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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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五 穢れ (参)

「……以上で、浄祓(じょうばつ)の儀は終わりです」


その一言が空気を震わせた瞬間、

頭を垂れていた男の肩がびくりと動いた。

まるで深海から一息に浮上したかのように、男は急に意識を引き戻し、瞼をぐっと持ち上げた。


「……終わったのか?」


「……ええ、終わりましたよ」


臘春(ろうしゅん)は慎重に男の様子を見極めたあと、神官を呼びに行く。

戸をすっと引くと、廊下に控えていた神官たちが待ちかねたようにこちらを振り返った。


「想定より時間がかかってしまいましたが、無事終わりました。入ってください」


臘春が声をかけると、神官たちは慌てて駆け寄り、縄で縛られたまま座り込んでいる男を見て、少し緊張がほどけた表情を浮かべた。


すると男はゆっくり顔を上げ、先ほどまでとは別人のように穏やかな声音で言った。


「……身体が痛い。ずっと縛られていたからな。早く縄をほどいてくれないか」


神官たちは顔を見合わせ、臘春のほうを振り返る。臘春は小さく頷いた。


(……ようやく、穢れが落ちたのだわ)

その安堵は、胸の奥でそっと温かく広がっていった。



神官たちは慎重に男へ手を伸ばし、固く食い込んでいた縄をひとつずつ外していく。

そして最後の縄が解かれた瞬間──


「やっとか」

男は弾かれたように立ち上がり、大人しかった態度を一瞬でかなぐり捨てた。


「実に長ったらしく、何の意味もない時間だった。退屈すぎて死ぬかと思ったぞ、人よ」


動揺する神官たちの足元へ、男の足が鋭く滑った。


「どけ」


バシッ、と乾いた音を立てて神官の足が払われ、ひとりが派手に床へ転がった。


縄の痕が赤く残る足首を振り回し、近くにいた若い神官の脛を蹴り上げた。


「ぐっ!」


男は縄を手に取り振り回しながら、もう一人の神官の腹に肘打ちを叩き込んだ。


一人の神官が、這うようにして臘春の袖を掴んだ。

「……巫女殿!本当に、ちゃんと穢れ落としをされたのですか……?」


問い詰めるような鋭い視線。

臘春は一瞬目をそらし、しかし小さく頷いた。


「……はい。ちゃんと……行いました。時間も、十分すぎるほどに」

その声は、自分でも信じられないほど小さかった。


臘春の胸の奥で、さきほどまでの安堵が静かに音を立てて崩れていく。


男は臘春を睨みつけた。唇の端に、まるで別の生き物が這い上がってきたような笑みが張り付いている。


「穢れ?笑わせるな!」


男の声は、先ほどまでの人間のものとは思えないほど低く、湿りついて響いた。

臘春が一歩身を引いた、その瞬間——


縄が、しなる。


「っ──」


男は振り上げた縄を、まるで鞭のように振り下ろした。

空気が裂ける音のあと、臘春の腕に鋭い痛みが走る。


「きゃっ!」


腕に熱が走り、視界が揺れた。

神官たちが「巫女殿!?」と叫ぶが、男は止まらない。むしろ愉悦の色すら浮かべていた。


「儀だの(はらい)だの、くだらん真似を……我に通じるとでも思ったか、小娘」


言い終えるより早く、男の(てのひら)が臘春の肩を掴んだ。しなやかな指が、骨ごと握り潰すかのような力で食い込む。


「いっ……!」


臘春が声を上げると同時に、男は彼女を無造作に引き寄せ、床に叩きつけた。


ドンッ!


