四 穢れ (弐)
臘春はゆっくりと高御座へと足を進めた。袴の裾が床を滑り、音もなく進む。
最後の段を踏みしめ、高御座の上に立った瞬間、香の甘い香りが鼻をかすめた。
臘春はそっと足を踏み出す。
舞が始まった。
最初の一歩は重かったが、鈴が鳴るたびに足取りが軽くなっていく。
白の袖がひらりと空気を裂き、紫の袴が波のように揺れた。
手に持つ鈴は澄んだ音色を鳴らし、その音が空気の澱みを拭い去るように広がっていく。
──これは、心を鎮める舞。
──荒ぶる者の魂を安らかにするための奉納の舞。
臘春は一心不乱に身を捧げるように舞った。吸って吐く呼吸すら、舞の一部に溶けていく。
臘春の舞は佳境に入っていた。
袖が弧を描き、鈴の音が一つ、また一つと重なる。高御座の上で揺れる灯明の光が、臘春の背と髪を縁取って金色に染めた。
下に座る男はしばらくの間、その光景を黙って見ていた。膝を開いたまま座り、顎を引き、まるで獣が獲物を睨み付けるような眼で。
しかし臘春は、その視線に気づく余裕すらなかった。
ただ舞いに没入する。
この舞こそが、男の荒んだ魂を鎮めるはずだから。
やがて、最後の一振りが終わった。
臘春の袖が静かに落ち、鈴の音の余韻がすうっと消えていく。
臘春は息を整える。
いつもならここで相手の肩の力が抜け、目が潤んで、ぽろりと涙をこぼす頃だ。
どんな荒くれた男でも、鬼のような女でも、この舞を見終えると決まって同じ顔になる。
まるで長い悪夢から覚めた子どものように。
胸元に手を当て、臘春はゆっくりと男の方へと顔を向けた。
そこで臘春は、思わず瞬きをした。
男は。
退屈そうにしていた。
まるで「いつ終わるんだこの長い余興は」とでも言いたげな顔で欠伸を噛み殺している。
……ありえない。
この舞を見た者は皆、少なくとも険しい顔が和らぎ、心のどこかに静けさを宿す。
乱暴者ですら終わる頃には力を抜き、穏やかな目を見せるものだ。
ところが──目の前の男は眉間に皺を寄せ、うんざりしたように肩をすくめて言った。
「……おい。終わったのか? もういいか?さすがに飽きた」
臘春の胸がざわついた。
——舞が、効いていない。
これほどまでに“効かない”相手を見たことが、ない。
高御座の上で、臘春は呆然と固まった。下では縄に縛られた男が、あくびまじりにため息をつく。
「こんなものでどうにかできると思っているのか、人間は。つくづく愚かだな」
(どうして……?)
臘春は深く息を吸い込み、高御座の上で姿勢を正した。視線は縛られた男の瞳をまっすぐ捉える。胸の奥で、不安と緊張がざわめくが、臘春は自分を鼓舞するように心の中で呟いた。
──まだ、聖言がある。
「次は聖言にて、貴方の穢れを洗い清めましょう」
一歩前に踏み出し、両手を胸の前で組み、ゆっくりと息を吐く。
「これより聖言を奏上いたします。耳を塞がず、ただ受け止めてください」
男は手を縛られているので塞ぎようがないのだが、一応言っておく。
男は呆れたようにため息をつく。
「……まだ続くのか」
臘春は気にせず、静かに言葉を紡いでいく。
しかしかすかに聞こえてきた、男のいびきが臘春の集中を妨げた。
目を向けると男は完全に脱力して首をうな垂れ、堂々と寝ている。
「……」
臘春は詠唱を止め、そっと高御座を降りて男の元へ向かう。そして肩を掴んで揺さぶった。かなり乱暴に。
「──起きなさい。あなた、寝ていましたね」
男は半分寝ぼけた目で顔を上げ、鼻を鳴らす。
「……終わったのか?」
臘春は静かに、しかしやや苛立ちを含んで答えた。
「いいえ、終わっていません。あなたが寝ていたので、やり直しです」
「は?」
「聖言は、ちゃんと起きている状態で、耳を澄まして、心を開いて聞かないと意味がありません」
男は不服そうな顔で臘春を見上げた。
「長すぎる。もう一時間以上は経っている筈だ。そろそろ終わらせろ」
まだ十五分です、と臘春は無表情で答えた。
「そうか。じゃあ、終わったら起こせ。今はもう寝る」
男は欠伸を噛み殺しながら、ふたたび目を閉じる。
臘春は一歩踏み出し、声を低く落とした。
「話を聞いていませんね。あなたが起きていない限り、これはいつまで経っても終わりません」
男はうっすら目を開く。半開きの目が、眠気と苛立ちの混じった色で臘春を睨む。
「……脅しているのか?」
