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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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四十三 河

やがて、広大な河のほとりに辿り着いた。

月を失った空の下、黒く、深く、水はうねっている。流れは緩やかだが、底知れぬ広さを感じさせた。


月神はゆっくりと膝を折り、臘春を河辺の柔らかな土の上に下ろした。月神がかけた衣が乱れ、尾が完全に露わになる。


臘春は思わず月神の袖を掴む。


「……月神様……?」


その声はか細い。


「気の毒だが、こうなってしまった以上、汝をここに置いておくわけにはいかぬ」


月神は片手を伸ばし、臘春の変じた下半身──海蛇の尾へとそっと触れた。鱗が冷たく、しかし確かに生き物の温もりを宿している。


「汝の脚は、もはや人のものではない。だが、この姿ならば──海の中でも息をすることができる」


月神の指先が、尾を優しく撫でる。


「そしてこの河を下れば、やがて海へ出る……臘春。汝は現世へ渡り、そこで生きよ」


臘春の瞳が大きく見開かれた。震える唇が、言葉を探すように開閉する。


そのやり取りを、傍らで聞いていた火久弥の表情は歪んだ。


「……何を言っている」


火久弥は一歩、詰め寄った。


「それが神の言うことか。放り出すだけではないか。どうにか出来るはずだ、そなたは神だろう。このまま追いやるなど──」


「汝に咎める資格などない」


月神は冷ややかに言い放つ。


「この変異は汝の勝手な行為の果てによるもの。余は約束通り、臘春の命を繋いだ。怒るなら、己の浅はかさを怒れ」


火久弥は唇を噛み、拳を握りしめた。

その間に、臘春が震える声を絞り出す。


「……あの……月神様……」


月神は視線を臘春に落とす。


「新月の、儀は……どうなさるのですか……。私がいなければ……」


月神は目を伏せ、静かな声で告げる。


「……案ずるな。代わりは立てるゆえ、儀は滞りなく続く。汝が心を砕くことではない」


臘春の肩がわずかに落ちた。

その様子を見て、火久弥が再び口を開く。


「……待て」


火久弥は前に出た。


「我は、霊薬を取り込んだ身だ。ならば、その力は我の中にあるはずだろう」


月神が睨むより早く、火久弥は臘春の前に膝をついた。


「少し待て」


そう言って、臘春の変じた脚へ手を伸ばす。


「火久弥、やめ──」


その制止は間に合わなかった。


火久弥が力を込めた瞬間、指先から小さな火花が散った。それは治癒ではなく、熱として臘春の身体を走り抜けた。


「──っ!!」


臘春の悲鳴が夜気を裂いた。尾が激しく跳ね、鱗の数枚が焦げ、かすかな煙が立ち上った。


「しまっ……!」


火久弥は慌てて手を離す。


「すまぬ、臘春。今のは──」


だが臘春は答えなかった。ただ痛みに唇を噛み、よろよろと体を起こす。尾が土を擦り、ゆっくりと河へ滑り込んだ。


冷たい水が鱗を濡らし、臘春の体を優しく包み込む。一度深く息を吸い、ゆっくりと臘春は振り返った。


臘春の瞳は涙で濡れていた。だが、そこに浮かぶのは諦めだけではなかった。


「私は月神様の命に従うと、そう誓いました。ですから……月神様がそうしろと仰るなら……私は従います」


その言葉に、月神は一瞬だけ目を伏せる。少しの沈黙の後、静かに口を開いた。


「臘春。余は汝をもう縛らぬ。……よく耐えた。行け。汝の命は、これより汝自身のものだ」


その言葉に臘春は頷き、深く息を吸う。

そして潜ろうと身を沈めかけた


──その時、火久弥が咄嗟に動いた。


火久弥は河辺に膝をつき、臘春の耳元にそっと身を寄せた。月神に背を向け、小さな声で何かを囁く。


臘春の動きが止まった。

彼女はゆっくりと顔を上げ、火久弥を見た。驚きと、何か温かなものが瞳に宿る。

臘春は小さく頷いた。


それから静かに月神の方へ体を向け、深く頭を下げた。


そして尾を振り、彼女は水の中へと滑り込んだ。水面が小さく波立ち、月を失った空を映す。


火久弥は立ち上がり、河の奥を見つめたまま動かない。月神もまた、ただ黙ってその場に佇んでいる。

遠くで水音だけが小さく響いていた。


──臘春の姿は、もうどこにも見えなかった。





水音が遠ざかり、闇だけが河辺に残る。火久弥はその場を動かず、拳を強く握り締めていた。


やがて月神が、ゆっくりと口を開く。


「……星祀りの巫女が、一柱欠けた」


火久弥は視線を上げぬまま応じる。


「そうだな」


「そうだな、では済まぬ」


月神は河の闇から目を離し、火久弥を見据えた。


「新月の儀は、十二の巫女が揃って初めて成る。欠ければ、新たな月は生まれぬ」


「……それで、どうするつもりだ。今から代わりを探すのか」


月神は首を振った。


「巫女は育てるものだ。時が足りぬ。……ゆえに汝は、責を取らねばならぬ」


火久弥は眉をひそめる。


「責を取る、だと?」


「臘春の代わりを、立てなければならぬからな」


その言葉に、火久弥の視線が鋭く跳ね上がった。


「……まさか」


「汝がやれ、火久弥」


「我が……巫女の代わりを?」


火久弥は乾いた笑みを漏らす。


「冗談もほどほどにせよ。我は祈りも舞も知らぬ。巫女の真似事など――」


「新月の儀は、舞を美しく揃えるためのものではない」


火久弥は眉をひそめ、反論しようとする。だが月神は、それを遮るように言葉を重ねた。


「汝は霊薬を取り込み、神通力を宿した身だ。既に人の域を超えておる」


月神の視線は、火久弥の胸奥を見透かすようだった。


「今から代わりの巫女を立てるより、よほど現実的だ」


「……理屈は分かる。だが、我がやる理由がない」


そう言い切りながらも、火久弥の声はわずかに鈍った。


月神は河の方へ視線を投げる。

臘春が消えていった、その流れの先へ。


「理由なら、すでに汝の中にあろう」


火久弥は黙り込んだ。

脳裏に臘春の表情が蘇る。しばしの沈黙の末、火久弥は小さく息を吐いた。


「……我が不慣れで儀を穢そうが、責は取らぬぞ。それでも良いとゆうのなら……引き受けよう。その新月の儀とやら」


月神は静かに頷いた。


「それでよい」


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