三十 伴侶
臘春の御寝所には、静かな夜気が満ちていた。月光が淡く差し込み、寝台の上の臘春の影を柔らかく縁取っている。
その傍らに、すでに月神は腰掛けていた。
「……先ほどの話、さぞ戸惑ったであろう」
月神は臘春を気遣うように柔らかな声で言った。
「されど、心残りは抱くな。余は汝らが、曇りなき心でその時を迎えられるよう望んでいる」
「月神様……お伺いしてもよろしいでしょうか。皇母神様は……新月の儀には関わられないのですか?」
月神はゆるやかに首を振った。
「あの方は今や死を象徴する御方。新たに産み出す儀には不向きなのだ。生と死は交わることなく、余の務めは生を紡ぐことにある」
臘春はしばし目を伏せる。
それから、意を決したように顔を上げた。
「……では、月が生まれましたら……私どもは、どうなるのでしょうか」
月神はしばし沈黙してから答えた。
「汝らは──この国の新たな光となる。人々の夜を照らす、尊き存在だ」
臘春は小さくうつむいた。
はぐらかすように聞こえるその言葉が、逆に真実を指し示している。
「……つまり、私たちは消えるのですね?」
部屋を包む沈黙は冷たかった。
月神は肯定も否定もしない。ただ、臘春をじっと見つめていた。
臘春はその眼差しに逃げなかった。
「私は……元より、次の生など望んでおりませんでした。もし消えるのだとしても、本望です。他の巫女たちに不必要な混乱を招くつもりもございません。ですから、どうか……」
臘春がそこで言葉を切った時、月神はふっと苦笑した。
「……汝はまことに覚悟が早いな。己の終わりを恐れぬ心は強き証。余の傍に立ちながら、最後までその覚悟を保てぬ者もいたとゆうのに」
月神の苦笑は、どこか遠い思い出を含んでいた。臘春はその陰りに気づき、静かに問いかけた。
「……星祀りの巫女の本当の役割を、これまでお隠しになっていたのは……そのことが関係しているのですか?」
「……昔はな。星祀りに選ばれた者には、選定の段階で新月の儀の全て――最後に何が待つのかまで、正直に伝えていた」
淡々とした口調だったが、その言葉の裏に重みを感じられた。
「だが……汝が思うほど、皆が受け入れられるわけではない。次の生を望まぬ者であっても、自らの存在がまるごと霧散すると知れば……揺らぐ心もあったのだろう」
言葉を濁したが、その“揺らぎ”がどれほど深刻なものだったかは、臘春にも十分に察せられた。
「新月の儀が近づけば……己の務めを恐れ、星祀りを辞したいと願う者も出た。余は、その心を理解するのが遅れたのだ」
月神は視線を落とした。
「だからこそ、今は違う術を取っている。知らぬままに、最後まで歩ませる。それが、せめてもの慈悲だと……そう思うた」
(なるほど……だから真実を語らぬまま聖言だけを教え、時を待たせていたのね)
長く宮に仕える者たちは皆、この国に留まりたいと願う者ばかりだ。次の生など、端から望んでいない。年季の長い巫女の中から星祀りの巫女を選ぶのも、そういう事情を汲んだ所もあったのか、と臘春は腑に落ちた。
臘春はゆっくりと息を吸い、まっすぐに月神を見つめた。
「……どうかご安心ください、月神様。私は喜んで贄となりましょう。この身が役に立つのなら、それ以上の望みはございません」
その言葉に、月神はぴたりと動きを止めた。
驚いたのか、悲しんだのか、ひと呼吸だけ沈黙が落ちる。
そして、静かに首を横に振った。
「贄ではない。汝らは……余の妻だ」
臘春は少しの間、呼吸を忘れた。
その言葉はあまりに唐突で、そして優しかった。
「汝は余を誤解しておる。余が与える立場は贄ではない。汝は余の伴侶だ。束の間であろうとも、妻として余の傍にあり、気分よく過ごしてほしいと願うておる」
静かな声だった。
けれど、臘春にはそこに悔恨が混ざっているのが分かった。
(……星祀りの巫女に与えられてきた厚遇は、儀のためだけではなかったのだ)
それはきっと──月神様なりの、罪滅ぼし。
真実を告げれば怯える者もいる。
しかし何も告げず導けば、それは欺きにもなる。
その間で揺れ続けた末に選んだ、ささやかな配慮。“妻”という名の、温かな偽り。
臘春は胸の奥が締めつけられるような思いを覚えた。
「……月神様」
臘春は深く頭を下げた。
声は静かで、けれど確固たる意志を含んでいた。
「たとえその御言葉が私を慰めるためのものであっても……私は嬉しゅうございます。最後まで月神様に付き従います。それが、私の選んだ道でございますから」
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月神は臘春が眠っている間に姿を消す癖があるため、別れの気配というものがない。
その日も臘春がゆっくりと身を起こすと、既に月神の姿はなかった。
臘春は自分の脚に視線を落とす。
(……脚の鱗のこと……結局、言えなかった)
しかし、すぐに笑みが漏れた。
あれほど気になっていたはずのものが、今となっては取るに足らない。
(どうせ消えてしまう身。あの鱗がどうなろうと、もうどうでもいい)
そう思った瞬間、心のどこかで、自分がゆっくり本当の死への覚悟を固めつつあることに気付いた。
恐怖は不思議なほど薄い。百年以上も生きれば、心も少しは擦り切れるのかもしれない。
それよりも──臘春の思考は、自然と過去へ、過ぎ去ったはずの“生”へと向かっていた。
(生きていた頃……私は、どんな人生を過ごしていたのか)
ぼんやりと記憶の底を手探りするが、それは霞がかった夢のように散り散りで、形が掴めない。
百年以上という歳月は、人の記憶を静かに、しかし確実に風化させる。
臘春の記憶も例外ではなかった。
ただ、いくつか色濃く残る断片がある。
波の音。
潮風にさらされて傷んだ鳥居。
海辺の小さな集落。
そして、父の背中。
社で祀りを司る神司であった、厳しいが優しい父。
(私はあの人の娘で……生前も巫女だった)
臘春はそっと目を閉じる。
それ以上の記憶は波にさらわれた貝殻のように遠く、手の届かぬ場所に沈んでいた。
思い出せないことは増え、残るものはわずか。
だが、そのわずかな記憶が、今の自分と過去の自分を細い糸のようにつないでいる。
そしてその糸も――新月の儀が終わればぷつりと途切れるのだろう。
そのことを臘春は静かに受け止めていた。




