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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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七 拘束

朔臣(さくおみ)の背が暗がりに吸い込まれると同時に、廊下にひそやかな羽音のような足音が近づいてきた。


「──何ですか、その難しい顔は。怖い話でもしていたんですか?」


軽やかな声が降ってきた。

後ろに結んだ髪を揺らしながら八千瑠がこちらに歩み寄ってくる。

彼女は事情を知らぬまま、臘春(ろうしゅん)の顔を覗き込むようにして首を傾げる。


そのすぐ後ろから、そろそろと顔だけ覗かせる影がひとつ。

長身で栗色の髪をおろした千代が様子を窺っている。


月見が駆け寄り、半ば泣きつくように八千瑠の袖を掴む。

「実はね、赤髪の男が──」


「まだ捕まってないんですって……」

椿が今にも泣きだしそうな顔で補足し、「しかも、ここに戻ってくる可能性が高いと……」と比奈江が声を震わせた。


千代は目を瞬いたあと、ふっと表情を引き締める。八千瑠は目と口を綺麗に丸くした。


「……戻って……!?わ、私たちのところに……!?」

「八千瑠、落ち着いて。深呼吸」

と千代が肩を押さえるが、彼女自身の指先も微妙に震えている。


「二人とも、寝処へ行くの?」

「ええ、そうです」

「じゃあ、一緒に行きましょう。人数が多い方が安心ですもの」

比奈江がそう言って微笑むと、巫女たちは自然と輪になって歩き始めた。



暗い廊下を進む足音が、妙に大きく響く。


「……でも、一体何が目的なんでしょうね」

口を開いたのは月見だった。


「月神に会わせろ、って叫んでたんでしょう?まさか、月神様に乱暴を働くつもり……?」

椿が身をすくめる。


比奈江は少し考え込み、声を落とした。

「……不老不死の実、という可能性は……ないかしら」


巫女たちは一斉に息を呑む。


「えっ、それ月神様の好物の果実のこと?皇母神(こうぼしん)様とで、育てているっていう……あの?」

「そうそう!食べると永遠に若く美しくいられるっていう……!」

「昔、実際に見たって神官がいたって話も聞いたわ!」

「え、それほんと!? 誰よその神官!」


怯えの空気が、今度は妙な熱気に塗り替えられていく。


「もしかしたら、その不老不死の実を求めて月神殿に……?」


「だから“月神に会わせろ”と……?」

月見がぞわりと肩を震わせる。


噂は噂を呼び、巫女たちの声はどんどん妖めいていく。



臘春は巫女たちの熱を帯びた噂話を、まるで別の世界の出来事のように聞き流しながら歩いていた。

胸の奥に落ちた冷たい石のような不安は先ほどから重さを増すばかりで、とても冗談めかした話に乗る気にはなれない。


その様子に気づいたのだろう。

八千瑠がそっと歩幅を合わせ、臘春の肩に寄り添うようにして言った。


「臘春さま……どうか、あまりお気を落とされずずに」


千代も臘春の歩調に合わせるように、八千瑠の隣に並ぶ。

「大丈夫ですよ。いざとなれば、あの男はきっと月神様に処罰される筈です」


二人の声は小さくとも、凍えた胸にじんわりと染み入る。


臘春が口を開いた、そのとき。



ぬうっと、背後から腕が伸びてきた。

巫女の装束ではない、どこか古めかしい布地。

次の瞬間、臘春の胴をがっしりと抱きすくめられた。


「──っ!?」


息を吸う暇さえなく、臘春の身体が後ろへ引き寄せられる。


足が地面を離れた瞬間、彼女はまだ自分が抱き上げられたのだと理解できなかった。ただ胴に回された腕の熱が、胸の奥まで伝わってくる。


「──え……?」


掠れた声が漏れたときには、もう視界が傾いていた。八千瑠と千代の顔が驚愕に見開かれている。


八千瑠と千代は、一瞬、その光景が現実とは思えず、ただ呆然と動きを止めていた。

だが数拍遅れて、理解が胸の底へ落ち込んでいく。


「つ、連れていかれる──臘春さまが!!」


八千瑠の悲鳴が月神殿の静寂を破り、廊下に木霊する。

その声に引きずられるように、巫女たちが一斉に騒ぎ出す。


「だ、誰!?誰が臘春を――!」

「赤髪!?まさか赤髪の男!?」

「灯り、灯りを持ってきて! 人を呼んで!!」




臘春は耳を澄ますまでもなく、自分の名を呼ぶ声が急速に遠ざかっていくのを感じていた。風が頬を打つ。冷たい夜気が喉の奥まで突き刺さる。


ゆっくりと顔を上げると、予想通りだった。


月明かりを裂くように荒々しく揺れる長い赤髪。獣のように光る瞳。

その腕が、臘春の身体を容易(たやす)く抱え上げていた。


(やっぱり……!)


