四十一 薬
月神は臘春を抱きかかえ、静かに歩き続けた。
「……余は、汝の脚の変化に気付いておった。汝はそれを隠していたが、余の目は欺けぬ」
臘春は目を伏せ、身を固くした。月神の腕に抱かれながら、心臓の鼓動だけが耳に響いていた。
「……知っておられたのですね。私は、どうしても皆に言えず……隠してしまいました。申し訳ありません」
「……果園の実を勝手に食らおうとした者は、妖に襲われる。噛まれれば、身は妖へと変じていく。園の周囲に蠢く妖は、かつて実を求め、己も妖となった者たちだ。汝もその一人となるはずであった」
月神は臘春の顔を見下ろす。
「とはいえ、案ずるな。余は処置を施した。進行は抑えられたゆえ、下半身のみの変化で済んでいる」
臘春は弱々しく言葉を紡いだ。
「……そうだったのですね。処置を施していただき、ありがとうございます……ですが、この脚のままでは、新月の儀を務められるか……」
臘春の脚にはじわじわと疼きが広がっていた。月神の傍にいる安心感と裏腹に、不安が胸を締め付ける。意識するたびに疼きが増すようで、儀を務められるのか疑念が浮かんだ。
「……その不安ももっともだ。完全に元へ戻すには、霊薬が要る」
「霊薬……」
「余はすでに調合を進めておった。時を要するゆえ、完成を待っていたのだが……」
月神は前を見据える。
「そろそろ、出来上がっている頃合いだ」
「……貴重な霊薬を、私ごときのために……」
声に出した途端、喉が詰まった。感謝と同時に、申し訳なさが胸に滲む。
「汝は儀を全うせねばならぬ。遠慮は無用」
臘春は月神の歩みに身を委ねた。どこへ向かうのかも分からぬまま、ただ静かな足音が続いていく。
臘春の視界の端に、ふいに淡い光が差し込んだ。気づけば、天井の高みから一本の月光が降り注いでいた。柱のように真っ直ぐ伸びる光が、床に円を描いている。
月神は臘春を抱えたまま、その光の中へ歩み寄る。すると臘春の視界は白く染まり、音も匂いも消えた。何もない空に浮かぶような感覚に包まれ、思わず目を閉じる。
──次に目を開けたとき、辺りは熱気に包まれていた。
視界の先には、巨大な炉がそびえたっていた。人が一人、ゆったりと身を横たえられるほどの大きい。
炉の上部には太い鎖が一本、天井から垂れ下がっていた。鎖は赤く熱され、ところどころ白く輝いている。その先は、炉の中の闇へと沈んでいる。
熱風が臘春の頬を撫でるたび、皮膚がちりちりと炙られるような感覚に襲われた。長くいたら骨の髄まで溶けてしまいそうだ──そう思うだけで臘春の背はぞくりと震え、思わず月神の胸に顔を埋めた。
月神は炉の傍らに据えられた大きな車軸に手をかけた。ゆっくりと回し始める。軋むような低い音が響き、軸に巻きついた鎖が少しずつ動き、天井の滑車をきしませながら鎖を引き上げていく。
最初は何も見えなかった。ただ、炉の奥から立ち上る熱気がますます強まり、臘春の息を浅くさせた。
やがて、鎖の先に大きな壺が姿を現した。表面は黒く染まり、蓋がしっかりと締められている。重そうに揺れながら、壺は炉の縁まで徐々に持ち上げられていった
そして、その壺の側面に──人影が浮かび上がった。
それは勢いよく炉の縁から飛び降りた。着地の衝撃で床が震え、火の粉が舞い上がる。
長い髪を翻し、炉の熱気の中で平然と立ち上がる。衣は煤と焦げ痕にまみれているのに目は鋭く輝き、口元には余裕の笑みが浮かんでいた。
「ようやく我を解放する気になったか、月神よ」
尊大な声が熱気の中で響いた。
