四十 十一人
ここしばらく、臈春は侍女の手を借りることをやめていた。理由を問われはしたが、「一人で大丈夫です」とだけ告げて断っている。
その日も紐を解き、静かに小袖を脱ぐ。
脚に視線を落とすと、臘春は思わずぎょっとした。
脚に広がる鱗が、いつの間にか太ももの付け根まで届いていた。人の肌とは異なる存在をはっきりと主張している。
――いつの間にか、こんなにも。
そう思いはしたが、胸を衝くほどの動揺はなかった。驚きは薄れ、恐れも湧かない。
臘春は大きな溜め息をつきながら、何事もなかったかのように装束を手に取った。
○○○○○○○○○○○○
十二人の巫女たちはいつものように円になって座り、和やかな時間を過ごしていた。
ふいに扉が開く音がして、巫女たちはそちらに気を取られる。
そこにいたのは──月神。
予告もなく現れたその姿に、巫女たちは内心驚きを覚えていた。前回と同じように唐突だったので、またか……と思いつつ、みんな瞬時に表情を引き締め、静かに立ち上がり頭を下げた。
月神は優雅に微笑み、巫女たちの前に立つ。
早緑が口を開いた。
「お越しいただき、恐れ入ります。月神様」
瑞季は落ち着いた声で続ける。
「星祀りの巫女一同、謹んでお迎え申し上げます」
葉月は柔らかな声で問いかけた。
「本日、私たちにお伝えくださることは何でしょうか」
雪見は丁寧に言葉を添えた。
「月神様、私どもは準備を整えております。どうぞご指示を賜りたく存じます」
他の巫女たちは言葉を発さず、ただ姿勢を正して月神の前に立ち、敬意を示した。
月神はしばし巫女たちの顔を順に見渡し、やがて辺りに響く声で告げた。
「余は告げる。今宵、零時を回りし刻に月は朱く染まる。朱き月は獣に食われ、無月の刻が来る。その時こそ、新月の儀を執り行うのだ。汝ら、心して備えよ」
早緑の長い黒髪が揺れ、普段はあまり動じない彼女が、目を丸くして月神を見つめた。
花朝はいつもの眠たげな顔つきがすっと消え、まるで一気に目覚めたように瞳が冴え渡った。
雪見の整った顔は驚きに崩れかけた。時雨は勝ち気な顔を強張らせ、卯花は顔を青ざめさせて唇を結んだ。
葉月と瑞季も、穏やかで気品のある表情が引き締まり、臘春の心拍は上がった。
彌生が最初に声を上げた。小柄な体を前のめりにして、いつもの大きな声が少し上ずる。
「えっ、もうすぐじゃないですか!?」
すぐに口を押さえ、慌てて頭を下げる。
「し、失礼いたしました……」
サツキも驚きに目を見開いている。
「……心の準備はしていましたけど、まさか、そこまで早いとは思っていませんでした」
梢は静かに息をついてから口を開いた。
「……月神様のお言葉とあれば……わたくしども、精一杯務めさせていただきます」
涼はいつになく真剣な表情をしていた。
「……心を整えて挑みます」
月神は再び巫女たちを、ゆっくりと見渡す。
「汝らの心が乱れるのを、余は責めぬ。この儀は重く、長きものゆえ。だが、汝らは選ばれた十二人。互いの声を重ね、力を合わせる時、どのような闇であろうと越えられる。恐れず、誇りを持って臨め。余はそれを信じ、汝らを信じておる」
巫女たちはただ背筋を伸ばし、その言葉を受け止めた。
月神は一拍置いて、続ける。
「儀の詳細な流れについては――」
視線が扉の方へと向けられた。
「控えておる神官長より伝えさせる」
その言葉を合図にしたかのように、扉が開いた。神官長は月神に一礼し、巫女たちへと向き直る。
月神は最後に一言だけ残す。
「汝ら、心を一つに。今宵より始まる務め、しかと果たせ」
巫女たちは互いに視線を交わし、深く頭を下げた。部屋に再び静けさが戻る中、誰もが胸の内で同じことを思っていた──今宵、本当に今宵なのか、と。
神官長が一歩前へ出る。
「──よいか。今から話すことは、書も何もない。だからこそ、聞き漏らすな」
巫女たちの背筋が、揃って伸びる。
誰一人として私語はなく、視線は神官長へと集まった。
「儀の場は、空に遮るもののない地だ。神殿の遺構が残る場所。そこに十二星石が据えられている」
巫女たちはそれぞれ、頭の中でその場所を思い描いた。