「脅しではありません。聖言は聞き手の魂に届かなければ、ただの空疎な響きになってしまう。あなたが寝ていて、心を閉ざしていては、儀は成立しません。つまり──」
「鬱陶しいな」
男はじろりと臘春を睨み付ける。
「ならとにかく早口で言え。さっきの半分、いや三分の一の時間で終わらせろ。我はもう我慢の限界だ」
臘春は奥歯を噛みしめた。喉の奥が熱い。こんな屈辱を味わうのは、何年ぶりだろう。
「……いいでしょう」
息を吸い込む。肺の奥まで空気を詰め込んで、まるで毒を飲み込むように。
「天地の理を司る御名において 汝が宿す穢れを 今ここに 剥ぎ取り 焼き払い 灰へと還す──」
普段なら荘厳に響かせる聖言が、今はただの早口言葉に堕している。それでも臘春は一文字も途切れさせない。
臘春は深く息を吸い、苛立ちと不安を押し込めながら最後の聖言の言葉を紡ぎ終えた。
臘春が口を閉ざした瞬間を見計らったように、男はわざとらしく大きな欠伸をした。
「……これで終わりか?随分と退屈な時間だったな。何が穢れ落としだ、馬鹿馬鹿しい。子守唄の間違いだろう」
男の態度は相変わらず尊大で、まるで自分が儀式を施させてやったかのような傲慢さを漂わせている。
臘春は男の嘲るような視線を真正面から受け止め、ゆっくりと目を細めた。
(……この男の穢れは落ちていない。これで落ちているはずがない。普通なら一回の浄祓で十分なはずなのに……この男は特別ね。特別に厄介だわ。)
「あなたの穢れは深すぎるようです。一回では足りない。二回目を行います」
臘春の言葉に男の顔は一瞬で歪んだ。露骨に嫌悪を浮かべ、眉を寄せて吐き捨てる。
「 ふざけるな。一回で十分だろう、こんな馬鹿げた呪文遊びは。我の時間を奪うな」
「あなたのその態度が、まさに穢れの証です」
臘春は静かに告げる。
「口を開くたびに、毒が滴り落ちる。傲慢さ、苛立ち、他人を見下す態度。それらが祓えない限り、私は続けます」
男はしばし沈黙した。
それは怒りと呆れと、理解不能なものに対する戸惑いがごちゃ混ぜになった、濁った沈黙だった。
臘春はその沈黙を真正面から受け止め、静かに立ち上がる。
「……では始めます。二度目の浄祓の儀を」
男の眉がぴくりと動き、口が開きかけた。
しかし臘春が再び舞い始めるとると、飲み込むようにして閉じられた。
ただし、顔は不機嫌そのものだ。
そして儀が半ばに差し掛かったとき──
「……ぐぅ……」
低い寝息。
臘春の目は鋭くなる。
(……また寝た!)
彼女は無言で近づき、男の肩をつかんで容赦なく揺さぶった。
「起きなさい!最初からやり直しです!」
男は薄い目を開き、うんざりした声音で唸る。
「……何度やる気だ……」
「あなたが寝なければ一度で済みます!」
そのやり取りが数度続いた。
臘春が聖言を響かせ、男が眠り、叩き起こされ、また最初から──。
やっと二度目の浄祓の儀が終わったとき、男は完全に不機嫌さを通り越し、感情の燃料が切れていた。
しかし臘春は男を解放しようとしない。まだ男を信用しきれていなかったからである。
「……まだです。三度目を行います」
男は、もはや驚きすらしなかった。
瞼だけが重く閉じ、低く呻く。
そして始まった、三度目の浄祓の儀。
ここまで来ると男も悟ったのだろう。
悪態は激減し、文句すらほとんど言わなくなった。
ただ、うつらうつらとはしている。
眠気と疲労で、意識の端を水面のように揺らしながら。
臘春は気付いた。
男が何度も欠伸をこらえ、体を揺らしながらも、必死で意識を保っていることに。
(……やっと、本気で聞こうという姿勢になったのね)
そうして三度目の儀が終わっても、臘春はやめなかった。
四度目。
五度目。
六度目。
時間は容赦なく過ぎていく。
十二時を告げる鐘の音が外から響いたとき──男はもう文句を言う気力すらなかった。
十四時を過ぎる頃には、臘春の喉も限界に近くなり、声が掠れていた。
だが続けた。
そして、十五時を告げる鐘が響いた。
儀式を始めて何刻が過ぎただろう。
部屋に満ちていた霊気は、もはや濁りを含まず、澄んだものに変わっていた。
男は頭を垂れ、半分眠りながらも、かろうじて意識を保っている。
悪態も、嘲笑もない。
ただ、静かだ。
臘春は男をじっと見つめ、小さく息を吐いた。
(……これだけやれば、さすがに落ちたはず)




