十八 皇母神
巫女たちは相変わらず、巻物にびっしりと連ねられた聖言を覚える日々に明け暮れていた。
膨大な文字の海に呑まれそうになりながらも、臘春は今では中程までの聖言を確実に暗唱できるようになっていた。
この日も巫女たちは円形に座り、互いの声に耳を澄ませながら、長々と聖言を唱えていた。
鐘の音が三度聞こえる頃になると、巫女たちはそれぞれの部屋へと散っていく。
臘春も侍女に付き添われ、御寝所へ戻ろうとしたその時──別の影が音もなく横合いから現れた。
「失礼します、臘春さま」
見知らぬ侍女だった。声は低く、まるで誰にも聞かれまいとするような響きだ。
「皇母神様がお呼びです」
臘春は瞬きをした。半年の間、皇母神と顔を合わせたのはたった一度、選ばれたその日だけだ。以降は顔すら合わせていない。
──私が?どうして。
胸の奥に、ざわりと波が立つ。
しかし、拒める訳もなく、臘春は侍女に導かれるまま母屋へ向かった。
「皇母神様、臘春さまをお連れいたしました」
「入りなさい」
侍女に促され、臘春は帳台の前まで進む。
幾重にも垂れた薄絹の帳は、奥の姿をやわらかな影として映すばかりで、その実体を決して明かさない。
促されるままに臘春は膝をつき、静かに頭を垂れた。
「お目にかかり、恐れながらご挨拶申し上げます」
「よく来ました、臘春」
帳台の奥からの声は、布越しなのに不思議なほど澄んでいる。
「ささやかですが……手土産のようなものでございます。どうぞ受け取ってくださいな」
皇母神がそう言うと、そばに控えていた侍女が盆を差し出してきた。
そこには、淡い琥珀色の酒が美しい瓶に満たされている。
臘春の後ろに控えていた侍女が一歩前に出て、瓶を受け取った。
臘春は帳台の方へ向き直り、深く頭を下げた。
「このような贈り物を賜り、恐れ入ります……本来ならば、私からも手土産のひとつでもお持ちすべきところ、何もご用意ができず、申し訳ございません」
帳の奥で、わずかな笑い声が立った。
嘲りでも叱責でもない、どこか人を包み込むような柔らかい音。
「そんな気遣いはいりませんよ。あなたに何かを求めて声を掛けたわけではありませんから」
布越しに、皇母神が軽く手を振った気配があった。
「ここは構いません。臘春と二人で少し話がしたいので、あなた達は下がって」
侍女たちは一礼し、音もなく退室する。
「……急に呼び出してしまって悪いわね。この後も予定があるでしょうに」
「とんでもございません。お声を掛けていただけること自体、私にとっては光栄でございます」
「まあ、礼儀正しいこと。そんなに硬く構えなくてもいいのよ」
「恐れ入ります。ですが、尊き御前に立てば自然と背筋が伸びてしまうのです」
「臘春は真面目ね。ええ、人柄が伝わってきます。そんなあなただからこそ、あの子とも仲良くできるのね」
──あの子?
疑問に思ったが、すぐに月神のことかと臘春は理解する。
「月神の御方には、常にお導きいただいております。至らぬ私を、いつも温かく受け止めてくださいます」
臘春は慎ましく頭を垂れ、真心を込めて答えるた。
だが返ってきたのは意外にも、小さなくすりとした笑い。
「いいえ。私が言っているのは月の御子ではなくて──赤い髪の子のほうよ」
臘春は目を見開いた。
「……火久弥殿のことでございますか」
「ええ。あなたと火久弥、ずいぶんと親しくしているようですね。普段はどんなことを話しているのかしら?」
臘春の胸にひやりとしたものが走る。
(……なぜ火久弥のことを?)
