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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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十七 愚痴

臘春は息を呑み、声を上げようとした。


「──っ!」


しかし叫ぶ前に大きな手が臘春の口をふさぎ、腕が乱暴に背へねじられた。


「声を出すな」


低く押し殺した声。その声音に、外で侍女たちに向けていた柔らかな気配は欠片もない。


「巫女に選ばれたというのに、会いにも来ない。仕方ないから、わざわざ出向いてやったのだぞ」


臘春の腕はさらに捻り上げられる。


「痛いか?痛いだろうな。痛くても声は出すなよ。外で騒がれたら面倒だ」


火久弥は楽しげに笑った。唇が耳たぶを掠める距離で。


「しかし我とて少しは心を改めた。これ以上の乱暴は……そうだな、振るうまい」


だが、臘春の腕を押さえつける力は一向に緩む気配を見せない。


「ただし……」


耳朶に息が触れ、臘春の背筋がぞわりと震えた。


「我を裏切らぬという前提で、だ」


火久弥の手が臘春の首元へ移動する。

脈を確かめるように喉元へ添えられ、臘春は全身を強張らせた。

叫んだら即座に絞めるつもりなのだろう。


「誰のお陰で巫女に選ばれたと思っている?この宮仕えの安泰も、我が心を殺し演じ続けているお陰だろう。協力してやったのだから、義理は果たせ」


火久弥は楽しげに笑う。


「あれから三ヶ月は経っている……何か情報は得られたのだろう?」


臘春は必死に呼吸を整えながら、かすれる声で答えた。


「そ、そんなに……すぐには……私はまだ入内して日が浅いのです。月神様とも、そう頻繁にお会いできるわけでは……」


「言い訳に聞こえるな、臘春。それで我が納得すると思っているのか」


火久弥の声は明らかに苛立った。

苛立ちは指先へ伝わり、喉元への圧がわずかに強まる。


実のことなど何ひとつ掴めていない。

そもそも火久弥が押しかけてくるまで、その存在すら頭から抜け落ちていたほどだ。


こうして脅しには来るが、臘春を殺めた所で得るものが何もないことは、火久弥も分かっている筈だ。だが、この男は感情の赴くままに行動する。怒りに任せて本当にやる可能性も無視できない。


恐怖はある。だがそれ以上に、胸の奥で何かがふっと切れた。


──いっそ、もうどうにでもなれ。


「……私は役立たずです。この先も、きっと役に立てません。実のことなんて……今の私に探れるはずがない。気に入らないのなら──」


臘春は細く息を吸う。


「どうぞ、このまま絞めてください」


「……ほう。役立たずゆえに死にたいと?そこまで言うなら、願いを叶えてやるのも悪くはないな」


指先に力が込められ、臘春は意識を手放しそうになる。


──やっぱり、本当に殺すつもりなのでは。


そんな思考がよぎった瞬間、火久弥はふっと力を抜いた。



火久弥の手が臘春から離された瞬間、膝から力が抜けた。臘春は前のめりに倒れ、畳に両手をついて激しく咳き込む。


「生に縋る者が、必死に藻掻きながら死んでいく姿……それは見ていて面白いものだ」


火久弥はしゃがみこみ、倒れた臘春と視線を合わせた。


「だが生に執着がない者を、その願いのまま殺したところで……面白みに欠ける」


臘春は喉を押さえ、ようやく呼吸を整えた。


「それに……もう少し様子を見るくらいの余裕はある。我はそこまで気が短くはないからな」


(いや、誰よりも短いでしょうが……)


「……そうですね。まだ三ヶ月ですし……」


火久弥はその皮肉めいた言葉に眉を上げた。


「まだ三ヶ月、だと?」


臘春はしまった、と思ったがもう遅い。

火久弥はゆっくり立ち上がり、まるで何かを思い返すように天井を仰いだ。


「我はこの三ヶ月で、どれだけ屈辱的な思いをしたか」


重く落ちる声に、臘春はそっと姿勢を直した。

火久弥を刺激しないよう、しかし逃げもしないように。


「……すみません。そんなつもりじゃなかったんですが」


「毎日、ほぼ一日中箒を握らされ、下賤な者どもがやるようなことを我はずっとやらされている」


臘春は静かに火久弥を見上げた。


「意味のない労働だ。それでも『宮を綺麗にし、心を改めよ』と言われ、箒を握らされる。実に下らない」


「……それは大変ですね」

「大変?違うな。腹が立つのだ」


火久弥は苛々とした調子で続ける。


「“心を改めよ”だと?笑わせる。余計に荒むだけだ。あれは心を荒れさせるためにやらせているのかと思うほどだ」


「……確かに、火久弥殿には向かないかもしれませんね」


(だから罰になるんだけどね)