「お主たちはまず、顔に月光石の護符を貼る。剥がれることはない。触るな、気にするな。意識を向けるのは声だけだ」
時雨が腕を組み、眉をひそめる。
「声はどのくらい出せばいいんですか?」
神官長は即座に答えた。
「張り上げる必要はない。だが、揃えろ。誰か一人でも乱れれば、全体が崩れる」
「……はーい」
花朝が、少し首を傾げながら控えめに口を開く。
「聖言は、ずっと唱え続けるんですか?」
「そうだ。休みはない。途中で止めることもできん」
その言葉に、花朝は少し戸惑ったような顔になるが、すぐに頷いた。
「……承知しましたあ」
卯花が小さく息を吸い、控えめに尋ねる。
「……途中で具合が悪くなった場合は……?」
神官長は即座に答えた。
「ならない。十二人でやる儀だ。欠ける前提で考えるな」
卯花はそれ以上何も言わず、ただ視線を伏せた。白い顔が、さらに色を失ったように見えた。
神官長は続ける。
「儀が進めば、十二星石の上から光が立ち上がる。白銀の柱だ。それが空へ向かい、月神の力によって一つに集まる。お主たちはそれを見上げるな。声を切らすな。足を動かすな」
臘春はようやく口を開いた。
「立ち位置はどのように?」
神官長の視線が、初めて臘春に向けられる。
「十二星石に一人ずつ立つ。配置はいつも通りに」
臘春は静かに頷いた。
「……分かりました」
神官長は一度手を叩いた。
「いつもの位置に立て。一度声を合わせてみよう」
巫女たちは無言で動き、十二人は円を描くように並んだ。
「始めなさい」
神官長の合図で、十二人の声が重なり合う。神官長は腕を組み、黙ってその様子を見ている。
──しばらくして、神官長はもう一度手を叩いた。
巫女たちは声を止め、それぞれに喉を押さえたり、肩を回したりする。
「今ので、ほんの導入だ。明日より始まる儀の刻には、途切れることなく続けねばならぬ。今のように揃えろ、乱れるな」
巫女たちは深く息を吐き、互いに視線を交わす。巫女たちは胸の奥で思った──これほど長い聖言を十二日間も唱え続けるのか、と。だが誰も口にはせず、ただ決意を固めるように背筋を伸ばした。
その後も、聖言の合わせは延々と続いていた。十二人の声が重なり、途切れることなく響き渡る。神官長は腕を組み、黙ってその様子を見守っていた。
ふいに、臘春は両脚に奇妙な重さが走るのを感じた。まるで脚が互いにくっついて離れなくなったように、動かしづらくなる。次の瞬間、膝が折れ、その場に倒れ込んだ。体が動かず、ただ床に横たわるしかなかった。
臘春の両脇にいた早緑と雪見がいち早く気づいた。
「どうした、臘春」
早緑が声を上げ、しゃがみ込む。
「 どうかなさいました……?」
雪見が心配そうに手を差し伸べる。
他の巫女たちも聖言を止め、倒れた臘春を心配そうに取り囲んだ。
臘春は何度も体を起こそうとした。腕に力を入れ、脚を動かそうとするが、上手く脚に力が入らず、また倒れてしまう。息が荒くなり、額に汗が浮かぶ。
それを見て、神官長も様子がおかしいことに気付いた。
「お前たち、臘春を寝かせておけ。動かすな」
巫女たちは頷き、臘春をそっと横にさせる。神官長は一瞬だけ臘春を見てから、深く息を吐いた。
「月神様をお呼びする。待っていろ」
そう言い残すと、足早に部屋を出て行った。
少し時間が経ち、部屋の扉が静かに開いた。月神が現れ、優雅な足取りで入ってくる。
月神はすぐに臘春の元へ近づき、しゃがみ込んでその体を軽々と抱き上げた。
それから、部屋に残る巫女たちに視線を移す。穏やかだが、どこか有無を言わせぬ響きがあった。
「臘春は余が預かる。汝らは声を乱すことなく、務めを続けよ」
巫女たちは一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに一礼した。
「はい、月神様。臘春殿のこと、よろしくお願いします」
瑞季が代表して答えると、月神は小さく頷き、臘春を抱えたまま部屋を出て行った。
残された十一人は、互いに顔を見合わせた。心配は残るが、月神の言葉に背中を押されるように、再び円を描いて位置につく。
神官長に促され、十一人の声は再び重なり始めた。




