四十四 柱
火久弥と月神は、国で最も空に開けた聖域へと足を踏み入れた。
そこは広大な円形の広場だった。儀式のためだけに据えられた十二の巨石──十二星石が等間隔に立ち並び、まるで天の時計のように夜空を切り取っていた。
石の上には、すでに巫女たちが立っていた。装束に身を包み、顔には薄い護符が貼られて表情を隠している。
それでも、火久弥には一目で分かった。
月影の宮で清掃係として過ごしていた頃、時折顔を合わせていた連中だ。あの頃は猫を被り、にこやかに挨拶し、好青年の仮面を張り付けていた。内心では吐き気がするほどの苛立ちを感じていたが。
巫女たちの視線が、一斉に火久弥へと集まる。護符の下から漏れる息づかいが、ざわめきに変わった。
「……月神様? その方は……」
最初に声を上げたのは早緑だった。長い黒髪を揺らし、石の上から身を乗り出す。
「えっ……火久弥!?」
彌生が小柄な体を乗り出すようにして、いつもの調子で叫ぶ。
「どうして火久弥がここに?!」
「あなたは確か、月影の宮で清掃をなさっていた……」
葉月がそれに続く。
卯花は顔をわずかに傾け、静かに呟いた。
「……臘春殿は、どうなられたのですか……」
瑞季が丁寧に口を開く。
「月神様、詳しいご説明をいただけますか?」
他の巫女たちは言葉少なに視線を交わすだけだったが、その空気からも戸惑いが伝わってきた。
月神は静かに右手を上げ、ざわめきを制した。
「みなの疑問は最もだが、時間が押しておる。臘春は儀に加わることが叶わぬ。代わりは火久弥だ。それ以上は問うな」
巫女たちは互いに顔を見合わせた。護符の下で、困惑の息が漏れる。だが月神の声には絶対的な重みがあり、誰もそれ以上追及できなかった。
火久弥は苦々しく舌打ちを噛み殺し、ゆっくりと歩み寄る。――十二番目の石。臘春が立つはずだった場所だ。
石の上に立つと、雪見が近づいてきた。
「失礼いたします」
「……ああ、頼む」
火久弥は短く答え、目を閉じた。護符が額に貼られ、冷たい感触が広がる。
十二の星石に、十二の柱が揃った。
常夜の空はざわめいていた。暗闇の果てから、狂おしい風が次々と吹き寄せてくる。穢れの匂いが混じり、獣のような唸り声が地を這うように響く。災厄が、牙を剥いて近づいている証だった。
月神は中央に立ち、静かに巫女たちを見回した。
「時は来た」
その声は低く、しかし夜を貫く。
「今こそ我らが光を捧げるとき。常夜は闇に沈み、月を失ったまま喘いでおる」
月神は空を仰いだ。
星は瞬いているが、あるべき場所に月はない。
「常夜は、汝たちの輝きを待っておる。さあ、始めよ」
巫女たちは一斉に息を整え、護符の下で唇を歌うように動かし出す。
十二人分の聖言が重なり合い、深く夜に染み込んでいく。
──やがて十一の巨石から、白銀の細い光が噴き上がった。
柱となった光は闇を切り裂き、天へと伸びる。狂風を押し退け、穢れを焼き払いながら、まっすぐに。
天空では十一の光が月神の神力に導かれ、徐々に一つへと束ねられていく。
火久弥だけが、唇を固く結んだまま沈黙していた。
(……我は、何を言うのかなど知らぬ)
──その時、脳裏に月神の言葉が蘇る。
聖域へ向かう道中、火久弥は問いかけていた。
「我は儀の何もかもを知らぬぞ。どうしろというのだ」
月神は足を止めず、静かに答えた。
「新月の儀において、巫女らは聖言によって己を空にし、月の器となる」
「だが汝は違う。ただ傲然と天を見据え、そして心の中で宣言せよ──『我こそがこの儀を成す者なり』と。汝の尊大な精神そのものが、光を放つ」
火久弥は鼻を鳴らした。
「……ふん。それだけか。随分と曖昧で神らしい言い回しだな。だが……悪くない」
今、実際にやってみる。
火久弥は護符の下で薄く笑い、天を睨みつけた。
(ふん。我が神通力なくして、この儀など成り立つと思うたか。巫女どもが何年修行しようと、我には及ばぬ)
(我がここに立っているだけで、十分すぎるわ!)
