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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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四十二 朱き月

「……………」


しばしの間、月神は何も言わず、ただ臘春を見つめていた。言葉を持たぬ視線の奥に、測りかねる思考が沈んでいる。その視線に、臘春は思わず息を呑む。


やがて月神は歩み寄り、迷いのない所作で臘春の身体を抱き上げた。


「……月神様?」


「案ずるな」


短く告げると、月神はそれ以上の説明を与えぬまま、視線を火久弥へと向ける。


「ここを出る。汝もついて来い」


火久弥は口元を歪めた。

指図されるのが心底気に入らぬという顔だ。だが、炉の熱と閉塞に満ちたこの場所に、未練があるわけでもない。


「……ふん」


短くそう漏らし、渋々と月神の後に続いた。


月神が進む先、天井の高みから――再び、淡い月の光が射し込む。その光は柱のように床へ降り、静かな円を描いていた。


月神は躊躇なくその光の中へ踏み込んだ。

瞬間、臘春の視界が白く染まった。音が消え、匂いが消え、体温すら遠のくような浮遊感に包まれる。




白く染まった視界が、ゆっくりと色を取り戻す。


最初に感じたのは冷えた夜気だった。次に、硬い床の感触。


月神は臘春を抱いたまま、辺りに視線を巡らせる。


「そろそろ刻限(こくげん)だ」


月神は(きびす)を返し、そのまま歩き出す。

月神の足取りは確かで、まるで何かに導かれるように一直線だ。回廊を抜け、扉が音もなく開く。


「……まったく、勝手な神だ」


背後から、火久弥の不満げな声が追ってくる。


「連れ出したかと思えば、今度は黙って先を急ぐ。説明というものを知らぬのか」


文句を言いつつも、その足取りは迷いなく月神を追っていく。


月神殿を抜け、見えたのは──朱く染まった月だった。


満月は血のように赤く妖しく輝いている。


そしてその前に、巨大な影が立ち塞がっていた。


狼だ。


通常の数十倍はあろうかという巨狼。銀の毛が逆立ち、牙は朱い光を浴びて妖しく輝く。口を開き、喉の奥から地を震わせる咆哮を上げながら、ゆっくりと朱き月へ近づいていく。


臘春の胸が締めつけられた。あの狼の姿に、否応なく思い浮かぶ名がある。


(朔臣殿……)


月神は足を止めずただ一言、静かに告げた。


「見よ。あれが始まりだ」


その言葉が終わるより早く、巨狼が動いた。銀の毛が朱い月光を弾き、巨大な顎が開かれる。牙は刃のように鋭く、放たれた咆哮が空気を引き裂いた。


そして──狼は跳んだ。

満月へと、まっすぐに。


臘春は絶句した。あり得ない。月は遠い。あんな距離、どれだけ巨大でも届くはずがない。


だが、巨狼の姿は歪み、影のように伸び、朱く染まった円盤へと絡みついた。まるで月が狼の餌であるかのように。


ガブリ、と音がした気がした。

次の瞬間、月が欠け始めた。

最初は端から。黒い影が食い込み、朱い光が零れ落ちる。狼の口が、月を、噛み、引き裂き、飲み込んでいく。光が弱まり、赤が褪せ、闇が広がる。


やがて――

満月は、完全に喰われた。


空から光が消え、国中が底のない闇に沈む。



「……ほう」


低く、掠れた笑いが漏れる。それは驚きでも恐怖でもなく、研究者が珍しい標本を見つけたときのような声音だった。


「月を喰らう狼とはな。随分と贅沢な役目だ。我にもその馳走の一片を寄越してみせぬか」


闇の中で、火久弥だけが光っていた。

身体の輪郭を縁取るように、柔らかく白い光が滲み出ている。まるで内側から灯る灯火のように闇を押し退け、周囲をぼんやりと照らしていた。それは決して眩しくはなく、静かで、しかし確実に存在を主張する光だった。


