二十 説得
それから数日後。
臘春がまどろみの底から引きずり上げられたのは、優しさとは程遠い衝撃だった。
「起きろ」
身体に掛けていた布を剥ぎ取られ、肩を掴まれ、がくんがくんと揺さぶられる。寝起きの人間への配慮など微塵もない。
目を細めて見上げれば、火久弥が当然のような顔で立っている。
「……火久弥殿。いつも言っていますが、急に来るのやめてください。せめて、いつ来るのか事前に教えるとか……できませんか?」
布にしがみつきながら訴える臘春に、火久弥は鼻で笑った。
「無理だ。我は来たい時に来る」
「え……」
「そもそも、いつ来ようと思うかなど我にもわからぬ。ふと思いついた時が来る時よ」
それを平然と誇らしげに言うあたり、この男には配慮という概念がどうやら存在しないらしい。
「だが、月神が来る日は避けておる。それで充分であろう?」
「充分なわけないでしょう……!」
臘春が声を潜めながら荒げると、火久弥は逆に怪訝そうに眉を寄せた。
「なぜだ。我は配慮しておるぞ?月神が居る時に踏み込めば、さすがに色々と面倒であろう。そなたには話を聞き出す役目もあるしな。だから我は避けてやっておる。褒めるがよい」
「それは人として当たり前の配慮ですよ……」
火久弥は臘春の疲れ切った顔をじっと見つめ「ふむ……やはり眠そうだな。揺すりが足りなかったか」と、危険な結論に至りかける。
「やめてください!」
臘春は瞬時に身を引き、火久弥から距離を取る。
火久弥はいつもの調子で口を開いた。
「それで──実の在処の手掛かりは掴めたか」
それは火久弥にとって、挨拶代わりの言葉だった。「おはよう」の代わりに、毎度同じ問いを投げかけるのだ。臘春はその度に首を横に振り、まだ何も掴めていない、本当にあるのかも怪しいと言い訳をしてきた。
だが今回は違った。臘春の胸裏には、月神とのやり取りがまだ生々しく残っている。
そのせいで言葉が遅れてしまった。
「……………………………………残念ながら何も掴めていません」
平静を装って告げる。
だが、火久弥は臘春が思う以上に臘春を見抜く性質だった。
「今の間は何だ、臘春。我にはわかるぞ。いつもより半拍遅かった」
「……気のせいですよ」
「否。何かを隠しておるな」
火久弥は言い切り、ぐっと一歩近寄る。臘春はとっさに布を抱えて距離を取った。
その動きに、火久弥の口元がゆっくりと歪む。
「逃げよったな。ますます怪しい」
「急にそんな顔を近づけられたら、誰だって逃げますよ」
臘春は布を胸に抱きしめたまま、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「ほう。では問おう。臘春、おまえはいま、何から逃げた?」
「だから……あなたが突然──」
「違うな」
火久弥は臘春の言葉を切り捨てるように断じた。
「我からではない。追及から逃げたのだ。知らぬと言いながら、目が迷っておる。口は否と言い、身体は肯を示しておる」
臘春は思わず口を噤んだ。
火久弥はさらに一歩近づく。
先ほどよりもゆっくり、逃げ道を塞ぐように。
「さあ、臘春。言え。我に隠す理由はあるまい?実の在処、その手掛かり──掴んだのであろう?」
その瞳は赤い火種のようにぎらりと光り、退路を許さない。臘春はごくりと喉を鳴らした。
「……い、いえ。本当に、大した話では……役に立つようなものでも……」
「役に立つかどうかは我が決めることだ。臘春、言え。すぐにだ」
「でも……」
「言わぬのなら──約束を違えたとみなす」
その瞬間、火久弥の気配が変わった。
静かな部屋に、ふっと熱が満ちる。
「我は再び暴れるぞ。宮中を荒らすことなど造作もない」
臘春の背に冷たい汗が伝う。
「それとな。我に“穢れを落とされたふり”をして己の評価を上げ、星祀りの巫女に選ばれるよう協力しろと言い出したあの話。あれもすべて、我は暴露するぞ」
臘春は息を呑んだ。
胸がきゅっと縮み、言葉が喉奥でつかえる。
「さあ言え、臘春」
逃げようとしても、きっと火久弥は追ってくる。下手に誤魔化せば、ますます長引くだけだ。
(……少しだけ。場所そのものじゃなければ、言っても……)
自分に言い訳しながら、臘春はついに口を開いた。
「………月神様は……“もし実があるとしても、道は岩に隠れ、月に気付けねば開かぬ”と……そんなふうに仰っていました……」
言ってしまった。
口から出た瞬間、臘春の背筋を後悔が走り抜けた。
(ま、まあ……これくらいなら……!具体的な場所なんて言ってないし……私にも分からないし……火久弥にわかるはず、ない……!)
