二十一 鍵
その日の臘春は、まるで魂だけ別の場所へ旅立ってしまったかのようにぼんやりしていた。
他の巫女たちにも「臘春、詠む箇所を間違えているよ」「みんなと声を合わせて」と小声で何度も窘められる始末。
(いけない……ちゃんとしなきゃ……)
心ではそう思うのに、意識の大半は火久弥のほうへ勝手に向いていく。
逃げるように一日を終え、ようやく御寝所へ戻り横になっても一向に寝付けない。
何度も寝返りを打つが眠気は訪れず、天井を見上げた。
そのときだった。
――カン、という金属の擦れる小さな音。
蔀の掛け金が外れる音を、臘春の耳は逃さなかった。
臘春は反射的に跳ね起きる。妙な胸騒ぎに突き動かされ、自ら引き戸に手をかけた。
引き戸を開け放った瞬間、月光が差し込み、夜気が臘春の頬を撫でた。
そこに立っていたのは──火久弥。
臘春が自ら戸を開けたことに、火久弥は一瞬だけ目を見張る。だがすぐにいつもの尊大な笑みを浮かべた。
「起きていたか、臘春。好都合だ。来い」
「……どこへ……?」
困惑して後ずさろうとした瞬間、臘春の腰が突然ぐいと持ち上げられた。
「あぁっ!?」
火久弥は米俵でも掴むような手つきで、臘春を抱え上げる。
「な、なにを──」
「静かにせよ。そなたの足は遅い。誰かに見つかって呼び止められたら面倒だ」
火久弥は臘春を抱えたまま柱を掴み、音もなく身を翻す。 次の瞬間、臘春の視界は跳ね上がり、屋根へと舞い上がった。 母屋の軒を越え、夜の獣のように棟を駆け上がる。
(は、速い……!前もそうだっけど、こんな足場でどうして落ちないの……)
月神殿の大屋根が見えてきた。
(え……まさか、月神様のところへ……?)
臘春が息を呑む間もなく――火久弥はその巨大な屋根をまるで平地のように駆け抜け、そのまま向こう側へ跳躍した。
「えっ、通り抜けるの……!?」
返事はない。
ただ夜気を裂く風の轟音と、火久弥の呼吸だけが耳に届く。
火久弥は臘春を抱えたまましなやかに膝を曲げ、音を立てて地面に着地する。
そのまま月神殿の裏手へと駆け抜けた。鬱蒼と木々が茂る森に、そのまま火久弥は迷いなく突っ込んでいく。湿った土の匂いが鼻を刺し、枝葉が肩や頬をかすめる。
やがて木々が途切れた。
目の前には切り立った岩壁がそびえ立つ。火久弥はようやく足を止めた。
火久弥は臘春を雑に地面へ降ろした。
臘春はよろめき、慌てて足を踏ん張る。
「……まさか、ここが……」
火久弥はもう臘春を見てもいなかった。
返事の代わりに鋭い視線だけを岩壁へ向ける。そして両手を這わせ、指先で石の表面を確かめながら、器用に上へ上へと登っていく。
やがて、火久弥の動きが止まった。
「……臘春。これを見よ」
振り返りざまに呼ばれ、臘春は岩壁へ駆け寄る。
火久弥の指先が触れていたのは――
岩の中心に小さく刻まれた円形の印。
それは月光を受け、淡い銀色に浮かび上がった。
「月の……印……?」
臘春の呟きに、火久弥は無言で頷く。
そして、掌をその印にしっかりと押し当て、力を込めた。
岩肌がわずかに震え、低い音を響かせる。ゴリ……ゴゴゴ……という地の底から響くような振動が足元を伝う。
岩そのものがゆっくりと後ろへ引き込み始め――次に、左右へ滑るように開いていった。
奥には、細い通路がぽっかりと口を開けている。薄明かりが揺れ、どこからともなく甘い香りが流れ出してきた。
火久弥は月の印から手を離すと、登っていた岩壁の中腹からひらりと飛び降りた。砂利を散らす着地音だけが短く響き、何事もなかったように臘春の前へ立つ。
臘春は開いた岩の裂け目と、火久弥がさっきまで登っていた高さを見比べ、ぽつりと呟いた。
「……こんなに大きな岩壁、一見しただけじゃ印なんて見つけられそうもないのに。よく見つけたわね」
火久弥は鼻で笑い、尊大に言い放つ。
「我がずっと呑気に掃き掃除ばかりしていると思っていたか。己が役に立たぬゆえ、我みずから色々と調べていたのだ。清掃という労働は、皮肉にも多くの場所を回る手立てとなった。ゆえに、こうした地も目に留まったのだ」
火久弥は岩壁に視線を戻し、淡々と続けた。
「この壁の向こうに、国を出る道があるかもしれぬと思い、何度か登りきった。頂上までな。だが……」
そこで言葉を切る。
月光に照らされた横顔はいやに険しい。
「──登りきった先は、空だった」
「……え?」
「見渡すかぎりの無だ。足元は岩の端で、視界はただの虚無。一歩踏み出せば無限の虚空に落ちていくような感覚が我を襲い、吐き気がした。その先を行こうとした途端に風が体を掴み、視界がぐるりと回る。気づけば、岩壁の麓に放り出されていた。元の場所に、な」
火久弥は拳を握りしめる。
