三十五 満月
巫女はこちらを見た。
先ほどまでの張りつめた気配が和らぎ、ただの若い娘の顔になる。
「あなたは、どこから来られたのですか」
俺は水面に映る自分の顔を一度見てから、視線を戻した。
「山を渡り歩いてきた。生まれも育ちも、ずっと山だ」
「では……今は、どちらにお住まいで?」
一瞬、言葉に詰まる。
「住まいと呼べるものはない。夜は河原か、森の縁だ。雨の晩は洞や倒木の下を借りる」
口にした途端、その暮らしぶりが自分でもあまりに惨めに思えた。巫女は言葉を失ったように唇を結び、やがて視線を伏せる。
「……そうでしたか」
沈黙が落ちる。
川のせせらぎだけが、やけに大きく聞こえた。
「私はこの社で生まれ育ちました」
そう前置きして、彼女は名を告げた。
「朝日と申します」
朝日。
夜明けの名だ、とぼんやり思う。満月に縛られた俺には、縁遠い響きに思えた。
「狗彦だ」
名を返すと、朝日は小さく頷いた。
「……狗彦さんは、これからも祓を受けに来られるおつもりですか」
「ああ。許されるなら、何度でも」
その答えを聞いて、朝日はしばらく河面を見つめていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「少しお待ちください」
そう言って、父である神司のもとへ歩み寄る。
低い声で何事かを話し、神司は時折こちらを見やりながら、黙って耳を傾けていた。やがて神司がこちらへ向き直る。
「放浪の身であるなら、ここにしばらく留まるのも一つの道だ」
思いがけない言葉に、息が止まる。
「社から少し離れた所に、小さな家がある。娘と私が暮らすだけの粗末なものだが、雨露は凌げる」
朝日が、不安げながらも真っ直ぐこちらを見ている。
「ただし」
神司は続けた。
「先ほども言った通り、この社は豊かではない。居を与える代わりに、山の恵みを分けてもらいたい。獣でも魚でもよい。定期的に、食料を持ってくること。それが条件だ」
俺は思わず、深く頭を下げていた。
「……必ず果たす」
狩りなら、いくらでもできる。
それが人として許される形で役に立つのなら、拒む理由はなかった。
朝日はほっとしたように、胸の前で手を重ねた。
「では……今夜から、あの家を使ってください。海も近いですし、火を使う場所もあります」
川の流れが、変わらず足元を過ぎていく。
満月はいずれまた昇る。だが今は、眠る場所がある。
俺はその事実を、胸の奥で静かに噛みしめていた。
それからの暮らしは、思いのほか穏やかだった。
朝は潮の匂いで目を覚まし、昼は山へ入る。罠を見、弓を引き、川で魚を掬う。獲れたものは神司に渡し、余りは干して蓄えた。
朝日は祓いのたびに斎串を振り、祝詞を唱える。その声は静かで、聞くたびに胸のざらつきがわずかに鎮まる気がした。
変わった実感はない。
それでも日が重なるにつれ、朝日は俺に他愛もないことを話すようになった。潮の満ち引き、村の子らの悪戯、父が若い頃に山で迷った話。
俺も狩りの手順や獣の癖を話した。気づけば、互いの間に言葉が流れ、沈黙が苦ではなくなっていた。兄妹のようだと思う瞬間は確かにあった。
俺から受け取った食料を、神司は時々村の者たちに分け与えた。だが、村人たちの俺を見る目は厳しかった。
余所者だ。素性もわからぬ男が、なぜ神司の社に居着くのか。逃亡者ではないのか。匿えば、村全体で責任を負わされることになるかもしれんぞ。
そんな囁きが、風に乗って届いてきた。誰かが神司に詰め寄るのを見た。朝日が間に立ち、小声で何事か説明している。神司の「あの者に害はない」と、短く断じる声が聞こえた。
そんな折、村で祝いが催された。稲の実りを感謝する集まりだと聞いた。
朝日が嬉しそうに俺の手を取る。
「狗彦さんも、一緒に来てください。きっと、楽しいですよ」
俺は少し戸惑った。村人たちの視線が、まだ冷たいままだと知っていたからだ。それでも、朝日の笑顔に逆らえなかった。
祭りの日は、村全体が活気づいていた。稻を束ねた飾りが家の軒に下げられ、子供たちが笛を吹き、太鼓が響く。神司は厳かに詞を奏上し、朝日はその傍らで舞を舞った。袖が翻り、土鈴の音が夜空に溶けていく。
