三十六 朝
祓は何度受けただろう。
朝日は毎度、手を抜かなかった。祝詞を噛みしめるように唱え、斎串を振る。
その度に俺の胸に絡みつく穢れが、少しずつほどけていく──そんな錯覚を覚えた日も、確かにあった。
だが月は待ってくれない。
満ちる日を指折り数え、俺は数日前から村を離れた。獣道を抜け、人の声も何も届かぬ山奥へ籠もる。念のためだ。念を重ねるしか、俺にはできなかった。
満月の夜、俺は四つん這いになって山を駆けた。獣の咆哮を上げ、木々を薙ぎ倒し、岩を蹴散らす。満ち足りない腹と心を満たそうと夜通し駆け抜けた。
──だが、朝が先に来た。
日が差し込むと同時に体が元に戻り、俺は土の上に倒れ込んだ。誰も傷つけることなく済んだ。それだけが救いだった。
それでも飢えは消えなかった。 腹が減っているのではない。何かが、決定的に足りない。満たされぬ欲求が、胸の奥で爪を立て、噛みついてくる。
狼の牙も爪も失ったはずの身体が、なお獲物を探していた。人の姿のまま、鼻の奥が匂いを追い、耳が衣の擦れる音にすら過敏に反応する。
胸の奥では先ほどまで吠えていた獣が、姿を消してなお歯を鳴らしていた。
──危ない。
狼でなくとも、人は襲える。刃を持ち、力を持ち、欲を持つ限り。
俺は土に手をつき、荒い息を吐いた。
このままではいつか耐えきれなくなる。満月が来なくとも、飢えは募るばかりだ。心の奥に巣食う獣は、鎖など簡単に噛み千切るだろう。
朝日の顔が浮かんだ。
神司の、あの厳しくも温かな眼差しも。
俺がいるせいで、二人が囁かれる。
社に穢れを招いたと、余所者を庇った愚か者だと。
このまま留まれば、次は何が起きる。
満月の夜が来たら。理性が一瞬でも途切れたら。
考えるだけでも耐えられなかった。
だからこそ、決めた。
ここを出よう。
あの二人の善意を、これ以上削らぬために。
……そう決めてからも、しばらくその場を動けなかった。
土に残る自分の指の跡を見つめ、深く息を整える。獣の気配は、まだ胸の内で息づいている。今、誰かと向き合うのは危うい。だが、それでも──。
何も言わずに去ることだけは、できなかった。
俺は家へ向かった。
夕餉の支度だろう、竈から細い煙が立ちのぼっている。人の暮らしの匂いに、喉の奥が鳴る。
戸口に立った瞬間、朝日が気づいて振り返った。
「狗彦さん……?良かった、ご無事だったんですね。ここ数日、お姿が見えませんでしたから。何をしていたんですか?」
ただ純粋な心配だけがそこにあった。それだけで、胸が軋む。
「少し、外に」
それ以上、言葉が続かない。
彼女は手を止めて駆け寄ってきた。
「お顔、ひどくお疲れです。ちゃんと休めていますか」
──近い。
息が熱を帯びる。何もしていないのに、指先が疼く。
「朝日。俺は……ここを出ていくことにした」
朝日の目が、大きく見開かれる。
「……え?どうしてですか」
「ここに居続ければ、迷惑をかける」
できるだけ、静かに言ったつもりだった。
「そんなことありません!」
朝日は即座に首を振った。
「噂だって、落ち着いてきています。村の方々も……狗彦さんのこと、分かってくれるはずです」
──違う。
分かっていないのは、あんたたちだ。
そう思った瞬間、胸の奥で獣が牙を鳴らした。理性が薄く削られていく。
朝日の細い首筋がすぐ目の前にあった。肌の下で、血が脈打っているのが見える。甘い匂いが鼻をくすぐる。
もう限界だ。
このまま話を続ければ、俺は本当に──。
俺は声を荒げた。
「祓をしても、俺の心に積もった穢れは落ちない。見切りをつけた。もういい!」
朝日は唇を噛み、それでも食い下がる。
「続けていれば、いつかきっと……」
「無駄だ」
思わず強い言葉が口をついて出た。
「祓を受け続けたところで、何の効果もない。朝日の祓など、何の意味もない。役に立たない巫女のそばにいても仕方ないだろ!」
言った瞬間、自分でも分かった。
これは言ってはいけない言葉だった。
朝日の顔から血の気が引いていくのが分かった。俯き、ただ立ち尽くしている。
俺は胸を掴まれたような感覚に襲われた。
違う。そんなつもりじゃない。
引き留められたくなかっただけだ。傷つけたかったわけじゃない。
だが、今さら何を言っても遅い。
「……世話になった」
それだけ告げ、俺は背を向けた。
気まずさを誤魔化すように、足早に道を進む。
村を出て、どれほどの時が過ぎたのか。陽はすでに西に傾き、森の木々が長い影を落としている。都から遠く離れたこの山道は、人の気配もまばらだ。俺はただ、足を前に出すことしかできなかった。
満月ではないのに。
胸の奥で、獣が咆える。視界が赤く染まる。指先が震え、爪が伸びる感覚。だが、満月ではない。変身は止まり、体は人のままだ。なのに頭の中は、獣の欲に支配されていく。
――血が欲しい。
ふらつく足で山道を外れ、獣道に入ったときだった。
前方に、人の気配。
三人の男たち。猟師だろうか。粗末な布衣に身を包み、斧や槍を手に、疲れた様子で歩いている。夕暮れの薄闇の中、彼らの首筋が、朝日と同じように脈打っていた。
もう、限界だった。
俺は低く唸り、茂みから飛び出した。
「なんだ、てめえは!」
最初に気づいた男が斧を振り上げる。俺はそれを素手で弾き飛ばし、喉元に飛びかかった。だが、体は人のまま。獣の力ではない。長く歩き続けた疲労が、筋肉を蝕んでもいた。
槍の穂先が脇腹を裂いた。
痛みが、獣の欲を一瞬だけ後退させる。
次の瞬間、斧が肩に食い込む。血が噴き、俺は地面に叩きつけられた。
猟師たちにとって、突然襲いかかってきた酔っぱらいか狂人くらいにしか見えなかったのだろう。手慣れた動きで俺を囲み、容赦なく打ち据える。
怒りが湧いた。痛みに、獣が牙を鳴らす。
だが、同時に──どこかで安堵していた。
これでいい。
男たちは「頭がおかしい」と吐き捨て、俺を見捨てて去っていった。
追い打ちをかけなかったのは、俺がもはや脅威ではないと悟ったからだろう。
血を撒き散らしながら起き上がる俺の姿は、獣というより、哀れな亡骸に近かったに違いない。
俺はふらふらと立ち上がり、山の奥へと歩いた。
追ってくる足音はない。
助けも、追手も、もう何も来ない。
歩き続けているうちに、足元の感覚が曖昧になった。岩場だったのだろう。夜露で滑りやすくなっていた。
踏み出した瞬間、地面が消える。
身体が宙を舞い、何度も岩に打ちつけられる。音も、痛みも、途中から遠のいた。
──気がつくと、俺は谷の底に横たわっていた。空は細長く切り取られ、夜と朝の境目がそこにある。
息をするたび、胸が軋む。
血の味が口に広がる。
それでも不思議と穏やかだった。
獣はもう鳴かなかった。
理性も、衝動も、すべてが薄れていく。
最後に見えたのは、白み始めた空。
夜ではない、晴れ渡った朝。
俺はそこで、静かに息を止めた。




