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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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二 化身

「……日の神の、化身?」


八千瑠は勢いよく頷いた。

「そう! あまりの態度に神官が不敬だと怒ったら、『不敬?愚かな。日の神に跪くのが礼儀であろう』……って言ったんだって!」


千代は腕を組み、ふうとため息をつく。

「なんでそんなのがここに来るのよ……」


八千瑠はぽつりと付け足した。

「見た子の話によると……すっごく綺麗な男の人だったんだって。ただ者じゃない雰囲気があったって言うの」


「えっ、綺麗なの?」

千代が鋭く反応する。

「……ちょっとだけ興味出てきたかも」


「でもね、その男の人、何かあるとすぐ蹴ろうとしてくるんだって。ある巫女が前を横切っただけで『邪魔だ、どけ』って言いながら本気で足を振り上げてきたらしいよ……」


千代の顔が一瞬で青ざめた。

「ちょ、ちょっと待って。蹴る!?本気で!?」

「うん。本気で」


八千瑠は茶碗をぎゅっと抱きしめ、少し震えながら小声でつぶやいた。

「まだ巫女になって一ヶ月くらいしか経ってない私たちには……絶対無理だよ、そんな人。もし受け持ちになったら……どうしよう……」


千代も同意して首を小さく縦に振る。

「私も、絶対嫌……」


一方、臘春(ろうしゅん)は二人の会話を聞いても落ち着いていた。八千瑠と千代の震える様子を静かに見つめながら、安心させるように微笑んだ。

「二人とも、そんなに怖がる必要はないですよ」


八千瑠が目をぱちぱちさせる。

「臘春さまは、怖くないんですか……?」


「昔の私なら、そんな人が受け持ちになったときは怖くて逃げ出したくなったと思います。物の怪に憑かれたかのように暴れる人に相対すると、毎回心臓が激しくなって、手も震えたもの」


八千瑠が思わず茶碗を抱き直して、目を見開く。

「え……?臘春さまでも……?」


臘春は穏やかな声で続けた。

「ええ。でも、穢れ落としをすると……みんな、まるで憑き物が落ちたかのように大人しくなるの。暴れる人の荒ぶる心も、落ち着かせることができますから」


千代は息を呑む。

「そんなことが、本当にできるんですか……?」


臘春は頷き、静かに言葉を続けた。

「できることを、私は経験で知っています。万能ではないかもしれないけれど、心を鎮める力は確かにある。今回の流浪人もきっと同じです。だから、二人が怖がる必要はないわ」


臘春は二人の不安をやわらげたくて話をしたつもりだった。

だが──



「さすが臘春さま……!臘春さまがやってくれるなら、私たちも安心です!」


「本当に……私たちじゃ絶対無理でも、臘春さまが相手ならその流浪人もきっと心が清められる」


ふたりから飛んでくる“丸投げ宣言”に、臘春は思わずぴしっと肩を固くした。

(……ちょっと。誰が“引き受けます”なんて言ったのよ)


臘春は咳ばらいひとつして、ぴしっと二人に向き直る。


「ええとね……言っておくけれど、私がやる前提で話を進めるのは違うと思うの」


八千瑠は瞬きを繰り返し、千代も「あれ……?」という顔をする。


「私は二人がその人を受け持つことになっても、対処できるようにって前提で話をしたんです。何かあったら手助けする気持ちはあるけど、全部人に頼るのは駄目」


臘春は少し柔らかい声で続ける。


「穢れ落としは、相手の心を整えるもの。でも、まずは巫女自身が落ち着いて向き合わないと。だから二人も、自分の力を信じること」


八千瑠はきゅっと背筋を伸ばし、神妙な顔になった。

「……じゃ、じゃあ……もし私がその暴れ男さん担当になっても、頑張る……」


千代も小さく息を吸い、うなずく。

「怖いけど……できるだけ自分で向き合います」


臘春は満足げに目を細めた。

(うん、それでいいのよ)


ただ、次の瞬間――


「でも、どうしても駄目だったら……臘春さま、お願いします!」

「お願いします!」

二人が見事に同時に頭を下げ、臘春は額を押さえた。


「……もう。頼りにされすぎるのも考えものね」

それでもどこか嬉しそうに、臘春は苦笑を浮かべた。





「ほぉ……なるほど、臘春殿がいれば心配ない、ということか」


不意に背後から低い声が落ちてきた。

三人が振り向くと、いつからそこにいたのか、巡回中らしい神官が腕を組んで立っていた。

どうやら話の一部始終を聞いていたらしい。


「え、えっと……す、すみません、聞いてました?」

八千瑠が慌てふためきながら問いかけると、神官は満足げに頷いた。


「聞いていたとも。臘春殿は狂乱した者の魂も、鎮めた経験が幾度もあるとか。ならば、例の“日の神の化身”を名乗る男も……臘春殿に任せるのが最善であろう!」


「いやちょっと待って?」


臘春は反射的に手を前に出した。

落ち着いた声のまま、しかし完全に困惑している。


だが巡回神官は臘春の制止など聞こえていないかのように、ますます期待に満ちた目で頷いた。


「臘春殿、聞いてほしい!あの男は――とにかく乱暴でな。廊下を歩けば肩がぶつかっただけで蹴り飛ばしてくるし、声をかければ睨みつけて拳を振り上げる。今日だけで怪我人が六人出ておる!」


「六人!?」

千代がぎょっとした声をあげる。

八千瑠は茶碗を落としそうになり、慌てて抱え直した。


巡回神官は、もはや愚痴をこぼすように続ける。


「穢れ落としを頼もうにも、巫女たちは姿を見た瞬間に泣き叫んで逃げるのだ!“あんなの無理ですぅ!”だの、“近寄ったら殴られますぅ!”だの……私も説得しきれなんだ。誰も引き受けてくれぬから、宮中を探し回っておったところ……」


神官の視線が臘春に吸い寄せられるように固定される。

その輝きは、もはや救い主を見る目だ。


「臘春殿の“なんとかできる”という話を聞いて、膝から崩れ落ちるほど安堵したのだ!どうか、どうかお願いできぬか!」


臘春は額を押さえた。

横で八千瑠と千代が、必死に首を横に振っている。


「だ、だめですよ臘春さま!」

「穢れ落としどころか、近付いた瞬間に蹴られますって!」


臘春は二人に「落ち着いて」と手を振るが、自分も内心は似たようなものだった。

(いや、言ったわよ? “どうにかならない人って案外いない”みたいなことは確かに言ったけど……近寄るだけで殴る蹴る人なんて私も初めてだわ……)


しかし神官はもう退かない。

両手をぎゅっと握りしめ、今にも泣きそうな顔で迫ってくる。


「……これ以上、怪我人が増えてはいけぬ。早急に穢れ落としをして、精神を鎮めなければならんのだ……!」


臘春は目を閉じた。

胸の奥で、覚悟とも諦めともつかぬものが、静かに形を取る。


そして──重く息を吐いた。


「……わかりました。引き受けます」


巡回神官はぱっと顔を輝かせ、ほとんど祈るように頭を下げた。

八千瑠と千代は同時に叫んだ。


臘春はそんな三者三様の反応を受け止めつつ、小さく肩をすくめる。


(……困ったものね。でも、まあ……)


(――なんとかなるでしょう。多分。いや、きっと。多分だけど)


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