二十四 傷
火久弥の胸が大きく震え、途切れかけていた呼吸が力を取り戻す。血の気を失っていた顔に熱が戻り、瞳がゆっくりと開かれた。先ほどまでの苦悶は跡形もなく、身体の奥から力が湧き上がる。
臘春に近付こうとした火久弥の視界に、地を這う影が映る。臘春に噛みついた蛇が、なお執念深く火久弥の脚に絡みつこうとしていた。
火久弥は蛇を荒々しく踏みつけ、片手で掴み上げた。
「……愚かなる下賤よ。命の価値すら知らぬか」
力任せに地へ叩きつけると、骨の砕ける音が響き、蛇は動かなくなった。それを無造作に投げ捨てると、火久弥は臘春を抱き上げその青ざめた顔を覗き込んだ。
「臘春、これはどういうことだ。そなたが我に実を食わせたのか?」
臘春は半ば意識を手放しながら、火久弥の声に反応した。目はうっすらと開いているが焦点は合っておらず、ただ小さく口元が震える。
その震えが、段々と言葉になっていく。
「……私は……あなたに食べてほしくなかった。けれど……あなたが死ぬのを見ているだけなんて……それもできなかった。だから……こうするしかなかった……おかしいですね……」
焦点の合わない目で火久弥を見上げ、臘春は続けた。
「あなたは……もう一度歩むべき命を授けられた……まだ……やり直せるのですから……私は……その……道を……」
言葉の先が揺らぎ、声は細い糸のようになって消えた。
「……愚か者め。筋が通らぬにも程がある……だが、まあよい。借りを作ったのは事実だ。ならば、返さねばならぬ」
火久弥は臘春を片腕に抱えたまま、果園の中をかき分けるように動き回った。
だが、いくら探しても熟れた実は見つからない。
臘春の呼吸はその腕の中で浅くなり、胸の上下は弱く不規則になっていく。
その事実を理解した瞬間、火久弥は立ち止まり、短く息を吐いた。
そして臘春を両腕でしっかり抱き直すと、ためらいなく駆け出した。
果園の出口に向かって一直線に走り、扉に肩をぶつけるようにして押し開ける。月の印を押すと岩の裂け目が再び現れ、荒い呼吸のまま通り抜けた。
腕の中の臘春は力を失い、首は火久弥の胸元に寄りかかったまま微動だにしない。
呼吸は弱く、耳を寄せなければ分からないほどだ。
「……我を助けた報いだ、臘春。死ぬなど許さん。お前が勝手に作ったこの借りは、お前が生きてこそ返せるのだからな」
火久弥は呟くようにそう言うと、足を速めた。
やがて森の端を抜け、白い石畳へ足を踏み入れた瞬間──火久弥はまるで飛び込むように境内へ駆け込んだ。
近くで灯火を調整していた神官が何事かと振り返り、目を見開く。
火久弥は普段の柔らかな面差しを作るのも忘れて、その者へ踏み込むように近寄った。
「そこの神官、聞け!この者を救え。直ちにだ。我が頼んでおるのだ、手遅れにするな!」
神官は火久弥の顔をまじまじと見つめて困惑する。
「か、火久弥殿……?そのようにお声を荒げられるとは……」
だが、火久弥の腕に抱かれた臘春のぐったりとした姿を見た瞬間、事情を察したようだ。
「巫女殿が具合を悪くし、気を失っておられるぞ!」
声を聞きつつけ慌ただしく駆け寄ってきた数名の神官の中に、黒髪で額を出した男──朔臣がいた。火久弥の腕の中の臘春を見るなり、その顔色が一瞬で変わる。
「……臘春殿……この方は星祀りの巫女殿だ!」
その名が口にされた瞬間、場の空気は一変する。火久弥と臘春は急ぎ宮の奥へと案内され、薄い敷物が幾重にも重ねられた小部屋へ通された。
火久弥は膝をつき、臘春を丁寧に敷物の上へ横たえた。臘春の顔はまるで雪のように冷え、唇だけが紫を帯びている。
やがて神官長が姿を現した。 臘春の様子を見て、火久弥へと鋭い眼差しを向ける。
「臘春に何があった」
「毒蛇に脚を噛まれたのだ。森で遭った」
「蛇?」
神官長は短く息を呑み、目を細める。
「この国に、そんなものはおらぬはずだが……」
火久弥は臘春の衣の裾へ手を伸ばし、ためらいなく持ち上げた。
露になった臘春の脚には、小さな穿孔が赤黒く浮かび上がっていた。まるで鋭い針で突き刺したように整った間隔で刻まれ、周囲の皮膚はじわじわと腫れ、青紫に変色している。
神官長は眉をひそめ、低く息を吐く。
「……確かに毒が回っておるな」
そして傍らに控えていた侍女へ向き直り、命じる。
「臘春をこのままにはできん。噛まれた箇所を縛り、毒を抜け。急げ」
侍女は深く頭を下げ、木箱と布袋を急ぎ抱えて戻ってきた。
神官長は火久弥の肩越しに臘春を一瞥する。侍女にこの場を任せるつもりらしく、衣の裾が廊下へ消えていった。
侍女は膝をつき、臘春の脚をそっと持ち上げた。
手早く解いた布袋から、乾かした薬草をすり潰した粉、吸い出しに使う竹筒、雄黄酒、そして細い麻紐が取り出される。
彼女はまず噛まれた箇所の上を麻紐で縛り、毒の巡りを遅らせようとした。
だが力が入りきらず紐が滑り、結び直そうとする度に手元が震える。
何とか紐を巻き付け、噛まれた箇所の上を強く縛る。次に小刀の刃先で皮膚を裂き、竹筒を口に含んで毒を吸い出そうとした。
──が、侍女はすぐにむせ込み、筒を取り落とす。侍女は焦りに手を震わせながら、竹筒を拾い直した。
火久弥はその一連の動きを無言で見下ろしていたが、はあと溜め息をついた。
「見ておれぬ。我がやる」
侍女は驚いて顔を上げた。
「い、いけません、これは私の――」
火久弥は問答無用で侍女の肩を押し、横へ退かせた。
「どけ。手際の悪さで臘春の命を縮めるな」
それだけ言うと、火久弥はすぐに膝をつく。そして侍女の震える手から竹筒を取り上げ、一瞥した。
「こんな細工物、邪魔なだけだ」
吐き捨てるように言うと、竹筒を侍女の足元へ放り、臘春の脚を素手で支えた。そして迷いなく顔を寄せ、傷口へ直接唇をつける。
血を吸い込む音が室内に響いた。
血と毒の混じった赤黒い液が火久弥の口に溜まり、彼はすぐに身を起こして唾とともに吐き捨てる。
吐き出された液は、侍女が慌てて差し出した木皿の底を濁った色に染めた。
火久弥は息を短く吐き、侍女が差し出した雄黄酒を手に取って口をすすぐ。
吐き出す。
口をすすぐ。
また吸う。
何度目かの吐き出しを終えたときだった。
「──やめよ。そのような真似、いくら繰り返したところで無意味に過ぎぬ」
よく通る声が、戸から響いた。