火久弥だった。
火久弥は腕を組んで、月神を見据える。視線が月神の腕の中にいる臘春へと移った瞬間、わずかに眉が動いた。
「……何でそなたがここにいる」
火久弥は臘春の脚の異変など、知る由もない。ただ訝しげに、月神の腕に抱かれたままの臘春を見つめるだけだ。
「あなたこそ……なぜここにいるのですか」
火久弥の瞳が細められる。長い髪が炎の風に靡き、まるで生き物のように揺れた。
「我がここにいる理由など、一々説明する義理はない」
尊大な口調は相変わらずだ。だがその声には、どこか苛立ちが混じっていた。まるで予想外の再会に戸惑っているかのように。
臘春は月神の腕からわずかに身を起こす。月神から聞いていた言葉が、頭の中で思い返された。
「……月神様から、少しだけお聞きしました。あなたが、何らかの咎を受けていると」
言葉を選びながら、慎重に続ける。
「詳しいことまでは存じません。ただ……その………ご無事でよかった」
「余計なことを」
吐き捨てるような声音だった。
「咎だと?笑止千万。我は自らこの中に身を置いていたまで。炎は我を養う。弱き者の憐れみなど不要だ」
臘春にはその態度が強がりに思えた。だからこそ、それ以上踏み込まない。ただ、無事でいる姿を見て胸が少し軽くなった。
その間も、月神は静かに動いていた。
彼は車軸から手を離すと、炉の縁に据えられた別の小さな軸に指をかけた。それは天井の滑車と繋がる補助の巻き取りで、大きな軸とは逆に回すことで、引き上げられた鎖をゆっくりと緩められる仕組みだった。
月神は慎重にその軸を逆方向へ回し始めた。軋む音が再び響き、今度は鎖が弛みながら下りていく。壺は揺れを最小限に抑えられ、炉の縁から滑るようにして地面へと降ろされた。
壺が地に着いた瞬間、熱波が一気に外へ吐き出され、周囲の空気がゆらりと歪んだ。
火久弥は腕を組んだまま、月神の腕に抱かれた臘春を改めて見据えた。口元に冷ややかな笑みが浮かぶ。
「……いつまでそうして抱えているつもりだ。まるで壊れ物扱いではないか。臘春よ、月神の腕の中がそんなに心地良いか?」
臘春の頬がわずかに赤らんだ。月神の腕の中で身じろぎし、恥ずかしそうに視線を逸らす。
「そ、そんなの……仕方ないじゃないですか。脚が……」
臘春が続きを口にする前に、月神の声が静かに落ちた。
「これはまだ熱を帯びておる。汝には危うい。ひとまず、ここに座しておれ」
月神は臘春をそっと地面に降ろす。臘春は腰を下ろし、月神の顔を見上げて小さく頷いた。
壺は残熱がまだ強く立ち上っている。それでも月神はためらわず、素手で壺に触れた。
(……さっきまで炉の底に沈められていたものなのに。痛みもせず、平然と触れるなんて)
神の体は、人間とは違うのだと改めて思い知らされる。
月神は壺の蓋を外し、中を覗き込んだ。
──空だった。
霊気も、薬香も、そこに在るべき物が何一つない。
「……月神様?」
臘春が不安そうに声をかける。
火久弥も、さすがにその沈黙を訝しんだ。
「何だ、その顔は。壺がどうかしたのか」
火久弥は肩を竦め、興味半分といった様子で歩み寄る。
「どれ、我にも見せてみよ」
制止する間もなく火久弥は壺の中を覗き込み、せせら笑った。
「何もないではないか。これのどこが大層な代物だというのだ」
臘春は二人のやり取りを、座ったまま見ていた。
何が起こったのか、すべてを理解したわけではない。ただ、自分の脚を完全に治すはずの霊薬が、もうこの世に存在しないのだということが静かに胸に染みていった。




