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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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三十八 山賊

それから間もなく、戸を叩く音がした。村の男が数人、息を弾ませて入ってきた。顔見知りの猟師や農夫たちで、皆、どこか興奮した様子だった。


「おい、朝日。さっき狗彦の姿を見たって奴がいたんだが、本当にここへ来たのか?」


私は嘘をつかなかった。

確かに戻ってきたこと、そして、この村を出ていくつもりだと言っていたことを、そのまま伝えた。


男たちは顔を見合わせる。一人が低い声で言った。


「そうか……それなら良かった。あれこれ言われるより、去ってくれた方が皆のためだ」


私は何も言えなかった。


その日のうちに、狗彦さんがいなくなったことは村中に広まったらしい。通りを行く人々の声が、遠くから聞こえてくる。


──これで、胸騒ぎが一つ消えた。


ほっとした、という声が多かった。私はその輪の中に入れず、黙って家の中にいた。



夜が更け、皆が寝静まった頃だった。突然、遠くから叫び声が上がった。最初は夢かと思った。だが、次に聞こえたのは激しい足音と松明の燃える音だった。


私は急いで戸外へ飛び出した。暗闇の中、炎がいくつも揺れ、村の家々が次々と火を上げていく。男たちは荒々しく叫びながら、蔵に押し入り、収穫したばかりの稲や粟を袋に詰め込んでいた。


山賊の一団が押し寄せてきたのだ。


抵抗しようとした者たちは、鉈で斬りつけられていた。血の匂いが風に乗って鼻を突く。



そのとき、父が私の腕を強く引いた。走れ──声にならぬ声が、耳に届いた気がした。


私は引かれるままに走った。火の粉が背に降りかかり、煙が喉を焼いた。村の外れまで来ると、父は私を低い石垣の影へ押し込んだ。そこは畑を囲う石積みの隙間で、背を丸めれば人目につかない。


息を殺し、耳を澄ます。松明の光が近づき、荒々しい足音が石垣のすぐ外を通り過ぎていった。土の匂いと冷たい石の感触だけが、私を現実に繋ぎ止めていた。


父は覆いかぶさるようにして私を守り、じっと動かなかった。炎の音、泣き声、怒号──すべてが遠くで渦を巻いていた。



夜明けが来る頃、村は見る影もなくなっていた。焼け落ちた家の骨組みが黒々と立ち並び、地面には灰と血が混じり合っていた。泣き叫ぶ子供たち、呆然と立ち尽くす大人たち。昨日の平穏が嘘のように思えた。


そして、すぐに噂が立ち始めた。


「狗彦が数日前からいなくなっていただろう」


「戻ってきたと思ったら、また消えて、その夜に山賊が……」


最初は小さな囁きだった。だが、恐怖に怯えた村人たちの口から口へと伝わるうちに、それは確信へと変わっていった。


「あの男が山賊と繋がっておったのだ」


「村の様子を探りに戻ってきたに違いない」


「やっぱり、あの男が手引きしたんだ。あいつが山賊と繋がっていて、村の様子を探らせていたに違いない」


そんな言葉が、次々と耳に入ってきた。


私は必死に否定した。

「違います!狗彦さんは、そんな人じゃありません。あの方が村を出ていかれたのは、皆に迷惑をかけたくないからで……」


でも、誰も聞いてくれなかった。

恐怖と喪失が、村人たちの心を支配していた。


誰かを責めなければ、やりきれなかったのだろう。噂はたちまち真実へと変わり、彼が山賊と結託していたという話が、村の新しい事実になっていった。





それでも村は生き延びようとした。


倒れた柱を起こし、茅や藁を重ねて、雨露をしのげる屋根を作る。父も私も、祈りの合間に手を動かした。みな腹は減り、寒さは等しく身に染みた。


冬を越すために蓄えていた干し米、(あわ)、豆、干魚──ほとんどが奪われた。


人々は山に入って木の実を拾い、堅い団栗(どんぐり)を灰で煮て渋を抜いた。川では小魚を掬い、野に残った芋の(つる)や根を掘り起こした。薄い粥を分け合い、灰を肥やしにしながら大根や(かぶ)の種を蒔き直した。


だが徐々に風は鋭さを増し、夜の冷え込みは骨まで染みるようになった。拾える木の実も少なくなり、川の魚も痩せ細って捕れなくなった。


皆の頰はこけ、目はくぼみ、子供たちの泣き声が夜ごとに響くようになった。腹が減ると、心も弱くなるものだ。


誰かがぼそりと呟く。


「今年の収穫がなければ、春まで持たないな……」


収穫は奪われ、冬を越せるかも分からない。

焼けた家はすぐには戻らない。

怒りの行き場はなく、人々の心は疲れ切っていた。


不満は降り積もり、やがて刃となる。


その対象が少しずつ、確実にこちらへ向いてくるのを感じていた。


「朝日があいつを連れてこなければ……」

「神司も、もっと慎重に判断なさればよかったのに」





ある日、人々が社の前に集まった。

父は皆の前に立ち、静かに頭を下げた。守れなかったこと、村が受けた痛みを、自分の責として引き受けるつもりだったのだと思う。


「責任を取れ!」


誰かの叫びに、別の声が重なった。怒号は次第に数を増し、ひとつの塊となって父に向けられた。


誰かが石を投げた。次に、鍬が振り下ろされた。父の体が、音を立てて崩れ落ちた。血が、乾いた土に染み込んだ。


私は叫び、駆け寄ろうとした。だが腕を掴まれ、引きずられた。着ていた衣は裂かれ、冷たい風が肌を刺した。


逃げようとしても、すぐに押さえつけられた。髪を掴まれ、顔を上げさせられる。罵声(ばせい)が降り注ぎ、頬を打たれ口の中に血の味が広がった。


「お前のせいだ」「お前たちのせいで、皆が死ぬんだ」


その言葉が、何度も何度も繰り返された。


石が投げられた。地面に押し伏せられ、まともに息も出来ない。


怒りに満ちた人々は、私をさらに激しく責め立てた。皆の視線の中で、人として扱われなくなっていくのを感じていた。



──どれほどの時が過ぎたのか分からない。意識は途切れ途切れで、いつの間にか夜の闇が村を覆っていた。風はますます冷たく、肌が凍りつくように痺れる。


雲の切れ間から、満月が覗いていた。


あの月は村がまた春を迎える日も、同じように昇るのだろう。


でも、その下に私たちの姿はない。

すべてが静かに冷えていった。


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