三十九 時
巻物の光が静かに収まり、二人の視界は現在へと戻った。
閉じられた巻物は、まるで何事もなかったかのように空中に漂い、やがて司録の手元へと戻っていった。
司録は淡々と告げる。
「次はご自身の記憶をご覧になりますか」
「……いや、もう十分だな」
朔臣が低く言った。
司録の方へ向き直り、首を振る。
「俺は見ない」
臘春も同じように頷いた。
「私も必要ありません」
司録は感情の読めぬ表情で二人を見つめる。
「そうですか。預かった記憶はいつでもお返しできるので、また気が向いたときにでも。いつでもお待ちしていますよ」
二人は軽く頭を下げ、億念院の重い扉を押し開けた。外は変わらぬ薄闇の世界で、点々とぼんやりとした灯りが揺れている。
「……狗彦さん」
その呼び名に、朔臣は少しうつむいた。
「前はそういう名前だったんですね」
「まあな。記憶を預けたときに、名も置いてきた。代わりに貰ったのが今の名だ。過去と切り離すには、都合がよかった」
それは説明というより、独り言に近かった。
「私も同じです」
朔臣が視線を向けると、臘春は少し困ったように笑った。
「嫌なことばかりでしたから。覚えていたら、きっと前に進めなかった。だから……全部置いていきたかったんです。……まあ、記憶を預けていたことさえ、今まで忘れていましたが」
「新しい自分になりたかったんだな」
「あなただって、そうでしょう」
臘春はそう言って、ふと悪戯めいた目を向ける。
「私の記憶、どうでした?」
「……」
朔臣は返事に詰まった。
「笑えたでしょう?」
臘春が追い打ちをかける。朔臣はうつむいたまま言葉を返した。
「笑えるようなものではなかった」
臘春はなおも悪ふざけをする子供のような顔で、言葉を連ねた。
「でも、どこか滑稽だったでしょう。役に立っているつもりで、私は空回りばかりしていましたから」
一方の朔臣は、苦い記憶を噛みしめるように眉を寄せていた。
「滑稽だったのは俺の方だ。あんな言葉を吐いて……ずっと悔いていたんだ。すまなかった」
「知っています。あのとき、あなたが何を思っていたのか。だからもう、謝らなくていいんです。私はもう、朝日ではありませんから」
朔臣は顔を上げ、臘春に向き直る。
「……そうか。臘春としてのあなたに出会えたことが、俺には何よりの救いだ。こうして思い出せたことも……」
朔臣の真剣な眼差しに、臘春は静かに視線を重ねた。
「……朔臣殿の顔を見ても、昔のことは何も思い出せなかった。でも……どこかで気付いていたから、互いの過去が気になったのかもしれません」
朔臣はその言葉に微笑を返す。
「そうだな。記憶を見てようやく思い出したが、きっと心では臘春殿を探していたのだろう」
臘春もつられたように微笑んだ。
「時間はかかりましたが……忘れてしまっても、きっと縁は残るのだと思います」
朔臣はその言葉に、どこか救われたように頷く。
「……臘春殿。新月の儀を終えた巫女たちは、役目を果たせば次の生へと進むのだと……あなたは、前にそう言っていたな?」
「ええ」
朔臣はしばらく黙していたが、やがて自嘲気味に笑った。
「……俺は満月の呪いを背負い、業の深い生き方しかできなかった。次に目を開いた場所で、臘春殿に会えるかは分からない」
それでも、と言葉を継ぐ。
「こうして思い出すことができた。忘れていたはずの名も、声も、過去もだ。たとえ僅かでも……その可能性に、賭けてみたいと思った」
臘春は足を止め、しばし朔臣を見つめた。
「朔臣殿……」
朔臣は視線を夜空へ向けた。まだ色を持たぬ月が静かに掛かっている。
「月が朱く染まるとき……」
ぽつりと、独り言のように呟く。
「……役目を終えたら、朧の門をくぐろうと決めている。向こうで何が待っているかは分からない。それでも……」
朔臣は臘春を見た。
「もし、次の生で再び会えるのなら。それは、業の深い俺には過ぎた望みだとしても……今度こそ、臘春殿と穏やかに語り合える日々を過ごしたい」
臘春は何も答えなかった。
ただ、夜風に揺れる衣の裾を押さえながら、ゆっくりと頷き微笑む。
新月の儀を終えた先にあるのは、還らぬ静寂だけだ。
それでも臘春は、彼の希望を否定しなかった。
朱に染まる月の下で、
一人は未来を信じ、
一人は未来がないことを知りながら。
それでも並んで歩く今だけは、確かに同じ時を生きていた。