肺の空気が一気に押し出され、臘春はうまく息が吸えず、苦しげに咳き込む。


男は臘春に覆いかぶさるようにして腕を伸ばした。その指先が臘春の喉元に触れかけた瞬間──。


「やめろ!!」


鋭い怒声とともに、黒髪の神官が背後から男に飛びついた。


神官の腕が男の上半身を締め上げ、勢いのまま畳の上に引き倒す。

男は驚いたようにうめき声を漏らしたが、すぐに獣じみた唸り声へと変わった。


「どけ!」


暴れ狂う男の肘が神官の脇腹にめり込み、黒髪の神官は苦痛に顔を歪めながらも食らいついたまま離れない。


「巫女殿から離れろ!」


二人の身体が激しく畳を転げ回り、室内の衝立が倒れ、香炉が転がり、香煙が散った。


「増援を呼べ!早く!」


別の神官が叫ぶ。

その声に反応して、廊下の向こうから複数の足音が一気に近づいてきた。


「押さえろ!」「手足を封じろ!」


次々に神官たちが飛び込んできて、男に覆いかぶさった。

四方から腕を掴まれ、膝で押さえつけられ、ついには床に押し潰されるような形になる。


「これでもう逃げられまい!」


誰かが言った一瞬後だった。


男の体が、突然ぎしりと軋み、下から浮き上がるように持ち上がった。

人間離れした力で、同時に神官三人を弾き飛ばす。


「──っ!?」


畳に転がる神官たち。

男は転がった拍子に開いた隙間へすばやく身をねじ込み、囲みをすり抜けるとそのまま立ち上がった。


「待て!!」


黒髪の神官が手を伸ばす。


しかし、空を掴んだ。


男は迷いのない動きで戸口へ駆け、廊下へ飛び出した。

神官たちの呼び止める声にも、一度たりとて振り返らない。


「逃がすな!」「追え!」


複数の足音が後を追って駆けていく。


やがて足音も、怒号も遠ざかり──

室内には、崩れ落ちたように座り込む臘春だけが残された。


痛む肩を押さえ、息を荒げたまま身を起こす。

倒れた香炉からは煙が細く立ちのぼり、畳の上には揉み合いの跡が生々しく残っていた。


臘春は唇を噛んだ。


(……落ちていなかった……)


儀式に費やした長い時間。

澄んだと思った霊気。

穏やかになったはずの男の表情。


すべてが幻のように思えた。


胸の奥に冷たい塊が沈んでいく。


(私……失敗したの?)


痛む腕に触れた指先が、かすかに震えた。



○○○○○○○○○○○○



──何かしていないと、先程の出来事が頭をよぎってしまう。

だからこそ、臘春はあえて休まずに次々と浄祓(じょうばつ)の儀を続けた。


幸いなことに、その後の儀はどれも驚くほど順調だった。


流浪人たちは臘春の前に進み出る時、皆こわばった表情をしていた。

今まで生き延びるために心をすり減らしてきた者ばかりだ。

けれども臘春が舞をし聖言を紡ぐと、不安や恐怖、未練といった濁りがゆっくりとほどけていく。


やがて彼らの肩は下がり、目元は柔らかくなり、深い息を吐きながら静かに涙すら流す者もいた。


「……ありがとうございます、巫女さま。身体が軽い……こんな感覚は初めてです」


ある者は泣き崩れ、臘春の手を握りしめて何度も何度も感謝の言葉を繰り返す。


臘春は穏やかに微笑みながら、心の奥でそっと息をついた。


(……できている。私の力は、ちゃんと届いている)


さっきの男は、やはり特別に厄介だっただけ。決して自分の力が衰えたわけではないと、ひとつひとつの儀が証明してくれる。


儀が終わった後、ある流浪人は未来に怯えたように臘春へ尋ねた。


「わ、私は……このあと、どうなるのでしょうか?」


臘春はいつもの流れを、落ち着いた声で伝える。


「これからこの国の戸籍を得る手続きを受けてもらいます。そして――無辺(むへん)の都で新しい生活を始めることになります。詳しいことはあちらの神官が案内してくれるでしょう」


臘春が静かに促すと、神官たちが丁寧に流浪人たちを引き取っていった。


無事に祓われ、希望を抱いて歩いていく背中を見送るその時間こそが、臘春にとって“通常の流れ”であり、そして心を保つための唯一の拠り所だった。


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