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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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二十八 鱗剥がし

臘春の脚に走る違和感は、何日経っても消えなかった。


最初はただの疲れだと思った。

あるいは蛇に噛まれた名残で、そのうち治るだろうと軽く考えていた。


だが、ある夜。

御寝所の灯りを落とす前に、ふと自分の脚の様子を見ようと思い立ち、臘春は裾をまくり上げた。脚を見て、臘春は思わず息を呑んだ。


ふくらはぎに“何か”があった。


皮膚の上、ひやりと光を返す――

薄い鱗のようなものが、一つ。


目を凝らすと、それは皮膚に貼り付いた埃でも、擦り傷でもなかった。

触れれば、指先にわずかな段差。

わずかに硬質で、角度によって銀とも蒼ともつかない色に見える。


ありえない。

そんなもの、生えているはずがない。


臘春は慌てて袖でこすり落とそうとした。

だが、消えない。皮膚の一部として、確かにそこに存在している。


「……気のせい、だよね」


震える声で無理に独り言をつくり、ふたたび布で擦る。


けれど、鱗はただ静かに光るだけだった。





翌日。

鱗は一つ増えていた。

翌々日には三つ。


痛みはない。むしろ、触るとひんやりして気持ちいいくらいだ。

だからこそ、余計に怖い。



(……蛇に噛まれたせい?それとも……呪い?……実を食べさせたことの……?)


頭に浮かぶどの答えも現実味に欠け、それなのに目の前の異変は否応なく現実だ。


誰かに相談するべきだとは、臘春にも分かっていた。


けれど、鱗を見せればどう思われる?

何を言われる?

もし、忌むべき“何か”だと判断されたら――?


その想像だけで、臘春の身体は固くなった。布を乱暴に引き寄せて脚を隠す。


静かに侵食する異変を臘春は誰にも打ち明けられず、ただ一人で抱え込んだ。



それから更に二週間が過ぎた。


臘春の脚には新しい鱗が日毎に増えていた。

数えるのをやめたのは十日ほど前だ。

鱗の列は脛の側面をなぞるように、静かに広がり続けている。触れればやはり、ひやりと気持ちよい。


臘春の胸には不安が積もる一方だった。


ある晩、とうとう臘春は覚悟を決めた。裾をめくり上げ、鱗に爪を当てる。


(……剥がせば、元に戻るかもしれない)


爪を立てると、皮膚が一緒に持ち上がる。引っ張れば引っ張るほど、鱗の縁が肉に食い込み、鈍い痛みが神経を這い上がる。


臘春は気付いた。

鱗が皮膚に貼りついているのではない。皮膚そのものが、鱗へと置き換わっているのだ。


それでも臘春は手を止めなかった。


ガリッ、ガリッ、と爪でこすり、根元からねじ上げる。鱗は抵抗した。臘春は痛みを覚悟しつつつ、力を込め思い切り引っ張った。


(剥がせば、戻る。戻らなきゃ、私……)


ようやく鱗が剥がれた。

畳に転がるそれは、月明かりに濡れて青白く光った。裏側には、ちいさな血管のような赤い筋が走っている。


臘春は爪を立て、次の鱗へ指をかけた。

二枚目、三枚目と数が増えていく度に痛みは増していき、指が血で汚れていく。十枚を超えたあたりで、臘春の指は震え始めた。それでも止まらない。



気づけば、山になった鱗が小皿からこぼれていてた。それを見た臘春はついに手を止める。


脚は火照り、ずきずきと脈打っている。剥がした跡は赤黒く腫れ上がり、ところどころ血が滲んでいた。


用意していた軟膏を塗り込むが、傷口は多すぎて、たちまち薬が底をつく。

衣の裾を裂いて傷口に巻くと、布はすぐに血で染まり、冷たい感触が傷に染みた。



布を巻いた脚を、臘春は見下ろした。

痛む。

とても痛む。


なのに――布の隙間から、鱗が覗いている。


(……まだ……こんなに……)


暗澹とした気持ちが、じわじわと肺を満たしていく。臘春は両手で顔を覆った。指の間から、熱いものがこぼれ落ちる。


脚の痛みよりも、心の奥に巣食う恐怖のほうがずっと重かった。


そしてその恐怖は――

剥がしても剥がしても残る鱗のように、臘春の中で静かに広がり続けていた。



○○○○○○○○○○○○



それから、臘春の日課が一つ増えた。


寝る前に臘春は衣を捲り、淡々と鱗を剥がすようになった。


軟膏の消費は日に日に増え、瓶はすぐに空になる。 気づけば、侍女に頼む回数も増えていた。


ある日、軟膏を持ってきた侍女が心配げに眉をひそめた。


「あのう、そんなに調子がよろしくないのでしたら、一度診てもらったほうが……」


その声音には、不信と戸惑いが滲んでいた。

臘春の心臓が跳ねる。


(疑われるわけにはいかない。誰にも見られたくない。)


臘春は笑顔をつくり、首を振った。


「大丈夫。ちょっと……擦り傷が多くて。治りが悪いだけです」


侍女はなおも首を傾げたが、それ以上は追及してこなかった。

ただ、遠くから臘春の脚をちらりと見た目が、妙に刺さった。


侍女が去ると、臘春は大きく息を吐いた。


(……もう頼めない)


胸の奥でそう呟いた瞬間、臘春は決意したように視線を上げた。





夜が深まり、宮の灯りがすべて落ちるのを待つ。灯篭の火が一つ、また一つ消え、侍女たちの足音も遠のいた頃──臘春は静かに立ち上がった。


御寝所の蔀をそっと押し上げる。

冷えた夜気がするりと室内へ流れ込み、臘春の頬を撫でた。


白い息を吐き、臘春は闇に紛れて宮を抜け出す。足音を殺しながら、庭を横切り、軟膏をしまっている蔵へと向かった。


扉には予想通り錠がかけられていた。

しかし臘春の目は、壁の高い位置に備え付けられた大きな遣戸へとすぐに向いた。

常に月の光が届くようにと、四角い暗がりは開いたままにされている。


(……あそこからなら、入れる)


臘春は裾をたくし上げ、壁に手をかけて登ろうとする。


だが遣戸は、手を伸ばしてもあと二尺ほど届かない。爪先立ちになり、指を伸ばし、体を跳び上がらせるたび、腕が震え、足が滑りかける。


(もう少し……あと少し……!)