もともと屋根の上に潜んでいたのだろう。

薄く湾曲した屋根の上を、信じがたい速さで駆け抜ける。

赤髪が夜空に線を描くたび、臘春の頬に冷たい風が叩きつけられた。


「っ……!」


しがみつくことしかできない。

視界は揺れて安定しない。

灯火は豆粒のように小さくなっていく。


男は屋根の端に来ると、そのまま膝を曲げ、獣のように力を溜め――


「──っ!!」


大きく跳躍した。


臘春の体が宙に浮く。

ふわりと無重力になったかと思うと、すぐに勢いよく地面が迫る。


男は軽々と着地し、足音も立てずに走り出す。




どれほど走ったのか。

時間の流れはまったく掴めない。


男は唐突に、ぴたりと足を止めた。


「……っ?」


臘春が顔を上げると、そこは深い竹藪だった。

夜風で揺れる竹の葉が擦れ合い、ささやきのような音が広がっている。


臘春は肩から放り投げられるように地面へ落とされた。衝撃で息が詰まる。立ち上がろうとした瞬間、腕が伸び、首筋を掴まれた。


「動くな」


低い声だった。ぞくりと肌が粟立つ。

次の瞬間、臘春は反射的に拳を振り回し、男の脇腹に一撃を食らわせた。男がわずかに息を呑む隙に、彼女は這うようにして竹の間へ逃げ込んだ。


だが、三歩と進まぬうちに後ろから腕をねじり上げられた。

「っ……離して!」

「無駄だと言ってるだろう」


男の声には苛立ちが滲んでいた。臘春は必死に暴れた。爪を立て、蹴りを入れ、歯を剥いた。しかし男はまるで子猫を押さえるように片手で両手首を掴み、もう片方の手で素早く縄を回した。


ざらりとした麻縄が皮膚を抉る。手首、足首、そして体を一本の竹に固定されるまで、五分も満たない出来事だった。


男は臘春の顔を見下ろし、吐き捨てるような声音で言い放つ。

「……なんだ。またお前か」


男は深いため息をつき、首を捻った。

「まさかまた居合わせるとはな。運が悪い」


臘春は目を丸くした。

「じゃあ、私を狙って拐ったわけじゃ……」


「違う」

即答だった。


「ただ、手を伸ばした先にいたから連れてきた。それだけだ」

男は竹に寄りかかり、夜目でも分かるほど不機嫌そうに唇を歪めた。


「……では何が目的?私を攫う意味がまるでないじゃない」


臘春は縄に食い込む手首をわずかに動かしながら、精一杯の虚勢を張った。声が震えそうになるのを喉の奥で押し殺す。


「先程、そなたたちは不老不死の実とやらについて話していたな。その実に興味が湧いた」


男はゆっくりと身を起こし、臘春に顔を近付けた。


在処(ありか)を教えろ」

「知らない」

即答した。今度は臘春の番だ。


「本当に知らないわ……そんな大事なもの、私たち下っ端に教えてくれるわけないでしょう」


男は小さく舌打ちする。

「我は知らないという言葉が嫌いだ」


男の指が、臘春の顎を掴んだ。


「痛いのは苦手か?」

「……っ」


「肩を外すくらいは簡単だ。それとも、爪を一本ずつ剥いでみるか?女は爪を大事にすると聞くが」


男の人差し指が、臘春の薬指の爪の根元をそっと這う。爪の下の皮膚を押し上げるような、ぞくりとする感触。


「それとも……」

男はふと笑った。ぞっとするほど優しい笑みだった。


「火を使うか?小さな火でも、使うと驚くほど素直に喋り出すからな」


心臓が肋骨を打ちつける音が、自分でも聞こえそうなほどだった。恐怖が胃の底を這い回り、吐き気を催す。

でも顔だけは、凍りついた湖のように動かさない。この男には悟られたくない。


「……あなたの言う不老不死の実のことなど、ただの人である私たちには分からない。知っているのは神だけ……あなたが本当に神を名乗るなら」

臘春は震える息を吐き、なおも言葉を紡ぐ。


「実の在処ぐらい、自力で見つけられるはずよね?」


言い終えた瞬間だった。


ぱん、と乾いた音が辺りに響いた。

視界がぐらりと傾き、頬に灼けたような痛みが走る。


縄で後ろ手に縛られた身体は支えようもなく、臘春は竹の柱に縋るように体を預けた。

頬の内側に鉄の味が滲む。だが、唇を結んで声は漏らさない。


男の目は怒りで爛々としている。


「……小娘。我を愚弄(ぐろう)するにもほどがあるぞ」


男が臘春の腕へ手を伸ばす。


「神が知っているだと?だったら神に祈れ。お前の神が、どこに隠したか教えてくれるようにな」


男の指先が臘春の腕に食い込み、爪が肌を押しつける。

次に何をされるのか、その想像だけで背筋が凍りついた。


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