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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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二十五 罰

そこにいたのは月神であった。薄絹を顔に掛け、その面差しは見えない。

神官長が恭しく後ろに控えている。


「この者と話がしたい」


それを聞いた神官長は即座に深々と頭を垂れ、侍女へ視線で合図する。侍女は明らかにほっとしたような顔になり、深々と一礼すると神官長と共に部屋を後にした。


月神は静かに室内へ入り、臘春へ視線を落とす。火久弥は臘春の脚を覆い直した。


「この国で蛇に噛まれるは、実を盗もうとした者のみ。臘春がそれを為したのか」


火久弥は立ち上がり、静かに答えた。


「実を盗もうとしたのは我だ。蛇が我に襲いかかろうとした際に臘春は我を庇い、その牙を受けたに過ぎぬ。臘春は脅され、連れて来られただけの身」


月神を真正面から見据える。


「故に臘春は救え。あれは何一つ過ちを犯しておらぬ」


月神はわずかに首を傾けた。薄絹の奥、表情は読めない。


「……ずいぶんと尊大な物言いだな。だが、汝の言は理に適う。罪なき者を罰する理由は、余にはない」


その一言に、火久弥の表情がわずかに変わった。しかし安堵ではない。当然だと言わんばかりの顔付きだった。


月神は臘春から視線を離し、火久弥へ向き直る。


「臘春は助けよう。だが、汝には罰を受けてもらう」


「罰とは何だ」

火久弥は怯まず問い返した。


「釜茹でだ。煮え立つ大釜に沈める。執行はすぐ行う」


火久弥は一瞬だけ瞬きをし、それから淡々とした声で尋ねた。


「釜に沈められる時間は」


「告げぬ。終わりがあるかどうかすら、汝には知らされぬ」


火久弥は表情すら動かさぬまま頷いた。


「よい。好きにすればよかろう」


その一言には恐怖も覚悟も滲まず、ただ“気に入らぬが仕方ない”という、いつもと変わらぬ不遜さだけが宿っていた。


月神は臘春の脚を指先で確かめるように触れ、静かに告げる。


「では火久弥。汝は余と共に来い。臘春の処置は一旦他の者に任せるが、助けることは約束しよう」


薄絹越しの視線が、火久弥の動かぬ横顔を射抜いた。


「──逃れようとすれば、その瞬間に臘春の命も絶たれる。分かっていような」


火久弥は鼻で笑う。


「誰が逃れると言った。行けばよいのであろう、余計な口を挟むな」


「……そうか。では、ついて参れ」


月神は身を翻し、戸へ向かって歩き出す。火久弥は無言でその背に続く。

やがて戸が閉まり、臘春の寝かされた小部屋には静寂が満ちた。



○○○○○○○○○○○○



臘春は長い眠りからゆるやかに目を覚ました。 宮の一室で安静を命じられ、侍女たちは過剰なほど丁寧に世話を焼き、臘春が少しでも身を起こせば「まだ早うございます」と眉を寄せて寝台へ戻す。それが数日続いた。


回復は順調ですぐに歩けるようになり、一週間も経てば以前と同じように巫女の務めへ戻ることを許された。


(……火久弥にお礼を言わないといけない)


あの果園の奥──朦朧とした記憶の中、強い腕に抱えられていた。

侍女たちの話によれば、ここまで運んだのは火久弥だという。


あれほど深く毒が回っていたのに、火久弥がここまで戻ってこられたのは……あの“不老不死の実”の効能に違いない。


(本当に……あれは効いたのね。じゃあ火久弥は不老不死に……?)


しかしそれを確かめる術は無かった。

火久弥の姿を見かけてもいないのだ。


以前は臘春がいくら迷惑そうにしても勝手に押し入ってきたのに、一度も現れない。


臘春は侍女たちへそれとなく尋ねてみた。だが返ってくるのは、皆そろいもそろって同じ調子の声だった。


「火久弥殿?最近お見かけしませんねえ」


「お役目を終えたのでしょうか。あの御方、どこにいても絵になるお姿で目の保養になりましたのに……」


「いらっしゃらないと寂しゅうございますね。お優しくて、美しくて……ああ、またお茶を運ぶ機会がほしいものですわ」


彼女たちの頬はほんのり染まり、憧れの語り口はどこか浮き立っている。

どうやら月影の宮の侍女たちが知る火久弥は、猫を被った“上品で麗しい好青年”のままだったらしい。




さらに一週間が経つと、いつもの周期通り月神が臘春の部屋を訪れた。


「具合はどうだ、臘春」


穏やかな声に臘春は両手を膝に添え、恭しく応える。


「お陰様で大分良くなりました。以前のように、巫女としての務めも果たせるほどに」


月神は小さく頷き、臘春を静かに見つめた。

「それは良い。汝の快復は、余にとっても喜びだ」


その温かな声に背を押されるように、臘春は言葉を続けた。


「……あの、月神様。火久弥殿の姿が見えませんが、今どちらに……?」


「火久弥は実を盗まんとした罪により、罰を受けておる。しばらく姿は見せぬであろう」


(……盗もうと“した”罪?では、実を“食べた”ことは咎められていないのかしら。実際に火久弥に口移しで食べさせたのは、他でもない私だけど……)


実を食べさせた事実は重い。

あれが命を救うためだったとは言え、禁忌を犯したことに変わりはない。


それなのに、罰せられているのは火久弥だけ。


(──私がしたことは、罰にはならなかったのか……それとも知られていないだけなのか……)


しかしそれを聞く度胸は無かった。

聞くことで自分も罰せられることを恐れたというのは、勿論ある。

だけどそれ以上に、実を食べた火久弥の罰がより重くなることを恐れた。



臘春は膝を正し、慎ましく口を開いた。


「……火久弥殿は、いかなる罰を受けておられるのでしょうか」


「罰の形は風のごとく定め難し。余のみが知ることだ」


月神はゆるやかに歩み寄り、臘春の肩に手を置いた。


「気に病むでない。火の子のことは余が見ておる。汝が案ずる必要はない」


臘春は悟った。

月神は、自分には決して教えぬつもりなのだ。

(……私には、知る資格もないということ……)


「……火久弥殿に、また会える日は来るのでしょうか」


「会うべき時が来れば、道は開かれよう。だがその時を定めるは余の理にあらず、天の巡りにある。汝はただ務めを果たし、心を曇らせぬことだ」


臘春はその言葉に深く頭を垂れた。答えは与えられぬまま、しかし完全に否定されたわけでもない。


曖昧な余韻が胸に残り、火久弥の姿が遠い影となって揺らめいた。





それから臘春の体調は大きな問題もなく、務めを果たす日々が続いた。だが脚には常に微かな違和感が残っていた。


眠りに落ちようとする頃になると、まるで誰かに骨の芯を細い針で突かれているような、ずき、ずき、という律動が左の脛から膝、そして太腿へと這い上がってくる。痛くはない。ただ疼きがある。


臘春はその疼きを隠し、誰にも告げずに過ごした。


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