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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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三十三 戌

土と獣と、湿った草の臭いがする。

山の麓、霧が朝夕に降りる俺の家。


「狗彦、来い」


低い声に呼ばれ、俺は何も言わずに納屋へ入った。母が無言で差し出すのは、いつもあの重い毛皮。


湿った獣の匂いが鼻を突く。被せられると、頭が重くて息苦しくて、でも文句は言えない。言えば、父の掌が飛んでくるから。


「今夜もやるんだぞ」


父の声は低く、どこか楽しげだった。里の連中が怖がる顔を見るのが好きだったのだろう。


俺は毛皮を被り、四つん這いになって闇の中を這う。喉の奥から絞り出す遠吠えは、最初は震えていた。でも、何度も繰り返すうちに、上手くなった。


里の家並みが遠くに見える場所まで行って、月に向かって吠える。すると、灯りが一つ、また一つと消えていく。戸を閉める音、子守唄がぴたりと止む音。みんなが息を潜めるのが、俺にも分かった。


「戌神様がお怒りだ」

そんな囁きが、風に混じって聞こえた。



次の夜、母屋の前に供物が山積みになっていた。米、干物、酒。


俺はそれを見て、胸の奥がざわつくのを感じた。怖がられているから、こんなにたくさんもらえる。怖がられなければ、何ももらえない。



俺の一族は、里の人から戌神の遣いと呼ばれていた。

犬の霊を操り、他人に取り憑かせ、吠え狂わせ、死に至らしめる――そんな祟りを起こす、恐るべき家系だと。



始まりはただの偶然だった。

一族が飼っていた犬が、ある日を境に狂ったように噛みつくようになった。噛まれた者たちは高熱を出し、叫び、泡を吹き、やがて死んだ。


「戌神の祟りだ」


噂は瞬く間に広がった。一族と対立していた家の者ばかりが噛まれていたので、噂は恐怖と結びつき真実へと姿を変えた。



そして――一族はそれを否定しなかった。

否定しなかったどころか、利用することに決めた。



ある時、里の老人が俺たちに頭を下げながら言った。


「戌神様、どうか祟りをお許しください……」


老人は震えていた。本気で信じている。犬の霊なんて、最初からいないのに。


噛みついたのはただの犬で、死んだのは偶然だ。それなのに、みんなが信じればそれが真実になる。


父は笑って俺の肩を叩いた。


「いいぞ、狗彦。人は信じたいものを信じる。それを利用するのが賢い生き方だ」


俺は頷いた。でも心のどこかで、里人たちの怯えた目が焼きついて離れなかった。あの目に見つめられながら、俺は少しずつ、自分が何者なのか分からなくなっていった。


戌神の末裔。現人神。


家の者たちがそう名乗るようになった頃には、俺自身もどこかで本当にそうかもしれないと思い始めていた。




満月の晩、俺はいつものように毛皮をまとい、吠え声をあげた。声が山に反響する。

もう一度吠えようと喉を震わせたが──


視界の端に異物が引っかかった。

森の奥、古い祠の近くに何かがいた。


白い狼だった。

巨大で、静かに座している。月の光がその毛並みに降り注ぎ、銀ではなく、まるで冷たい青い炎が体を包んでいるように見えた。俺の遠吠えが山に響き渡っても微動だにしない。ただ、じっと俺を見下ろしているだけだ。