叱責なのか、探りなのか、それともただの世間話なのか。皇母神の意図がつかめず、臘春は慎重に言葉を選んだ。
「……火久弥殿はよく働いておられるので……その日の出来事や、些細なことをときどきお話しする程度でございます」
「まあ……そう。あの子は不満を言ったりはしていないの?」
(……そこを聞かれますか)
火久弥の“日常的な言動”が、臘春の脳裏で一気に再生される。
『今日も雑事ばかりだ、ふざけるな!』
『退屈だ、何とかしろ!』
『誰のせいでこんな事をやる羽目になったと思っている!』
――不平、不満、文句、愚痴、怒号、嘆き。八割がたがそれで占められていると言っていい。
(……不満しか言ってないよ……)
もちろんそんなこと、尊き皇母神様に報告できるはずもない。
臘春は微笑を作り、慎ましい声音を作る。
「……いえ、その……不満と申しましても……火久弥殿は働き者ゆえに、日々色々と感じることはあるかもしれませんが……特に乱暴な言葉を向けられることはございません」
「──そう。あの子が随分と落ち着いた、まるで以前とは別人のようだとは、私も耳に入れていましたが……あなたから見ても、特に問題はなさそうなのね?」
喉元までこみ上げた本心を臘春は押し留める。
「……ええ、滞りなく……日々、穏やかに過ごしているようです。火久弥殿も……周りによく気を配ってくださいますので」
「なら、良かったわ。あの子の変化が本物なら……きっと、あなたのおかげね。あの子を浄めたのは臘春ですものね」
「……はい。一度目は上手くいかなかったのですが、根気強く聖言を言い聞かせるうちに心境に変化が出たようで……微力ながらも、お力添えできたかと」
控えめに、恐る恐るといった声音で答えると、皇母神はまたくすりと笑った。
「よくやりましたね、臘春。あの子の心を動かすのは、容易なことではなかったでしょう」
臘春は思わず顔を伏せた。
「勿体ないお言葉でございます……私はただ、なすべきことをしたまでで……」
「……穢れを落としきる前のあの子は、少しおかしなことを口にしていたと聞きます。あなたにはどのようなことを?」
どこまで話すべきか思い悩みつつ、臘春は静かに口を開いた。
「そうですね……最初の頃は……自身を“神”と名乗っておられました。ですが、そのような言動も……浄めが進むにつれ、すっかり影を潜めております」
「他には?他に何か……言っていなかったかしら」
「……そういえば、ほんの一度だけですが。過去のことを口にされたことがございます。……不可抗力で母君に火傷を負わせてしまい、父君によってこの国へ捨てられたのだ、と……」
「……まあ……そんなことを……あの子が……」
か細い声が絹越しに零れる。
そして皇母神は、深く息を吸った。
「臘春。その話は……本当なのです」
臘春は思わず顔を上げた。
「え?」
「……あの子はね、父に斬られたのです。だけど、それでもあの子は死に切れなかった。河のほとりで……炎を上げ、燃え続けていた。泣くことも、叫ぶこともできずに……ただ、燃えていたのですよ」
(炎……?)
理解が追いつかない。
「……あ、あの……失礼ながら……」
臘春は無意識に両手を膝の上できつく握りしめた。
「火久弥殿は“炎”の姿だった、と……そのように仰せなのでございますか……?燃やされたとかではなく……本当に、炎だったという意味で……?」
「……あの子は炎をまとって生まれ落ちたのです。燃え盛る力を制御できず、周囲を傷つけ、そして父に斬られた……それでも消えずに燃え続けていた」
臘春の胸に困惑が広がる。
「……では、今の姿は……」
「私が与えたものです」
皇母神は静かに続ける。
「私はその姿を見つけました。その炎は、穢れでも呪いでもなく……生きたいと願うあの子の最後の力でした。それが哀れで……どうしても、見捨てられなかったのです」
皇母神の影が、そっと胸元に手を当てた気配がある。
「私は長い年月をかけて霊薬を調合しました。火を鎮め、魂を繋ぎ止めるために。そして土を捏ね、形を整え、人の体を用意したのです。あの子が再び歩めるように」
臘春は声が出なかった。
(……そんな……火久弥は本当に神、だった……?父に捨てられたという部分は、本当だとは思っていたけれど……)
信じられない。
でも、皇母神様がそれほどはっきりと言うのなら──それが事実なのだろう。
「私は自分の姿をあの子に見せることが、ずっと怖かったのです。私を見たとき、過去を思い出させてしまったら……その苦しみをまた背負わせることになるのではないかと……でも、あの子は覚えていたんですね」
臘春は黙って聞き続ける。
「本来ならば、神に相応しい“器”を与えてやるべきでした。けれど……私はそれを用意できませんでした。神としても人としても中途半端な状態にしてしまった。それが申し訳なくて……どうしても、会いに行けなかったのです」
その告白は神の言葉というより、ひとりの母の懺悔のように聞こえた。
「臘春」
帳の奥から、涙を含んだ声が響く。
「あなたがあの子を浄めたことは、私にとっても救いでした。あの子が人としてやり直せるよう、あなたが道を繋いでくれたのです」
(……私はそんな大層なことなど、何ひとつできていません)
「皇母神様のお言葉は……私には過分にございます。火久弥殿が正しく歩もうとされたのは、あの方ご自身の強さゆえで……私は大したことは……」
声が吸い込まれるように静まり返る。
「臘春。あなたは謙遜しすぎです。半神であるあの子には、穢れ落としは本来、効かぬのです。人の理にも、神の理にも属さない魂ですから……それでも、あなたの言葉があの子を慰め、心を和らげた。それは紛れもなく救いなのですよ」
臘春は目を伏せ、心にもない返答を丁寧にする。
――いつか。
いつか本当に、火久弥を救える日が来るのだろうか。
そんなことを考えながら。