爪を立てるようにしてようやく縁を掴んだ。

腕に力をこめ、身体を持ち上げる。



「――何をしているんだ」


低い声が背後から聞こえた。

驚きで手の力が抜け、指がするりと離れる。


「……っ!」


世界がふわりと反転し、月がぐるりと視界を過ぎ、臘春は後ろ向きに落ちた。

幸い、足元は柔らかな土で、衝撃は思ったほど強くない。


(……誰?)


臘春が顔を向けると、月光に照らされた黒髪の男──朔臣がそこに立っていた。

額を出した端正な顔立ちに影が落ち、鋭い眼差しが臘春を射抜く。


「こちらは許可なく立ち入ることを禁じられた場所でございます。星祀りの巫女様、どうかお引き取りを」


普段とは違う、妙に畏まった口調だった。

臘春は思わず瞬きをする。


(……巫女様って、私のこと……?)


少しして気づく。

自分が今や“星祀りの巫女”として扱われる身であることを。


臘春が納得したとき、朔臣の目が大きく見開かれた。


「脚が……!」


はっとして臘春も視線を落とす。

落ちた拍子に長い裾が大きく捲れ上がり、臘春の脚は月光に晒されていた。傷口に巻いていた布も半分ほどほどけて、隙間からは傷んだ脚が見えている。


「っ……!」


臘春は慌てて裾を引き寄せ、脚を覆い隠そうとする。しかし朔臣は一歩近づき、膝を折って臘春の前にしゃがみ込んだ。


「この脚……どうしたのですか」


臘春は視線を逸らしながら、か細い声で答えた。


「……怪我をして……ただ、それだけです」


裾を必死に握りしめ、脚を隠そうとする。だが朔臣は臘春の脚を凝視したまま、低く言葉を返した。


「……いや、違う」


「え?」


「先ほど――確かにこの目で見ました。あなたの肌は……魚の鱗のようになっていた。あれが擦り傷のはずがない」


臘春は目を伏せ、黙り込む。

どう誤魔化そうか考えるが、上手く言葉が見つからない。


「臘春殿……脚に呪いをかけられているのではないか?」


追い詰めるつもりなどないのだろう。

けれど臘春の胸は一気に締めつけられた。


臘春はやがて観念したように小声で返す。


「……私にも原因は分かりませんが……呪い、かもしれません」


「でしたら……早く、月神様にご相談を。月神様なら、きっとどんな呪いでもお救いくださるはずです」


臘春は俯いたまま、小さく返す。

「……ええ……そうします」


今はそう言うしかなかった。


「……このことは……誰にも言わないでください。お願いします……朔臣殿」


「……もちろんです。臘春殿が望む限り、この口は決して開きません」



朔臣はふと眉を寄せた。

臘春の裾の端──そこに黒く乾いた血が滲んでいるのを見つけたのだ。


「……臘春殿、失礼します」


そう言うなり、朔臣は自分の外衣の裾をためらいなく裂いた。布が鋭く裂ける音に臘春は目を瞬かせる。


「朔臣殿!?服が……」


「止血を。放っておけば悪化しますから」


朔臣は裂いた布を丁寧に、臘春の脚に巻きつけていく。


「……鱗を無理に剥がそうとしてはいけません。余計に傷つきます。分かりましたか」


「……はい」


「……もしかして」

朔臣が顔を上げ、静かに問いかけた。


「軟膏を取るために、蔵に忍び込もうとしておられたのですか?」


臘春は肩をびくりと震わせ、やがて諦めたように吐き出した。


「……はい。侍女に頼んでいたのですが、使いすぎだと怪しまれて……脚のことは、どうしても言いたくなくて。……だから、自分で」


朔臣は目を伏せ、そして静かに頷いた。


「……お気持ちは、分かります。言えぬことも、抱えたままにしたいことも……誰しもありますから」


その言葉に臘春は目を見開く。真面目な神官である彼から叱責を受けると思っていたのだ。意外な理解に、胸の奥が少し温かくなる。


「軟膏なら俺も少し持っています。臘春殿の脚が少しでも楽になるなら、お渡ししたい」


「……え?」


思いもよらぬ申し出に、臘春は顔を上げた。

朔臣は、まるで自分のことのように心配そうな目をしている。


「今は持ってきておりませんし……人目もありますので」


朔臣は立ち上がり、衣の乱れも気にせず続けた。


「皆が寝静まる頃……ここでお渡ししましょう」


臘春は少し考え、そして控えめに尋ねた。


「では……翌々日でも、いいでしょうか」


臘春は胸の奥で呟く。

(明日は、月神様がお部屋に来てくださる日。抜け出すわけにはいかない。)


朔臣は頷く。

「ええ、構いません。翌々日──この場所で」


いつもと違って穏やかな微笑を浮かべる朔臣に臘春はぎこちなく微笑み返し、胸の奥の不安がほんの少し和らいでいくのを感じていた。


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