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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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十九 酒

その夜は、月神が臘春の御寝所に姿を見せる日だった。 すでに腰を下ろしていた月神は、いつものように涼やかな微笑を浮かべている。


「皇母神様より貴重なお酒を頂戴いたしました。よろしければ、今宵ご一緒にいかがでしょうか」


月神は臘春の差し出した瓶を一瞥し、静かに口元をほころばせた。


「ほう。酒か。ならば断る理由はない。注いでくれるか、臘春」


薄明かりが月神の白い指先と盃の縁を淡く照らす。臘春は酒を注ぎ、自らの盃にも少量満たした。


「……ところで臘春。皇母神と会ったのだな?」


「はい。本日、少しの間ですがお話を頂戴いたしました」


「何を話した?」


臘春は正直に答えた。

「……火久弥殿のことを、お話しいただきました」


「やはりあの者のことか」


月神は盃を傾け、喉を鳴らして酒を飲み干した。そして空いた盃を無言で差し出した。臘春は慌てて瓶を傾ける。琥珀の酒が音を立てて注がれるたび、月神の瞳が細められるのがわかった。


「月神様は火久弥殿の生い立ちや、諸々の事情を、どこまでご存じでいらっしゃいますか」


「火の子に関しては、臘春が抱く知識と余の知るところ、違いはないであろうな」


臘春は息を呑む。月神は再び酒を口にし、ゆっくりと盃を揺らした。


「半端者だが、神にする方法がまったくないわけでもない」


臘春は驚愕した。

「……では、月神様は火久弥殿を神にするおつもりで……?」


月神は盃を空にしてから、静かに首を振る。


「余はそう急ぐつもりはない。神に至るには時が要る上に、今はまだその時ではないと感じておる」


「……なぜ、その時ではないとお考えなのですか。火久弥殿は、以前のような乱暴さも見られなくなりましたが」


表面的にはね……と内心で付け足す。


月神は返答の代わりに盃を仰ぎ、一気に飲み干した。空になった瞬間、臘春はすかさず酒を注ぐ。盃が満たされる音を聞きながら、月神はようやく口を開いた。


「臘春。こことは別に、神々が住まう地がある。火の子が神となれば、その地へ赴くこともできよう。だが、そこには神々を治める神がおる」


再び、月神は酒をぐいと飲む。

この夜の月神はやけに喉がよく動く。


「火の子は生来気性が荒く、傲慢だと余は感じている。今の穏やかさが心底のものか、まだ判断がつかぬ。あの子の穢れは祓えんしな。余は危惧しているのだ……神になった途端にその傲りを現し、神々の地を治める神に取って代わろうとするのではないかと」


(そんな……火久弥が神々の頂を奪おうとするなんて、そんなこと……普通にしそうね)


「昔もな、神々の地に混乱をもたらした神がいた。だが最終的には神の座を失くし、追放された。……火の子を神にしたところで、同じことが繰り返されるのではないかと思ってな」


臘春は盃を握ったまま、そっと視線を伏せた。


「追放……神であってもそのような裁きがあるのですね」


「神とて理を破れば裁かれる。座は永遠ではなく、守る者のみに与えられるのだ」


(……神ですらその地位は永遠じゃない……なら永遠といわれる神の命もまた、何かに支えられている?)


臘春は思い切って口を開く。


「神は永遠の命を持つといわれていますが……この酒のように、年月を経て熟すものが、その命を支えているのでしょうか」


「神の命を支えているもの、か……」


月神は盃を置き、指先で縁をなでるようにして言葉を継いだ。


「長きにわたる祭祀、信仰――それらも確かに力を繋ぐ。だが、古より我らが口にしてきたものもまた、ある。自然の果実、霊薬の類だ」


臘春は胸のうちで小さく息を飲む。月神はふたたび盃を満たすよう促し、臘春が注ぐ。酒が流れ込むたび、月神は一口ずつ味わうように飲み、言葉を紡ぐ。


「その実は幾百年をかけてようやく熟す。たとえ神であれ、それを以て命を繋ぎ、力を繰り返すのだ。実を食する者は千年、老いぬ。死ぬこともない。千年ごとにまた口にすれば、巡りは続く」


「その実が……不老不死の実、ということでしょうか」


臘春はそっと問いを重ねる。手が震えないように盃をしっかり握った。


「そう呼ぶ者もいる。だが名などはどうでもよい。熟しておらぬ実をかじれば、むしろ身体をおかしくする。だが熟した果実をしかるべき炉で他の薬と煮れば……得られるものはただの長寿ではない……」


臘春は少し身を乗り出した。このまま、確かめたくなる欲が胸に湧くのを押さえきれなかった。


「月神殿ほどの神域なら、そのような実があっても不思議ではありませんね」


「……もし、この宮のどこかに実があるのだとしても……道は岩に隠れ、月に気づけねば開かぬ。――知らぬ者には、一生見つからぬさ」


臘春の胸の奥が、どくりと跳ねた。


(――今の言い方……本当に“ある”のだわ。)


問い返せば更に口を滑らせるのか、あるいは誤魔化されるのか。

そんな思いが喉元まで込み上げたが、臘春は踏み込みすぎないよう、盃を唇に運んでごまかした。


「うかつに足を踏み入れたら奴に狙われる……実を狙う妖のようなものだ。名はない。だが、あれは侵入者を許さぬ。人の身では……骨も残らぬ」


ぐびぐびと飲み干した月神は新しい酒をとうとう自ら注ぎ足し、ふう、と息を漏らした。


「だから臘春。そこへ近づこうなどと思うな。……もっとも、おまえがそんな無茶をするようには見えぬがな」


「勿論です。元々、私には必要のない物ですので」


実そのものに興味はない。ただ月神の警告を聞いた途端、火久弥の姿が頭に浮かんでしまう。


臘春は悩みながら盃を口に運んだ。


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