──何も起きない。
石は静か。足元は冷たいまま。光の柱など、微塵も立ち上がる気配がない。
(……は?)
火久弥は内心で眉をひそめた。
(おい、どういうことだ。傲慢さが足りぬというのか?)
仕方なく、もう一段階上げてみる。
(我こそが最強。我が光がなければ、この月など生まれぬ)
(常夜の穢れなど、我の一睨みで消え失せる)
(神よ、巫女どもよ、皆我に感謝せよ──)
──やっぱり、何も起きない。
周りの十一本の光の柱が、きれいに白銀に立ち昇っているのに、十二番目の石だけが、ぽつんと暗いまま。
巫女たちは集中して詠唱を続けているので、誰も気付けない。だが、もし気付けたらきっと大慌てだろう。
火久弥は護符の下で、珍しく焦れた。
(くそ……何が悪い。傲慢さが足りぬはずはない。我はいつだってこれで生きてきたぞ)
月神が手を広げ始め、十一本の光を寄せ集めている。だが一本足りないせいで、形が歪んでいる。中心の闇が、まるで嘲笑うように濃い。火久弥は歯を食いしばる。
傲慢なだけではダメらしい。
火久弥は護符の下で、ふっと息を吐いた。
これまで散々、自分を高く掲げて生きてきた。だが今は、そんなものに頼る時ではないらしい。
目を閉じる。無理に天を睨むのをやめた。
すると胸の奥に、ぽっかりと空いた穴のようなものが感じられた。
──それはいつからあった?
河の流れ。燃え盛る火。焦げた匂い。誰かが遠ざかっていく感覚。
名前など思い浮かべない。ただ、あの時の喪失感がじんわりと熱を帯びて蘇る。
(……これ以上、我から零れ落ちるものなどあってはならぬ)
──この屈辱、再び我が身に許すものか
その怒りが、胸の奥で静かに煮えたぎり始めた。穏やかなものではない。抑えきれぬ、熱く荒々しい拒絶。
次の瞬間、十二番目の石がまるで爆発するように震え、焔が立ち昇った。
他の十一本が静かに輝く白銀の柱であるのに対し、火久弥のそれは明らかに違う。
赤みを帯びた金色の焔が、渦を巻きながら天へ奔る。光というより、まさしく焔だった。熱を孕み、唸りを上げ、まるで常夜の闇を焼き払おうとするように激しく揺らめく。
巫女たちの白銀の柱が優しく寄り添う中、この一本だけが乱暴に割り込み、すべてを引っ張るように勢いを増した。
それを見た月神は、目を細めた。
十一本の白銀が、突然現れた焔に驚いたように揺らぐ。だが、すぐに――溶けるように混じり始めた。
焔の熱が白銀を溶かし、白銀の冷たさが炎を鎮める。赤と銀が絡み合い、ねじれ、衝突しながらも、奇妙に美しい調和を生む。
火久弥は護符の下で、苦々しく笑った。
(我の焔は、月には似合わぬと思ったが……意外と悪くないな)
夜空では、赤と銀が絡み合う光が巨大な円を描き始めていた。まだ輪郭はぼんやりと揺らいでいる。だが、確かに月は生まれつつあった。
──この儀が一夜で終わるものではないことは、火久弥も知っていた。
聖域へ向かう道中、月神がさらりと告げた言葉が脳裏に蘇る。
「新月は十二日をかけて成すもの。すぐには成らぬ」
(十二日だと?)
最初に聞いた時、火久弥は内心笑った。
(我の神通力があれば、一晩で事足りる。いや、半日でも過分だ)
そう思っていた。疑いもなく。