「徒労に終わり、我は苛立った。岩を蹴り、罵りながら下りてきたその時──この印が、月光に光って目に入ったのだ」
火久弥は臘春を一瞥し、短く言い放った。
「行くぞ。――今度こそ、無駄にはせぬ」
火久弥は迷いなく通路へ足を踏み入れ、すたすたと奥へ進んでいく。臘春は慌てて追いかけた。
「待って……!」
通路の中は思った以上に広く、天井は高い。岩肌にはところどころ、淡い光を帯びた線のようなものが走っていて、まるで脈が流れているように見えた。
火久弥は通路の中ほどで立ち止まり、壁に手を伸ばす。そこにも、同じ月の印が小さく刻まれていた。火久弥は躊躇なくそれを押す。
ごうっ、と低い音。背後の岩壁が音もなく閉じ、ぴたりと通路を塞いだ。
(それにしても……どうして火久弥は、わざわざ私を呼んだのか……)
口を開こうとした、まさにその瞬間──足元にぐにゅり、と生温かい感触が走った。
「ひっ……!」
反射的に飛びのくと、足下に黒い紐のようなものが蠢いている。蛇だ。銀と黒の鱗が薄明かりに光り、頭がこっちを向いた。
「ひゃあっ!!」
臘春は悲鳴を上げて後ずさり、思わず火久弥の腕を掴んだ。
「落ち着け」
火久弥は呆れたように言う。
「よく見ろ。もう死んでいる」
「……え?」
言われて改めて見ると、蛇は動かない。体が不自然にねじれ、目は濁っている。確かに死骸だった。
ほっと胸を撫で下ろしかけたが――次に気づいた光景に、臘春は息を呑んだ。
通路の両側、そこらじゅうに蛇の死骸が転がっている。十、二十……数えきれない。どれも首が折れ、あるいは胴が真っ二つに裂かれ、血はすでに乾いて黒く変色していた。
「う……っ」
胃の奥がきゅっと縮む。目眩がして膝が震えた。
「これ……どういうこと……?」
掠れた声で問うと、火久弥は平然と答えた。
「我が殺した」
さらりと言われて、臘春は目を見開いた。
「全部……?」
「そうだ。湧くように出てきてな。鬱陶しかったので片端から仕留めただけだ。こんなもので一々騒ぐな」
まるで虫でも払ったと言わんばかりの声音。
臘春は脳裏にその光景が思い浮かんでしまい、思わず岩壁に手をついて目を閉じる。
「そんなことより……見ろ」
火久弥は顎をしゃくって、通路の奥を示す。
そこに、巨大な扉があった。
高さは人の三倍はありそうで、銀の紋様が刻まれている。蛇の死骸はその扉の前で特に多く、まるで供物のように積み重なっている。
「その扉、我が全力でも押してもびくともせぬ。腹立たしいほど頑なよ。──鍵穴があるゆえ試したが、そこの鍵は全て駄目だった」
火久弥が指を差す。そこには鉄の輪に掛けられた鍵束が揺れていた。
「ゆえに、そなたを連れてきた。我が知に欠けるゆえではないぞ?巫女は祭祀や儀に明るい。扉の開け方くらい、何か思いつくであろうと判断したまでだ」
勝手に期待されて、臘春は困惑するばかりだった。
扉前の死骸の山を踏まないよう気をつけながら、臘春は鍵束を手に取って眺める。見たことのない金属の質感。柄の部分には艶やかに色が塗られている。
黄色、赤、紫、白、緑――まるで色合わせの遊びのようだ。
(……急に言われても……)
少しでも間違えば大変なことになりそうな扉だ。臘春は喉の奥をひりつかせながら火久弥をの方へ身体を向ける。
「………ごめんなさい。私、本当に……開け方なんて……」
わざと弱々しく言う。分からないと言い続ければ、火久弥も諦めて戻るのでは──そんな淡い期待を抱いていた。
「……ほう。分からぬ、と言い張るつもりか」
火久弥の声色がすっと冷えた。
嫌な予感に背筋が凍る。
火久弥は足元から何かを拾い上げる。
──蛇の死骸だ。
「そなたが本気でわからぬと言い続ける気なら……ここに繋ぎ止めておく。外へ逃げられては厄介だからな。蛇の腱は意外と丈夫でな、捕縛するに丁度よい」
「えっ、ちょっ……!」
ぞくりと全身が震え、臘春はたまらず一歩下がる。火久弥の口元にはうっすらとした笑みが浮かぶ。
火久弥は蛇の死骸を片手で軽く振りながら、もう片方の手で臘春の足首を掴もうと屈み込む。
「逃げられぬよう、足だけでも先に縛っておくか。手さえ使えれば十分であろう」
冷たく言い放ち、蛇の胴体を縄のように巻きつけようとする。
「待って!待って、待ってってば!」
臘春は悲鳴じみた声を上げて後ずさり、背中が壁にぶつかった。もう退路はない。
(本気でやる気だ……!)
泣きそうになりながら、慌てて鍵束を両手で抱え直す。指が震えて金属が鳴る。
「……分かった、考える!考えるから、そんなことしないで!」
火久弥は動きを止め、蛇を肩に担ぐようにして立ち上がった。口元に薄い笑みを残したまま、黙って見下ろしている。
臘春は必死に鍵束を睨んだ。