俺は吠えかけた声を喉で詰まらせた。


──違う。


理屈ではなく、身体が先に理解していた。

あれは、俺が真似てきたものとは、根から違う。


白い狼はやがて静かに立ち上がった。

祠の上で、月を背負いながら。


そして──吠えた。


空気が裂け、地が低く唸り、胸の奥を直接掴まれるような重さ。


俺が今まで積み重ねてきた遠吠えが、一瞬で嘘だと暴かれる。手足が勝手に震えた。


そのときだ。

声がした。

耳ではない。

頭の内側に、直接流れ込んでくる。


──欺瞞は通さぬ。貴様らは、我らの姿を穢した。


狼の目が俺を射抜く。


その視線の前で毛皮も、遠吠えも、犬神もすべてが薄っぺらな芝居に過ぎないと突きつけられた。


俺はその場に立ち尽くした。


逃げたいのに、脚が動かない。

吠えようとしても、声が出ない。



突然、白い狼の姿が光の残像を残して消えた。


と思った途端、耐え難い熱が体の中を駆け巡った。まるで溶けた鉄を血管に流し込まれたような、焼けつく痛み。毛皮の内側から、俺の肉体そのものが煮えたぎっている。


──真の獣となれ。血を欲し、肉を喰らい、その罪を償え


頭の奥で、冷たく響く声。拒絶する間もなかった。


体毛がざわめき、色を変える。血に染まったような深い黒と、冷たい月光を宿した蒼が混じり合い、俺の全身を覆っていく。


俺は必死に毛皮を剥ぎ取ろうとした。爪を立てて、引き裂こうとした。だが、指先が触れるのはもう、借り物の皮じゃない。俺自身の皮膚だ。


骨が軋み、太く、強く、ねじ曲がるように伸びる。筋肉が膨れ上がり、皮膚の下で鎧のように固く盛り上がった。


鼻が突き出し、口が裂けるような痛み。唇の間から零れるのは泡立った、粘つく液体。


歯が伸び、舌がざらつく。視界が歪み、匂いが洪水のように押し寄せる。血の匂い、肉の匂い、恐怖の匂い──それは吐き気と、得体の知れない渇きを俺に与えた。


膝が折れた。地面に手をついた時、もうそこにあったのは人間の手じゃなかった。黒と蒼の毛に覆われた、爪の鋭い獣の前肢。



違う。こんなのは俺じゃない。


だが、否定の言葉より先に身体が応えた。

胸の奥で何かが歓喜した。


吠えたい。

走りたい。

噛み砕きたい。


恐怖と欲求が絡まり合い、思考が千切れていく。


俺は初めて本物の遠吠えを上げた。


喉の奥から絞り出されるそれは、俺が今まで真似てきたどんな声よりも大きく、野蛮で、飢えに満ちていた。




遠吠えが夜の森を震わせた瞬間、四つん這いの姿勢が自然に感じられ、地面を蹴る爪先が土を抉る感触がたまらなく心地よかった。


風が毛並みを撫で、鼻腔を満たす土と獣の匂いが、胸の奥の何かをさらに煽り立てる。


違う、違う、と頭の片隅で叫ぶ声はあった。でもそれは遠く、弱々しく、すぐに欲望の咆哮にかき消される。


遠くに、懐かしい匂いを感じた。森を抜け、獣道を駆け、その匂いを追う。


森を抜けた先に灯りが見えた。

掘っ立ての太い柱がいくつも立ち並び、茅葺きの屋根が月明かりにぼんやりと浮かぶ。囲いの柵の向こうに、土間に置かれた竈から煙が立ち上り、夜気に溶けていく。家畜の匂い、干した獣皮の匂い──たくさんの、生きている匂い。


一瞬、頭の奥で何かが閃いた。


ここは──俺の──だが、次の瞬間にはもう、そんな思いは欲望の波に呑み込まれていた。


囲いを飛び越える。爪が木に食い込み、軽く身体を乗せただけで越えられた。


そのまま走る。低い姿勢で、地面を這うようにして家に近づく。戸が開く。男が槍を構えて出てきた。


男の槍が空を切る。俺は男に向かっていく。温かい血の匂いが広がり、男が倒れた。



○○○○○○○○○○○○



腹を満たすと、歓喜が体中を駆け巡った。こんなに満ち足りた気持ちは、生まれて初めてだった。


どれだけ時間が経ったのかわからない。月が傾き、空が薄明るくなり始めた頃、突然力が抜けた。


体が熱を失い、骨が軋み、毛が抜け落ちていく。地面に崩れ落ちた時、そこにあったのは血まみれの手。


俺の手だった。


周りを見回すと、鉄臭さが鼻をついた。開いたままの目で俺を見上げる幾つもの顔──知っている顔ばかりだ。


喉がひくりと鳴った。


「……俺が」


それ以上、言葉にならなかった。


吐いた。

胃の中のものだけでは足りず、魂まで吐き出すように、何度も。



それから、満月の夜が来るたびに俺は狼になった。


制御できない。欲望のままに森を駆け、野を駆け狩っていく。その度に、あの夜と同じ歓喜が体を震わせた。満ちる。満たされていく。これが本当の俺だ、と獣の心が囁く。


朝になり人の皮を被ると、決まって深い穴が胸に空く。それでも満月が来ることを、身体の奥では待っている。そんな自分に気付く度、自分が汚物のように思えた。


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