三十二 記憶
少し迷うような間の後、臘春は朔臣の横顔をうかがう。
「……あの、朔臣殿が最近、妙に優しくしてくださったのは……私に親近感を覚えたからですか?」
朔臣は鼻のあたりをかき、目を逸らした。どこかバツの悪い仕草だった。
「……まあ、否定はできないな。臘春殿も、何らかの呪いを背負っているのかと思ってしまってな」
「……それなら、呪いも悪いことばかりではありませんね。朔臣殿とこうして打ち解けられましたから」
朔臣はその言葉に戸惑ったように瞬きをし、やがてゆっくりと視線を臘春へ戻した。
「俺はずいぶん長い間、この場所に留まっている。百年か、二百年か……正確な年月はもう覚えていないが」
朔臣はそこで言葉を切り、表情を緩ませた。
「この話を誰かにしたのは、臘春殿が初めてだ。臘春殿になら、なぜか打ち明けてもいいと思えた。月神様に近い存在だからかな」
臘春は目を伏せ、控えめに首を振った。
「そんな、月神様に近いなどと……私はただの人ですよ。……でも、そう言っていただけるのは嬉しいです」
謙遜しつつ、臘春はふと気になっていたことを口にした。
「生前の朔臣殿は、ご自分が狼に変わってしまうことを、誰かに打ち明けたことはあったんですか?」
その問いに、朔臣はわずかに目を細めた。思い出の扉に手をかけようとする人のように。
「……どうだったかな。思い出そうとすると、霧がかかったように断片しか浮かばない。山を越え、森を抜け、どこをどう歩いたのか……誰と会ったのかすら、曖昧だ」
「……忘れてしまったのですね」
「…………そうだな」
「私もそうなんです」
朔臣が横目で彼女を見ると、臘春は再び月へ顔を向けていた。
「私も生きていた頃のことは、もう霞のようで。ここに来てからの方がはるかに長くて、思い出そうとしても手が届かないんです。家族の声も、名前も……自分のものだったはずの記憶が、他人の夢みたいで」
「……臘春殿でも、忘れることがあるのか」
「ありますよ。たくさん……でも、忘れても案外困らないものです。今こうして話している方が、ずっと鮮やかですから」
「……そうだな。忘れても困らん、というのは確かにその通りだ。だが――臘春殿が覚えていないのは、少し惜しいな」
臘春は朔臣の横顔を見つめ、静かに問い返す。
「……気になりますか?」
「気になるな。臘春殿がどんな道を歩んできたのか……」
「私も……朔臣殿がどんなふうに生きていたのか、気になります。呪いを抱えながら、どんな思いで生きていたのか…」
「……確かめてみるか?」
朔臣はそう言い、ゆっくり臘春へ視線を向けた。
臘春もまた、静かに頷く。
この国には司録と呼ばれる者たちがいる。
人が見聞きした記憶を保管し、管理する存在。
司録に頼めば、自分の記憶を恒久的に貸し出すこともできるし、他人の記憶を閲覧することもできる。
無辺の都の住人の大半は、他者の記憶を辿って過ごすとも言われていた。
だが臘春も朔臣も、さほど訪れたことはなかった。暇に任せて知らない誰かの恋だの戦だのを見て、へえ、と感心した程度だ。
自分の過去にはまるで興味が湧かなかった。
「……二人で行ってみませんか」
臘春は視線を地に落とした。
指先をぎゅっと握りしめ、息を吸う。
「司録へ」
夜風に髪を揺らしながら、朔臣はゆるやかに頷く。
「そうだな。臘春殿となら、霧の向こうへ手を伸ばしてみるのもいい」
○○○○○○○○○○○○
それから幾日か後の夜。
朔臣と臘春は務めを終え、着替えを済ませた後に司録のいる憶念院を訪れていた。
高い塀に囲まれた門をくぐり、薄暗い回廊の奥を抜けて広がるのは巨大な円形の書庫堂。
壁一面に巻物が幾万と収まっている。
幾重もの柱と簾に囲まれた広大な空間の中に、数多の司録がいた。彼らはそれぞれ忙しげに人々の対応をしたり、棚に収められた巻物を整理したりしている。
手の空いていた司録を見つけた二人は作法に則って一礼し、ここへ来た理由を伝えた。司録は巻物から視線を上げ、感情を読み取れない表情のまま淡々と繰り返す。
「お二人は互いの記憶を確かめ、その後にご自分の記憶をご覧になりたい、と」
朔臣が頷いた。
「ああ。ただ、すべてを見るには時間が足りん……それぞれが重要だと思っていた記憶の箇所だけを頼めるか」
臘春も隣で小さくうなずいた。
司録は二人の名が刻まれた札を空中へ放る。札は風もないのにふわりと舞い上がり、棚のどこかへ吸い込まれていった。
しばらくして棚の一角が光を帯び、二つの巻物が音もなく飛び出した。
ひとつは朔臣の記憶。
もうひとつは臘春の記憶。
巻物は二人の前でゆっくり水平に浮かび、白い紐が自然にほどける。
司録が告げた。
「どうぞ、開いてください」
朔臣は臘春の方へ目を向け、少し照れくさそうに笑った。
「……臘春殿。俺がどんな馬鹿な生き方をしていたか、腹の底から笑ってくれ」
臘春はくす、と息を洩らし目を細める。
「約束ですよ。……きっと私も、笑われるような人生だったと思いますから」
「そうか。なら、お互い様だな」
二人は笑い合い、同時に手を伸ばした。
朔臣は臘春の巻物へ、
臘春は朔臣の巻物へ。
巻物を開くと、金砂のような光が舞い上がる。光は渦を描き、二人の視界をゆっくりと覆っていく。
畳も、棚も、司録の姿も――すべてが水底へ沈むように薄れていく。
耳に届くのは、遠い遠い記憶の残響。