その光に浮かび上がったのは、臘春の姿だった。


彼女は両手で自分の脚を掴んでいた。

闇とともに噴き出した穢れが、黒い脈のように皮膚の下を這い、急速に集束していく。臘春が着ていた袴は引き裂かれ、地に落ちた。


そして足首から先がじわじわと、しかし確実に形を失っていく。

人の脚ではない。

滑らかで、冷たく、長い──鱗に覆われた異形の尾へと変じていった。


ぬめりを帯びた光沢。節の連なり。

力を持て余すように地を打ち、痙攣し、伸び、また縮む。


「……あ、ああ……! 脚が、脚が……!!」


臘春は半狂乱に叫び、自分の下半身を見下ろす。目を見開き、息は荒く、涙が頬を伝う。



臘春の下半身が、長く、太く、蛇のように変形していく。鱗は光沢を帯びて闇に溶け込む。尾の先が地面を叩き、ぬるりとした感触が伝わってくる。


脚の感覚が、完全に失われた。自分の下半身が、そこにあるのに、まるで他人のもののように遠い。


「いや……いやだ……これは、何……!」


声が震えた。臘春は必死に手を伸ばし、自分の変形した下半身を触る。冷たく、滑らかで、生き物のように脈打っていた。


「臘春……? そなた何を……いや、これは……」


尊大な口調が崩れ、そこに珍しく困惑が滲んだ。火久弥は歩み寄り、臘春の変じた下半身を見下ろす。鱗の連なりが、闇の中で鈍く光っていた。


「……どういうことだ。これは一体、何事だ」


月神もまた、その異形へと静かに視線を落とす。


「……月の光が失われた。余が抑えていた穢れが、行き場を失い一気に溢れ出たのだ。そのすべてが、臘春の脚へと集まった」


月神は静かに息を吐いた。


「これが神託の意味だ。月神が力を失う──浄化の力が、消えるということ」


沈黙ののち、月神は火久弥へと向き直る。


「……これは汝の責任だ、火久弥」


断じる声に怒気はない。ただ、揺るがぬ事実だけがあった。


「我のせいだと?」


火久弥は鼻で笑うが、その視線は臘春から離れなかった。臘春はかつて脚だった部分を触り、静かに涙を溢している。


「果園へ連れて行ったのは我だ。蛇に噛まれたのも、我の不覚──そこまでは否定せぬが」


「妖に噛まれた時点で、臘春の身には呪いが刻まれていた。妖へと変ずる因果だ。……だから余は、霊薬を取りに炉へ赴いた」


月神の視線が火久弥を射抜く。


「汝を解放するためではない。臘春の脚を、完全に癒すためだ。だが……壺は空であった」


月神の声が、わずかに低くなる。


「霊薬は、誰かの手によって失われていた」


「我は霊薬なぞ飲んでおらぬ」


火久弥は即座に言い返した。だが、すぐに記憶の片隅が疼く。


「……いや、待て。あの炉に閉じ込められたとき……好奇心から、壺を覗いたことはある。匂いを嗅ぎ、舌先に触れたが……」


火久弥は眉を寄せる。


「つまらぬ味だったゆえ、飲む気など起きなかった。断じて、すべては飲んでおらん」


月神はその言葉を否定も肯定もせず、静かに告げた。


「汝は当初、“実を盗もうとした”と余に告げたな。だが実際は、すでに口にしておったのだろう?」


「…………」


「炉に沈められ、業火に焼かれながら、しかるに汝はこうして生きておる。それこそが証だ」


月神は、闇の中でほのかに光る火久弥の身体を見据えた。


「飲んだ、飲まぬの話ではない。実を食べ、神の身体を得たことで炎が媒介となり、霊薬は汝に取り込まれたのだ」


月神は、しばし沈黙したまま火久弥を見ていた。そこにはただ、裁定を下す前の神の静けさだけがあった。


「汝が取り込んだ霊薬は、神の身体と一体化した。取り戻す術はない。分け与えることも、吐き出させることも出来ぬ」


火久弥が息を呑む。


「待て。ならば……臘春はどうなる」


月神は答えず、臘春の方へ歩み寄った。


彼女はなお震えていた。異形と化した下半身を抱えるように身を縮め、月神を見上げる。その瞳には、恐怖と、不安と、かすかな期待が混じっている。


月神は無言のまま、自らの上衣を脱いだ。

それを臘春の下半身へ掛ける。完全には覆いきれず、布の隙間から鱗を帯びた尾の一部が覗いた。


それでも月神の手つきは丁寧だった。


「……余の不手際だ。すまぬな、臘春」


そして月神は、臘春をゆっくりと抱き上げ歩いて行く。


「どこへ行く」


火久弥が慌ててその後を追う。


「臘春をどうするつもりだ。そなたは助けると言ったはずだ!」


言葉は荒いが、その声には焦りが滲んでいた。


月神は歩みを止めない。


「答えよ、月神。臘春を──」


月神は耳を貸さない。まるで風の音を聞き流すように、ただ前を見据えて歩き続けた。


「くそ……!」


火久弥は舌打ちし、それでも追いすがる。


月神の沈黙が、何よりも不吉だった。


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