」

空を見上げると、いつもの冷たい銀の光が慈悲深く降り注いでいる。


怒りに任せて殴りかかるかと思われたその瞬間――男の拳は、臘春の頬に触れる寸前で止まった。


月光が、刃のようにその手を照らす。


「……どうしたの?殴らないの?」


臘春は微かに顎を上げた。

その挑発に、男の表情が歪む。


「黙れ……!」


そして次の瞬間、男は顔を伏せた。

拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込んでいる。


「……我は人ではない……」


その低い声は、先ほどの咆哮とは違った。獣のようでも、神のようでもなく、ただの迷子の声のようだった。


「我の親はれっきとした神だ。父も母も神の血を持つ。そして我もまた、生まれながらにして神だった」


臘春はぼんやりと男を見つめる。

縄に縛られた自分より、目の前の男のほうがずっと痛々しく見えた。


「だが……神としての力が強すぎた。我は幼く、力を制御する術も知らず……母に火傷を負わせた」


臘春は何も言わない。ただ静かに耳を傾ける。


男は続ける。

口を止められないのは、自分自身の内に燻る何かのせいだった。


「父は激怒し……我から神力を奪った。挙げ句この国へ捨て去った!」


拳が地面を打つ。

乾いた土が散り、竹の葉が揺れる。


「それでも我は神だ!たとえ力を奪われようとも、神であったという事実は消えん!」


臘春は静かに息を吐いた。

この男は紛れもなく狂っている。瞳の奥に灯る炎は理性の枠を焼き尽くし、残ったのは焼け跡のような執念だけだ。


だがその狂気は傷つけた罪を背負わされ、捨てられた子供が必死に「自分は悪くない」と叫び続けているだけなのかもしれない──臘春はそう捉えた。



男は荒い息を整えもしないまま、言葉を吐き捨てるように続けた。


「……我は、それでも戻ろうとしたのだ」


男は遠くを見るような目をしていた。憎悪で濁ったはずの瞳が、ひどく幼く見える。


「捨てられた場所から……河まで走った。あの向こうに、我がいた世界があるはずだと……信じていたからな」


河。

恐らく、この国の外れにあるという大河のことだろう。


「泳いだ。必死にだ。我の体力は、人の比ではない。だが……あまりに広すぎた。どれほど泳いでも、向こう岸に近付けない。気づけば……この国にいた」


臘春はふっと息をつき、淡々と告げた。


「その河は深いし速くて……毎年、あなたみたいに“向こう岸へ行ける”って信じて飛び込んで、溺れかける人がいるんです」


男の表情が、一瞬だけ固まる。


「それで、神官たちが見回りをしているんです。浮かんでいる人も、力尽きた人も、立ち往生して泣いている人も……見つけ次第、助け出すようにって」


臘春はゆっくりと首をかしげた。


「きっとあなたも……誰かに拾い上げられたんでしょうね」


「……くだらん、人間の救助など……」


「昔からずっとそうしているんです。助けられた人のほとんどは、ほっとしていたけど……中にはあなたと同じ顔をする人もいましたよ」


臘春は男の目を真っ直ぐ見た。


「帰れなくて、悔しくて、泣きたくて……でも意地を張りたい顔」


「……我は、泣いてなどいない」


「泣いてたとは言ってませんよ。でも、泣きたいほど辛かったことは分かります」


「勝手に我を理解した気になるな。不愉快だ」


臘春は静かに息を吸い、結ばれた手の痛みを感じながら言葉を続けた。


「……それで。あなたはこの先、どうするつもりなんですか?」


すると男は、一拍のためらいもなく答えた。


「決まっている。不老不死の実を探す」


「はあぁぁ……またそれですか!」

縄で縛られていなければ頭を抱えていた。


「あなた、話を聞いていたんですか?!そんなことをしたら、月神様の罰が下りますよ!本当に!」


男は鼻で笑う。

「不老不死は神の証。実さえ食えば、失われた神力も戻り、月神とて相手ではなくなる」


「どうしてあなたは……そんなに……頭が痛くなる話しかしないんですか……?」


臘春は縛られた手を必死に動かし、とにかく抗議の意を全身で示した。


しかし男は眉一つ動かさず、

「我はただ本来の力を取り戻したいだけだ。じっとしていても何も変わらん」

と、まるで当たり前のように言い放った。


その言葉は単純で真っすぐで、ひどく子供じみていた。


臘春はしばし目を閉じ、深く長くため息を漏らす。


「……あなた、自分では冷静で合理的に話してるつもりかもしれませんけどね」


「ふむ?」


「実際は、駄々をこねてる子供と何も変わりませんからね……」


男は、言葉の意味を理解できないという顔で固まった。それからゆっくりと眉をつり上げ、怒りとも困惑ともつかぬ声を絞り出す。


「そなたは目が見えていないのか?どう見ても我は子供ではない」

「子供です」


(この人……駄目だ。話が通じてるようで通じてない……)


しかし同時に、ほんの少しだけ思う。


(でも……全然通じないわけでもない、のかもしれない)


男の視線はさまよい、まるで答えを探すように空を見上げていた。

月の光が竹の隙間から差し込み、彼の影をぼんやりと地面に落とす。


その姿は、強大な神でも、恐ろしい怪物でもなく──帰れない世界を想い続ける、ただの一人の迷子に見えた。



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