俺は端の方に控えていた。狩りの獲物をいくらか持ち寄り、それが祭りの膳に並べられたのを、遠くから見守るだけだ。
村人たちは俺に近づこうとはしなかった。時折、疑わしげな視線が刺さる。それでも、酒が進むにつれ、誰もが笑顔になっていった。子供たちが走り回り、老人が昔話を語る。俺はそんな光景を、静かに眺めていた。
祭りが終わり、火が小さくなっていく頃。朝日が俺の傍らにやってきた。
「狗彦さん、楽しかったですか?」
日は落ち、月が昇っていた。銀の光が村全体を照らしている。朝日の顔が、すぐ近くにあった。
俺は頷いた。
「ああ……賑やかで、よかった」
朝日は微笑んで、地面に座り込んだ。俺もその隣に腰を下ろす。人気のない、村の外れの小高い場所。
「でも、なんだか寂しそうに見えましたよ。……どこか、遠くを見てるみたいで」
鋭い娘だ。俺は苦笑して、夜空を見上げた。円形になりかけている月があまりにも明るく、白く輝いている。俺は胸の奥が不吉にざわつくのを、必死に抑えていた。
「満月の夜は……な」
つい、口が滑った。
「俺は狼になって、人を襲ってしまうんだ」
一瞬、朝日は目を丸くした。それからくすりと笑う。
「まあ、狗彦さんったら。怖い冗談をおっしゃるんですね」
俺ははっとし、慌てて口を閉ざす。心臓の鼓動がうるさい。
幸いなことに、朝日は冗談だと受け取ってくれたようだ。
朝日の笑みを見て、俺は胸を撫で下ろした。
だが背後で、枯れ枝を踏む音がした。
振り返るより早く、藪の向こうから小さな影が飛び出す。祭りの甘酒で赤くなった頬、手には食べかけの団子。村の子供だ。こちらを見て、目を輝かせたまま立ち尽くしている。
「……おおかみ?」
その一言で、腹の底が冷えた。
「あ、今のは――」
朝日が慌てて言葉を継ごうとするより早く、子供はくるりと背を向け、駆けていった。草を踏み、夜の闇に溶けていく足音が、いつまでも耳に残る。
俺はその場に縫い留められたように、月を見上げた。
噂は瞬く間に広がり、村人たちの視線は鋭さを増して俺に突き刺さった。
「狗彦が恐ろしいことを言っていた」
「満月に狼になるなど、妖そのものではないか」
「狼になると村の娘をさらっていくらしい」
「娘をさらうだけでなく、さらった娘に歌わせて山で宴を開くらしい」
「さらわれた娘は宴で踊らせられ、下手だと食べられ、上手なら酒を飲まされ、酔いつぶれたところを食われるそうだ」
「どっちにしても食われているじゃないか」
……噂には尾ひれがついていた。
俺は遠巻きに見る視線を肌に感じながら、槍鉋を手にしていた。削る木の音だけが、耳に心地よい。
やがて、数人の男たちが家にやってきた。鍬を手に、顔を厳しく引き締めて。
「狗彦。ほんまに満月になると狼になって娘をさらい、夜な夜な山で宴会大会なんてゆうたのか」
先頭の男は、確か村の長老の息子だ。名は……忘れた。力仕事が得意で、普段は気さくな男だったが、今は目が据わっている。
俺が口を開いたそのとき、朝日が駆けつけた。息を切らせて、男たちの前に立ちはだかる。
「待ってください! あれは冗談ですよ。狗彦さんがそんな恐ろしいことを本気で言うはずないでしょう?冗談を子供が面白がって広めたんです」
朝日の声は少し震えていたが、しっかりと響いた。
男たちは顔を見合わせる。
そこへ、神司がゆっくりと歩み寄ってきた。神司も静かに口を開く。
「この者は、我らの目の届くところで暮らしておる。村のために獲物も分けている。根拠のない噂で人を裁くべきではない」
しばらくの沈黙ののち、誰かが咳払いをした。
「……まあ、確かに子供の言うことだしな」
「あなたがそう仰るなら……」
男たちは踵を返し、去っていった。残された俺は、朝日と神司に向かって深く頭を下げた。
「すまなかった……迷惑をかけた」
朝日は小さく首を振った。
「いいんです。私、信じてますから。狗彦さんが、そんな人じゃないって」
その笑顔が胸を締めつけた。
次の満月まであと僅か。
俺はこの村に、いつまでいられるだろうか。




