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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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三 穢れ (壱)

翌日──。


臘春(ろうしゅん)は予定された時刻のかなり前から起きて支度をしていた。

緊張でよく寝付けなかったのだ。


落ち着かない胸を押さえながら、臘春は儀礼用の衣裳に着替える。

白の上衣に深い紫の袴。

袖を通すと自然と身の内が静まり、背筋を勝手に伸ばしてくれる。

臘春はひとつ深呼吸して、長い髪を櫛で整えた。




(はらい)の間」は社殿の奥、誰もが入れる場所ではない。

四方の壁には季節を問わず灯る浄火が並び、ゆらめく炎が天井の金細工を照らして金色の波を描いていた。


中央には高御座(たかみくら)があり、この間を訪れた巫女はまずその前に跪いて祈りを捧げる。

臘春は息を整え、高御座の前に正座する。


(本来なら、私が迎えに行くのだけれど……)


本来の作法では、巫女が相手を案内し、手を取り、穢れを取り去る心の準備を整える。

だが今回ばかりは特例中の特例。


神官らが「巫女を近づけるのは危険」と判断し、数人の神官たちが男を連れてくることになっていた。


(正直、ありがたいわ……。近づいた瞬間に蹴られても困るし)


少しだけ憂鬱になりながらも、臘春は背筋を正し、目を閉じる。


その時。


廊下の向こうから、何かが暴れているとしか思えない騒音が近づいてきた。


「放せ!愚かな人間ども、こんなもの──」

「黙れ!動くな!押さえろ押さえろ押さえろ!!」


(……あ、来た)


臘春はゆっくり目を開き、香炉の煙を一度吸い込んで心を整えた。




廊下の向こうから響いていた騒音は、ついに目の前まで迫ってきた。

檜の引き戸ががたん、と勢いよく横へ滑る。


その瞬間、冷たい外気がふっと流れ込み、続いて足音が部屋に雪崩れ込んだ。


神官が五人がかりで、まるで巨大な荷物でも運ぶように男を担ぎ上げていた。

男はまっすぐ横倒しの姿勢で持ち上げられ、手足を太い麻縄で雁字搦(がんじがら)めにされている。

それでもなお暴れようとするたびに縄がきしみ、ぎりぎりと不吉な音を立てている。


不思議なことに男の肌は、まるで薄紙越しに灯した行灯のようにほのかに光を滲ませていた。内側から湧き上がる、生き物のような光だ。


五人の神官は息を合わせるようにして男を部屋の中央へと運び、乱暴に床へと下ろした。背中が硬い床にぶつかる鈍い音が、静まり返った部屋に響く。


「っ……!この野蛮人どもが!」


男は即座に毒づいた。腰まで届く茜色の髪が、投げ出された拍子に扇のように広がり、床を覆う。長身の体躯は縄で締めつけられてもなお威圧的で、縛られた足を振り上げ、一番近くにいた若年の神官の脛を狙って蹴りつけた。


「ぐっ……!」


若神官が膝をつく。残りの四人が素早く男の腕と膝を押さえつける。縄がぎりぎりと悲鳴を上げるように男の肢体を締め上げるのが見て取れた。


やっとのことで抑え込みに成功した神官たちはぜえぜえ息を切らしながらも、なんとか尊厳を保とうと背筋を伸ばした。


「……いいか。そなたが穢れ落としを大人しく受けるのであれば、この縄は外す」


男は床に押しつけられたまま、ぎり、と歯ぎしりをした。

縄で固定された手足が不自然な角度で持ち上がり、神官たちの腕に抵抗する。


その瞬間だった。


びくん、と男の肩が跳ねたかと思うと──押さえていた神官の掌がふっと浮いた。

ほんの一瞬、指の力が抜けただけ。

だが、そこに割り込むように男の全身がしなり、身体が畳の上をぐるりと転がった。


男は荒い呼吸を吐きながら、ぐっと顔を上げる。


「……ちっ。下らぬ縄の(たわむ)れをいつまで続けるつもりだ、愚かな人どもよ。穢れ落としだかししおどしだか知らぬが、(われ)を縛ってまでやりたいというなら勝手にするがよい」


神官たちは顔を見合わせる。

「……受ける、のだな?」

「大人しく、だな?」


男は鼻で笑い、そっぽを向きながらも、小さく吐き捨てた。


「二度は言わん。さっさと終わらせろ」


男は“仕方なく譲歩してやった”と言わんばかりの態度で顔を上げ――その視線が、臘春へと向いた。


男の視線が臘春を射抜いた、その一瞬。


臘春は呼吸を忘れた。


乱れた髪の隙間からのぞく男の顔立ちは、さきほどまで暴れ回っていた怪物じみた印象とは、まるで別物だった。


切れ長の目は鋭く光り、高い鼻梁(びりょう)と形の良い唇は、まるで職人が丹念に削り出したかのように整っている。


──今まで出会った誰よりも美しい。


自分でも困惑するほど、臘春は目が奪われていた。



臘春が思わず見入ってしまったその刹那、男は露骨に顔をしかめた。


「……なんだ、その目は。気味が悪い。人間はすぐそういう顔をする」


低く吐き捨てるような声音は、せっかくの美貌を台無しにするほど棘だらけだった。


神官の一人がすぐさま叱責する。

「無礼であろう!ここは神域だ、態度を──」


「黙れ」


男は縄に縛られたまま、堂々と顎を上げた。


「我は日の神の化身だぞ?なぜ下賤(げせん)な者へ敬意を払わねばならん」


神官たちが同時にこめかみを押さえる。縛られたまま動き回っていた時より、いまの尊大な態度のほうがよほど手に負えないらしい。


臘春は一度、胸の前で静かに息を整えた。


(……振り回されてる場合じゃない)


先ほどの動揺を振り払い、改めて巫女の顔に戻る。


臘春は膝を正して座り直し、男の前に進み出ると、落ち着いた声で宣言した。


「では──これより、浄祓(じょうばつ)の儀を始めます」


その言葉に、神官たちがほっと息をつく。


「巫女殿、後は頼みました……!」

「我らは外で待機しておりますゆえ、何かあればすぐ駆けつけます!」


彼らは慌ただしく立ち上がり、袖をひるがえしながら退室していく。


そして残されたのは、ほのかに輝く光をまとい、縄に縛られたまま仁王のようにふんぞり返る男と──


その男を前に、覚悟を決めた臘春だけだった。


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