六 朔臣
一日の務めを終え、臘春はようやく一息つく。
浄衣を脱ぎ、寝巻へと着替える。淡い灰桜色の単衣に、細い紐でゆるく腰を結ぶだけの、寝所で身を横たえるための簡素な装いだ。
月の光が差す回廊を歩き、寝所へ行こうとしたそのとき──
「……そこの巫女殿」
低く落ち着いた声が背後からかけられた。
振り返ると、黒髪の神官が灯明の明かりの中へ歩み出てくる。額が広く、端正な顔立ちを見せている。
どこかで……そう思った瞬間、臘春は胸の奥がざわりと揺れた。
(この人……)
「少々、尋ねたいことが」
神官は、言葉を選ぶように一拍置いてから続けた。
「赤髪の男の穢れ落としをしたーー臘春という巫女殿が、どこにいるか知らぬか?」
臘春は一瞬言葉に詰まる。
「……それは私です」
言いたくない、という思いが声の端に滲んだ。
「あの……あなた、さっき私を助けてくださった方ですよね?」
あのとき、赤髪の男に組み伏せられそうになったところを、まるで風のように現れて助けてくれた神官。
神官は少し驚いたように瞬きをし、静かに頷く。
「状況が状況だったからな。名乗る暇もなかった」
そう言って、姿勢を正す。
「朔臣──これが俺の名だ」
臘春は自然と頭を下げる。
「臘春と申します。おかげさまで大した怪我はありません。あの時はありがとうございました」
「怪我がなくて何よりだ。それにしても、あの赤髪の野郎……まったく、月神殿に汚い足で踏み込んでくるわ、『月神に会わせろ、会わせろ』と喚き散らすわでな。大変な騒ぎだった」
「……それは本当に大変でしたね。神官の方々も、さぞお疲れだったことでしょう」
「ああ、まったく思い出しただけでも頭にくる……奴は月神殿の扉を蹴り飛ばし、香炉をひっくり返し、侍女たちの悲鳴が木霊する中、俺たちが取り押さえようと近づけば、まるで猿のように跳び回って逃げ回ったのだ」
「月神様はご無事だったのでしょうか」
「ああ。幸い、月神がおられる間には踏み入らせずに済んだが……こんなことが起きるのは初めてだ」
朔臣は臘春の顔をじっと見つめた。
その眼差し探るような鋭さを帯びていた。
「……で、だ。もう一度確認するが、あの赤髪の穢れ落としをしたのは──臘春殿で間違いないんだな?」
臘春は一瞬たじろぎ、緊張をごまかすように袖を指先で整えた。
「……はい。私です。いつも通りの、特に変わったところのない方法で行いました」
「いつも通りか……」
朔臣は考え込むような表情になる。
臘春の胸にざわりと不安が広がった。
「はい……その……手順を省いたりはしておりません」
「本当にか?」
朔臣は一歩、臘春に近づいた。
廊下に落ちる灯火の影が、臘春の肩を細く震わせる。
「……本当です。決して手を抜いたりはしていません。むしろいつもより、時間をかけて行いました」
朔臣はなおも臘春を射抜くような視線を向けた。その視線が逃げ場を封じるようで、臘春は無意識に喉を鳴らす。
「……時間をかけたのか」
「はい。本当に、丁寧に──」
「丁寧にやって、あれか」
朔臣の声が低く沈む。
臘春は思わず息を呑んだ。
その表情は怒りではなく、失望に近かった。
「……申し訳ありません。私が、至らなかったのでしょう」
「臘春殿。君はもう未熟ではない。指導する立場だろう。自分より若輩の巫女たちが君の背中を見て育っているんだぞ。真面目にやった結果がこれだというのなら──」
朔臣は静かに、しかし容赦なく続けた。
「巫女としての今後を、真剣に考える時がきたのではないか。務めを果たせる者だけが、ここに残るべきだからな」
その一言が、臘春の胸を貫いた。
瞬間、臘春の瞳に熱いものがこみ上げる。
「……それは」
声が震えた。自分でも驚くほど掠れて。
「それは、ひどくありませんか」
今度は臘春が一歩、朔臣に詰め寄った。灯火の揺らめきが二人の顔を赤く染める。
「私は確かに至らなかったかもしれません。ですが、いつも通りどころか、いつも以上に心を込めて祓いました。あの男は……あの者は特別に穢れが深かった。だからこそ時間をかけたんです。それを一言で切り捨てるのは……!」
「……臘春?何が……?」
その時、おずおずとした声が緊張を破った。
振り返れば、廊下の端に三人ほどの巫女が立っていた。
皆、臘春と同じ灰桜色の寝巻をまとい、長い影を曳くようにしてこちらを見つめている。
一人は茶色の柔らかな瞳をしていて、もう一人は背の高い、少し勝ち気そうな顔立ち。最後の一人はふっくらした頬を赤らめ、心底心配そうに胸の前で手を組んでいた。
彼女たちは、ただの傍観者ではいられなかったらしい。
臘春のこわばった表情と朔臣の冷ややかな佇まいだけで、十分察したのだ。
