三十四 祓
どれだけ月日が流れただろう。俺は人里を避け、放浪し、満月の夜を呪いながら生きていた。
山を離れ、森を抜け、気づけば足元の土は白く乾き、風は湿り気を帯びていた。遠くで波が砕ける音がする。振り返れば、山影はもう薄い。
人の気配を避けるように歩く俺の目に、小さな社が映った。
浜から少し離れた砂丘の端、松の木に守られるように建っている。朱も金もない、素朴な社だ。だが注連縄は新しく、扉の前には砂が撒かれている。
──まだ、神がいる場所だ。
そう思った途端、胸の奥がひどく疼いた。期待と諦めが同時に湧き上がる。
俺は社の前で膝をつき、手を合わせた。
どうか、この呪いを解いてくれ。
どうか、俺を人間に戻してくれ。
どうか、どうか……
だが、心の奥ではもう一つの声が嘲笑っていた。
──本当か?
あの満ち足りた感覚を、二度と味わいたくないと、本当に言えるのか?
俺は答えられなかった。薄暗い社の中、木々の葉ずれだけが聞こえていた。
その時、社の裏手から人の気配がした。
そっと目をあけると、白い衣をまとった若い巫女が村人たちに囲まれていた。彼女は小さな斎串を手に、穏やかに頭を下げている。
村の老人が深く礼を言い、籠に盛った米や干物を差し出していた。子供が恐る恐る近づき、巫女の袖を引く。彼女は微笑み、子供の頭を優しく撫でた。
「神様が守ってくださった。おかげで病が癒えた」
「これで海も穏やかになるじゃろう」
俺はその様子を、木陰から息を殺して見ていた。
神は応えるのか。
このような人もどきにも、祈りは届くのか?
老人がふと声を潜めた。
「……しかし、近頃は恐ろしい噂もある。狼の妖が村々を襲っていると聞いた」
別の男が顔を曇らせる。
「山を越えた里では、家畜が食い荒らされ、人まで喰われたと……ただの獣ではない、妖だと皆が言っておる」
子供が怯えたように母の袖を握り、母は巫女にすがるような目を向けた。
「どうか、この村だけでもお守りくださいませ」
巫女は静かに頷き、斎串を高く掲げた。
「神々の御力を信じてください。祈りは必ず届きます」
木陰からその様子を見ていた俺の胸中は、冷たい石を抱えたように重くなった。
村人たちは安堵したように顔を上げ、籠を軽くして村の方へ戻っていく。子供の笑い声が遠ざかり、足音がが消えるまで、息を潜めていた。
やがて境内には若い巫女だけが残った。白い衣の裾が風に揺れている。
その隙を俺は逃さなかった。
慎重に木陰から出たが、枯れ葉を踏む音が小さく響いた。
巫女がはっと息を呑み、振り返った。瞳が大きく見開かれ、斎串を胸の前に構えるように持ち上げる。
「──誰?」
俺が近づくと、彼女はびくりと肩を震わせる。まだ幼い顔に、驚きと怯えがはっきりと浮かんでいた。
俺は両手を軽く上げて、危害を加える気はないことを示した。
「すまない。驚かせた」
少し間を置いて、言葉を続けた。
「先ほどの話、聞いていた。村の者たちが、あれほどまでに感謝していたな。何をした?」
巫女は瞬きを繰り返し、すぐに視線を逸らした。頬がわずかに赤らむ。
「私はただ、穢れを祓い、祈りを捧げただけ。病も波も、神の御心が癒してくださったまでです」
「ならば……俺にも、その祓をしてくれないか」
巫女が顔を上げた。驚きが再び顔に浮かぶ。
「あなたは……どこか悪いのですか」
「いや、病ではない」
言葉を選ぶ。言わない方がいいことは、決して口にしてはならない。
「ただ、心に穢れが溜まって、どうにもならない。夜になると胸が締めつけられ、落ち着かない」
嘘ではない。苦しみそのものは本当だ。
「どうか……頼む。藁にもすがりたい思いだ」
俺は膝を折り、土に手をつき、頭を下げる。男として、こんな姿を見せるのは初めてだった。
