三十七 狗彦
気づけば、潮の匂いがした。
波が寄せては返し、砂を撫でる音が絶え間なく続いている。
海辺の小さな村に生まれた。波の音がいつも耳にあり、塩の匂いが肌に染みつくような場所。
神司の娘として、幼い頃から神の近くで育った。母は私がまだ小さかった頃、村を襲った熱病で亡くなった。
あの病は遠くから来た船乗りたちが持ち込んだものだと、村の人々は囁いていた。母は看病に当たり、穢れを祓おうと祈り続けたが、自身が病に倒れ、静かに息を引き取った。
十になる頃には、私は自然と社を手伝うようになっていた。
巫女と呼ばれ、占いの筒を振り、稲穂を供え、豊作を祈る。言葉の重さも意味も分からないまま、村の人々の顔色を見て、言葉を選んだ。
それでも、人が安心して息を吐く瞬間を見るのは嫌いではなかった。村の子供たちが病から回復したり、漁が豊かになったりすると、私の祈りのおかげだと言われ頰が熱くなった。
十三になり、私は父から祓を教わった。最初は緊張したが、回数を重ねるうちに手順が身体に染みついていった。
「祓いは、万能ではない」
父はいつもそう言った。
「だが、人の心を軽くすることはできる。それだけで救われる者もいる」
その言葉を、私は信じていた。
──そして、ある日。
社の裏手に人の気配を感じたとき、私は一人だった。村人たちが帰り、境内には風の音だけが残っていた。
ふと、枯れ葉を踏むような音が響く。
思わず、斎串を胸の前に構えた。
振り返ると、そこに立っていたのは、みすぼらしい男だった。着物は擦り切れ、髪は乱れ、目だけがやけに力強い。
怖かった。
何か得体の知れない影のような物が、男の周囲にまとわりついている気がした。
男は両手を上げ、低い声で謝った。
驚かせたこと。悪意がないこと。
そして、村人たちの感謝の言葉を聞いていたと言った。
「何をした?」
問いは素朴で、けれど切羽詰まっていた。
私は照れくさくなり、視線を逸らしながら答えた。
自分がしたことではない。
神が癒したのだ、と。
それでも男は祓を求めた。
病ではない、と言いながら、夜になると胸が締めつけられるのだと、どうにもならないのだと。
最後に、土に膝をつき、頭を下げた。
その姿を見た瞬間、胸が痛んだ。
恐怖よりも先に、哀れみが来てしまった。
──この人は、追い詰められている。
私は迷いながらも、父に取り次ぐことを約束した。
○○○○○○○○○○○○
祓が終わって、彼の横顔を見た。
無表情だったが、父が言った言葉を彼は深く受け止めたようだった。一度で尽きる穢れではない。重ねれば道は開けることもある、と。
そのあと、つい聞いてしまった。どこから来て、今はどこに住んでいるのか。
彼の答えを聞いて、私はまた哀れんでしまった。
男の名は狗彦というらしい。
なぜ放浪をしているのか、理由は分からない。人に言えぬ過去があるのかもしれない。
それでも、私は父に「少しの間でも家に住まわせられないか」と口にしていた。
会ったばかりの者を家に置くなど、普通なら躊躇うところだ。私自身、父に頼みながら、心のどこかで「本当にこれでいいのか」と問いかけていた。
もし彼が危うい者だったら?
もし、私や父に害をなすような人間だったら?
それでも、私は口を開いてしまった。
私はこの社で生まれ、ずっとここで育った。神に仕える身として、穢れを祓い、人を清め、祈るのが務めだと思ってきた。けれど、狗彦の姿を見たとき、ふと気づいたのだ。
──神は、穢れた者を遠ざけろとは言わない。
穢れを抱えたままの者を、ただ見捨てろとも言わない。
祓は、移し、流すこと。穢れを失くすのではなく、遠ざけて清めることだと、父はいつも教えてくれた。だからこそ、私は形代を川に流すたび、祈る。どうかこの人の穢れが、少しでも軽くなりますように、と。
狗彦は、まだ希望を捨てていなかった。一度で変わらなくても、何度でも祓を受けに来ると言った。あの眼差しに灯る光を見たとき、私は思ったのだ。
もし、屋根のある場所で眠れるなら。
もし、雨風を凌ぎ、火を焚いて体を温められるなら。
その小さな安らぎが、彼の穢れを少しでも削ぐ手助けになるかもしれない。
同情だけではない。
これは、私の務めの一部なのだと、自分に言い聞かせた。
神に仕える巫女として、穢れを抱えた人を、ただ遠ざけるのではなく、寄り添い、清めていくこと。それが、私の信じる道だ。
○○○○○○○○○○○○
数日前の朝から、狗彦さんの姿が見えなくなっていた。
いつもなら狩りに山へ入っても夕方には戻られるのに、その日は違った。翌日も、そのまた翌翌日も、家に帰ってこない。村の者たちに尋ねても、誰も見ていないと言う。
胸の内に、はっきりとした不安が生まれた。
山には狼も熊もいる。罠を見回る途中で、獣に襲われたのではないか。足を滑らせたのではないか。考え始めると、どれも現実味を帯びて迫ってきた。
父は、私が山へ探しに行こうとするのを止めた。私が行ったところで、かえって事態を悪くするだけだ、と。それで、私は家に留まるしかなかった。
それから数日が過ぎ、夕餉の支度をしていたときだった。戸口に人影が見えた。
狗彦さんが立っていた。
顔が疲れきっている。顔色が悪く、目に落ち着きがない。怪我は見えなかったが、何かあったのだと直感した。
彼は静かに「ここを出ていく」と告げた。
──どうして?どうして急に?
噂は確かにあった。でも、もう落ち着いてきている。村の人たちも、狗彦さんのことを少しずつ理解してくれている。
彼がここに居続けても迷惑になるはずがないと私は思っていた。だから、止めようとした。
でも、狗彦さんの目は決まっていた。祓を続けても無駄だと言い、強い言葉で突き放した。
私は、そんなに無力だったのだろうか。
これまで真摯に祈り、祓おうとしてきたのに。狗彦さんの苦しみを、少しでも和らげたい一心で続けてきたのに。
すべて、無駄だったの?
涙がこみ上げてきたけれど、必死に堪えた。
彼は背を向け、去っていった。