「……それで?他には?」
「えっ……?」
「月神は、ほかに何と言っていた?それだけで終わる話とは思えぬがな」
臘春は一瞬たじろぎ、咄嗟に視線をそらした。どうにか火久弥の興味を削ぐため、少しでも不利に聞こえる情報を探す。
「そ、そういえば……その……」
臘春は意を決して続けた。
「実を取ろうとすると……妖に襲われるそうですよ……だから、諦めたほうが──」
「妖、か」
火久弥には一片の怯みもない。
むしろその声は、面白がっているようにすら聞こえる。
「どんな妖だ?名は?形は?何を喰らう?」
「し、知りません!そこまでは本当に……!“侵入者を許さぬ、名も無きものだ”としか……!」
「ほう。名も無きもの、とな」
火久弥はくく、と小さく笑った。
その笑いは、臘春の胸をざわつかせるほどに剣呑で、軽やかだ。
「ようやく話を吐いたと思えば、出てくるのは霞のように掴みどころのない話ばかり。臘春、おまえというやつは――」
火久弥は臘春の顔を覗き込み、唇の端を思いきり歪めた。
「聞き出す手間ばかりかかるわりに、得られるものは薄味だな。まるで水で薄めた薬湯を延々飲まされておる気分だ」
臘春は悔しさと恐怖と苛立ちで、胸の奥がぎゅっと縮む。
だが反論したらさらに突かれるとわかっているから、言葉が出ない。
火久弥は臘春の沈黙を愉しむように一度目を細め、そして瞳に静かな光を宿しながら低く呟いた。
「だが……まあ、いいだろう。半端とはいえ、糸口は得た。あとは我が勝手に辿るまでよ」
その声音に、臘春の心臓は冷たい指でつかまれたように跳ねた。
(……だめだ、このままじゃ火久弥は本当に──)
臘春は咄嗟に口を開いた。
「火久弥……聞いてください。月神様は、あなたの……出生を知っておられるようでした。そして──あなたを神にする方法も知っている、と」
火久弥の眉が、わずかに動く。
それは関心か、警戒か、あるいは怒りか判別しづらい微細な反応。
臘春は続けた。
止めなければ、という焦りで喉が熱くなる。
「ただ、月神様は……あなたの気性の荒さを気にしておられるのです。もし、そのまま神になれば──再び神の座を降ろされ、追放されるかもしれない。だから、様子を見ていると……。あなたが心から性根を改めれば、実など盗まずとも、月神様はきっと助けてくださるはずです」
言いながら臘春は、自分の声が震えているのを感じた。
嘘ではない筈だ。
月神の言葉の端には確かに、火久弥への何かしらの気遣いがあった。
それに賭けたかった。
だが――
火久弥は、臘春の必死の言葉を聞き終えると、静かに笑った。
それは冷ややかで、乾いた、刃物のような笑いだった。
「臘春。己は、まだそんな夢のような話を信じておるのか」
火久弥は顔を寄せ、低い声で囁く。
「月神が我を神にしたいだと?笑わせる。あやつはただ“我に神になってほしくないだけ”だ」
臘春は息をのむ。
だが火久弥は構わず続けた。
「理由などいくらでも並べ立てられる。“気性が荒いから様子を見る”など、もっともらしい方便よ。実際のところはただ一つ──我が神になれば、あやつを越える。月神を、今の神々を。あやつらはそれを恐れておるだけだ」
妄言だ。
けれど火久弥は、本気でそう信じている目をしていた。
瞳がぎらぎらと輝く。
狂気と確信と、長年の渇望が混ざり合った色で。
臘春の背筋を、冷たいものがすうっと走った。