巫女はしばらく黙っていた。風が二人の間を通り抜け、白い袖をはためかせる。俺の額が土に触れたまま動かないのを見て、彼女は小さく息を吐いた。
「……分かりました。神司にお伝えいたします。祓を願うなら、神司に取り次がねばなりません」
俺は立ち上がり、深く頭を下げた。
彼女は少し迷ってから踵を返し、社の奥へと消えていった。
──もし断られても、それが神の裁きだ。
そう思おうとしたが、心臓は落ち着かなかった。
しばらくして、戻ってきた巫女の背後には、年嵩の男が立っていた。白髪混じりの髪、白い装束の裾を静かに揺らしている。鋭い眼差しが、俺を凝視している。
「祓いを願うというのは、お主か」
「ああ」
声がかすれそうになるのを、必死で抑えた。
「条件がある」
神司は淡々と言った。
「この社は貧しい。祓いは神事であり、対価を求めるものではないが……供物があれば、神に願いを届けやすくなる」
待っていた言葉だった。
「ある」
俺は腰に括りつけた革袋を解き、中から血の気のない猪の腿肉を取り出した。仕留めたばかりのものを近くの沢の冷たい水で冷やし、塩を擦り込んであった。放浪の身でも、獲物を腐らせぬ知恵くらいはある。
神司はそれを見て、眉をわずかに動かした。
「……山の恵みだな」
「昨夜仕留めたものだ。祓を受けさせてもらえるなら、すべて捧げる」
しばしの沈黙ののち、神司は頷いた。
「よかろう。神に背を向けぬ心があるなら、それを無下にはせぬ」
俺は再び頭を下げた。
胸の奥で静かに蠢く獣に、気づかないふりをしながら。
神司は社の奥へ向かい、巫女に静かに指示を与えた。
やがて戻ってきた巫女の手には、藁で編まれた小さな人形があった。人の形を模してはいるが、顔はなく、ただ胸のあたりに朱で小さな印が記されている。
「身代わり形代だ」
神司が告げる。
「祓とは、穢れを斬ることではない。移し、流すことだ。人の内に溜まったものを、形に与え、神の御前から遠ざける」
巫女は人形を両手で掲げ、俺の前に立った。幼いが眼差しは澄んでいる。
巫女は人形を俺の胸元へと近づけた。斎串が振られ、祝詞が唱えられるにつれ、空気がひんやりと澄んでいくのを感じた。
──だが、それだけだ。
痛みも、熱もない。
胸の奥で眠る獣は、身じろぎ一つしなかった。
巫女は人形を引き取り、神司に渡す。
神司はそれを丁重に包み、社の外へと向かった。
海へ続く細い川のほとりで、巫女は人形を掲げた。
「大海原を鎮める神よ、山を守る神よ。ここに集う穢れを人形に託し、川へと送り奉る。どうか清め給え、守り給え」
そう祝詞を唱えると、ためらいなく水へと流す。
人形はくるりと一度回り、夕映えを映した水面に沈み、やがて見えなくなった。
「これで祓いは済みました」
巫女がそう告げる。
俺は自分の手を見つめた。
爪は人のまま。息も、心臓の鼓動も、いつもと変わらない。
……何も、変わっていない。
だが、それでも胸の奥に、わずかな灯が残っていた。今は動かぬ獣が、いつか鎖を失うかもしれない──そんな、根拠のない期待。
「一度で穢れが尽きるとは限らぬ」
神司の声が、その思いを見透かしたように落ちる。
「人の業も、呪いも、積もるものだ。だが、積もったものは、少しずつでも削れる。祓を重ねることで、道が開けることもある」
俺は深く息を吸い、頷いた。
一度で駄目なら、何度でも。祓を重ねれば、いつか呪いは薄れるかもしれない。
「……ありがとう」
声は掠れていた。巫女はただ頷き、斎串を胸に抱いた。
俺はまだ希望を捨てていなかった。満月の夜を呪いながらも、祓を受け続ければ、いつか人に戻れるかもしれない──そう信じるしかなかった。