「あ、あの……神官殿」
ふっくらした巫女──椿が勇気を振り絞って声を上げた。
「臘春は、その……今日は本当に大変だったんです。あの男の相手なんて……私たちでも無理だったかもしれませんし……」
「そ、そうですとも!」
勝ち気そうな巫女──月見も一歩前へ出る。
「臘春姉さまは、誰より真面目に儀をされる方です。あんな暴れ方、巫女だけのせいとは到底思えません!」
「ですので……」
茶色の瞳の巫女──比奈江が、臘春の前にそっと立つようにして続けた。
「臘春を責めるのは、おやめになってくださいませんか。疲れておられたのでしょうし……例の男の浄めは、次から別の者が受け持つようにいたしますから」
三人がかりで、まるで臘春を庇うように朔臣と臘春の間に立つ。
臘春は驚きで瞬きをした。
叱責の渦から引き上げられたようで、胸の奥が熱くなる。
朔臣は深く重い息を吐いた。
「……庇い立てする気持ちは分かるがな」
その声は静かだが、どこか苦々しさが滲む。肩の力を抜くというよりは、降り積もった疲労が勝手に崩れ落ちたかのようだった。
「正直に言えば、俺も気が立っている。あの赤髪の男……まだ捕まっていない」
臘春を庇って立ち塞がっていた三人の巫女が、同時に息を呑む。
「えっ……!?」
「まだ、逃げているのですか……?」
「そんな……!」
朔臣は頷くかわりに首筋を押さえ、痛むように指で揉んだ。
「神殿内にいないことは確認した……今も手分けして捜索している最中だ」
そして、言いにくそうに眉をひそめる。
「……俺も、ずっと走り回っていた。ようやく先ほど、休憩に入ったところだ」
椿が小声で囁くように言った。
「……神官殿も、お疲れなのですね」
月見も続く。
「そりゃあ……あの男を相手にして、疲れないほうがおかしいですって……」
比奈江は心配そうに朔臣を見つめる。
「どうか……ご無理をなさらずに」
朔臣は三人の気遣いに対し、表情を変えないまま短く言った。
「……気遣いだけ受け取っておく」
月見が恐る恐る口を開いた。
「……その、あの男は……どちらの方へ逃げていったのでしょう?何か、手がかりは?」
朔臣は腕を組み、しばし躊躇うように目を伏せ──そして重く口を開いた。
「……無辺の都の花笠横町だ。そこに出没した痕跡があった」
「は、花笠……?」
椿の眉が困惑でゆるむ。
「横町……ですか?」
月見が心許なげに呟く。
比奈江が恐る恐る尋ねた。
「わ、私たち……その辺りの地理に疎くて……どのような場所なのでしょう?」
「無辺の都の中心に近い大通りだ。人の流れが絶えず……広く、複雑で、足跡が紛れやすい」
「そ、そんな場所が……」
月見が不安げに呟いた。
臘春も胸がざわつく。
自分たちは宮の中での務めが主で、無辺の都の外縁部にさえ滅多に足を踏み入れない。
朔臣は続ける。
「無辺の都は広い。路は入り組み、建物も似たような造りだ。そこへ逃げ込まれれば、神官だけで探し出すのは難しい。まして……あれほど暴れ回る男は前代未聞だ。神官どもも右往左往している」
比奈江が不安げに両手を胸元で握りしめた。
「では……もう、見つけるのは……?」
「完全に見失ったわけではない」
朔臣はきっぱりと言ったが、その言葉の奥には苦みが滲む。
「ただ、人の多さも相まって、捜索は難航中だ。……何より、あの男の動きは常軌を逸している。追手を撒くのが異様にうまい」
やがて椿が、おそるおそる口を開く。
「で、でも……その……無辺の都へ逃げたということは……もう、この宮にはいない、ということですよね……?少なくとも、今は安全……?」
ほんのわずかでも安心したかったのだろう。しかし朔臣は即座に首を横に振り、期待を無惨に断ち切った。
「──断言はできん。戻ってくる可能性は十分にある」
巫女たちの顔が一斉に青ざめた。
朔臣は低い声で続ける。
「あいつは『月神に会わせろ』と何度も叫んでいた。執着は異常だ。目的が月神殿である以上……逃げただけで諦めるとは思えん」
「まさか……今夜にでも、また……?」
「あり得る」
「ひ、ひぃぇ……っ!」
椿が腰を抜かしそうな声を上げる。
「なんで戻ってくるんですか!?」
月見が叫き気味に言い、比奈江は両手を口元に当てて震えた。
「だからこそよく聞け。決して一人きりになるな。二人以上で行動しろ。寝るときも灯りを消すな。見回りの者を増やしてはいるが、それでも隙はできる……他の者たちにも伝てくれ」
巫女たちは固まったまま頷くしかない。
「……俺は持ち場に戻る。いいな、忘れるなよ」
短い言葉を残し、彼の姿は闇に溶けるように廊下の奥へ消えていった。




