四十六 火久弥
新たな定めが決まって数日後。
火久弥は月影の宮の広大な回廊を、腕を組んで歩いていた。
ここはかつて、十二人の巫女たちが暮らしていた場所だ。冷たい床、月光を思わせる淡い装飾、静寂が染みついた空気。
──今は火久弥を除いて、誰もいない。
新月の儀を終えた後、宮は空になった。月神に促され、火久弥はこの宮を住処とすることになったのだ。
侍女をつけるという月神の提案は、即座に却下した。
「我の居所に、無駄な気配は不要だ」
その結果、宮に出入りするのは最低限の神官だけになった。
誰もいない宮は、妙に広かった。
夜になれば月が照らし、やがてその光が退けば、自らの火球が遠く空を灼く。
静寂と光だけが、規則正しく巡っていた。
明くる日。
扉が開く音がして、若い神官が息を切らして駆け込んできた。白い衣に身を包み、手に巻物を持っている。
神官は火久弥の姿を認めると、ぱっと顔を赤らめ、慌てて跪いた。
「か、火久弥様! 月神殿にて、月神様がお呼びです!」
声が上ずっている。視線がちらちらと火久弥の顔に絡みつき、すぐに逸らされる。頬が熱を持ち、耳まで赤い。
火久弥は腕を組み、冷ややかに見下ろした。
「……急ぎの用か?」
神官はますます狼狽し、額を床につけんばかりに頭を下げた。
「は、はい!すぐに、ぜひと……!」
火久弥は内心で舌打ちした。人間の視線が絡みつくのは慣れているつもりだったが、こうも露骨だと面倒だ。
神官を従え、月神殿へと向かう。
回廊はどこまでも静かで、足音だけがやけに響く。神官は火久弥と一定の距離を保ったまま歩き、やがて一つの扉の前で立ち止まった。
神官は深く頭を垂れ、声を潜めた。
「……火久弥様がお見えになりました」
しばしの沈黙。
やがて、扉の向こうから月神の声が落ちてくる。
「よい。入れ」
神官が扉を静かに開ける。火久弥だけが中へ踏み入れた。
中では月神と──もう一柱が待っていた。
長い銀髪をおろし、微笑みを浮かべている。
皇母神であると、火久弥にもすぐに分かった。
前に月神殿で対面した時は、二人とも几帳の向こうにいて姿を隠していた。だが今は、はっきりとその姿を火久弥に見せている。
皇母神は静かに火久弥を見つめていた。
──こうして顔見せするのは始めての筈だが、どこか懐かしさを感じさせる奇妙な顔つきだ。
火久弥はその感覚を振り払うかのように腕を組み、不遜に口元をつり上げた。
月神が先に口を開いた。
「火久弥。余と皇母神の名において、汝を正式にこの国の神として認める」
皇母神もまた、穏やかに言葉を重ねる。
「あなたの光は、この国に新たな巡りをもたらしました。功は確かに、見届けましたよ」
「今さらか。遅いくらいだ」
「……だが」
月神の声が、わずかに引き締まる。
「汝が勝手に実を食し、霊薬を取り入れた件。その結果、一人の巫女が異形へと至った事実は、見過ごせぬ」
火久弥の瞳が、鋭く細められた。
「ほう。説教か?」
「裁きだ」
月神は淡々と告げる。
「よって汝には、一時的に神の座を離れ、現世で人として暮らしてもらう」
「……何だと?」
「神の座に強い執着を持つ汝には、お似合いの罰であろう」
「……ほう。神と認めた舌の根も乾かぬうちに、人として暮らせときたか」
肩をすくめ、わざとらしく嘆息する。
「よほど我が神格が眩しかったと見える。ここに置いておくのが怖くなったか?」
皇母神が目を伏せ、複雑そうな顔になる。月神は視線を逸らさずに告げた。
「揶揄はよい。汝の力は必要だ。だが、その在り方は改めねばならぬ」
「改める、だと?」
「人の身で、人の世の煩わしさを味わうがよい」
火久弥はせせら笑った。
「……どれほど我を現世に縛るつもりだ?」
「二十年ほど、と考えている」
「二十年?」
火久弥は一歩踏み出した。
「我が現世に渡っている間、火球に異変が起きたらどうする。あれは我にしか扱えぬぞ」
月神は少しも動じない。
「常世と現世では、時の流れが異なる。汝が現世で二十年を過ごそうとも、こちらでは半日にも満たぬ」
「……便利な理だな」
「理とは、そういうものだ」
「我を神と認めると言っておきながら、地に引きずり下ろす。──なかなか趣味が悪い。だが覚えておけ。人の皮を被せたところで、我が我であることは変わらぬ。現世が焼け野原にならぬよう、せいぜい祈っておけ」
火久弥はなおも口では文句を並べ立て、嫌みを連発した。
だがその胸中では、臘春の耳元で囁いた言葉が静かに蘇っていた。
──待っておれ、臘春。我が必ずそなたを救い出す
その言葉は火久弥の胸の奥で、静かに燃え続けていた。
本作はここで完結になります。
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