「向かないに決まっているだろう。あれほど単調で、意味のない作業はない。砂利を梳いては落ち葉を避け、避けた端からまた風が運んでくる。永遠に終わらぬ戯れだ」


火久弥は深いため息をつく。


「昨日はな、掃除の最中にそなたがいる部屋の近くを通ったのだ。臘春、うたた寝をしていたな?寝息が聞こえたぞ。あの呑気な寝息が!我が砂にまみれて這い蹲っておる時に!」


臘春は顔を上げ、必死に弁解しようとした。


「そ、それは……少し調子が悪くて休憩を……」


「調子が悪い?我はこの三ヶ月、毎日調子が悪いのだが」


火久弥はとうとう臘春のすぐ横にどっかりと腰を下ろした。距離が近すぎて、臘春は思わず後ずさりそうになる。


「いいか、臘春。こうなったのはすべて己のせいなのだぞ」


「……はあ」


(……自業自得では?)


と言ったら火に油を注ぎそうなので、臘春は曖昧に頷いて誤魔化すことにした。


「だから、せめて──」


火久弥は臘春の顔を覗き込み、急に声を落とした。


「今宵は我の話を聞け」


臘春は小さく溜め息をつき、覚悟を決めたように頷いた。


「……はい。存分に、おっしゃってください」


その後、臘春は延々と火久弥の愚痴の海に沈められることになった。





――それからというもの。


火久弥はまるで夜這いするかのように、臘春が御寝所にいる隙を狙って度々忍び込んでくるようになった。


「臘春、いるな?」

引き戸がそっと開く音にももう慣れた。


最初は「何か良い情報は手に入ったか」と聞いてくるのがお約束だった。臘春が「いえ、特に……」と曖昧に濁すと、火久弥は文句を言い、すぐに「あのな、実は今日……」と愚痴のダムが決壊する。


それが恒例になっていた。


臘春は布団に座ったまま、膝を抱えて聞き役に徹する。火久弥は床に胡坐をかき、ときには寝転がり、ときには立ち上がり、延々と語り続ける。


今日も例外ではなかった。


「侍女どもは媚びた声で“火久弥殿、こちらもお願いします”とほざく。あれはお願いしているのではない。“やれ”と言っておるのだ。犬に命令するようにな」


「命令しているって……それは違うでしょう。あれは命令じゃなくて、むしろ逆で……『どうか私どものお願いを聞いてください』って、頭を下げているんですよ」


「下げておらん。鈍いそなたには分からんのだろうが、我はああいう連中の腹の底には敏いのだ」


火久弥は鼻で笑い、畳の上に肘をついて横向きに体勢を崩した。愚痴を言うたび、態度もだんだん気安くなっていく。


「しかも“火久弥殿、お掃除がお上手でいらっしゃる”だと。我は子供か。褒めれば我が喜ぶとでも思っているのか」


「怒られるよりかは、よっぽど良いではないですか」


「見え透いたご機嫌取りの言葉など、言われても嬉しくはない。あやつらは、我が反抗できぬ身分だと知っておるから、いくらでも上辺だけで取り繕うのだ」


反抗はしているよね……?と臘春は言いたくなったが、口には出さない。


火久弥は続ける。

「極めつけは宮中の連中よ。“火久弥様はお心が改まられた”“立派に勤めておられる”……だとさ」


「そう言われることの何が不満なんですか」


「馬鹿馬鹿しい。あやつらに見せている姿は我ではない。そなたが見ている我の方が、よほど本物だ」


火久弥は膝を立てて座り直し、乱暴に前髪をかき上げた。


「猫をかぶり、腰を折り、笑顔を作り……そのたびに臓腑が煮えくり返る。我はあの俗物どもの前で、御しやすい者を演じるために生きているのではない」


火久弥はふっと臘春に視線を落とし、低く言った。


「最早、我が素を見せられるのはそなたぐらいのものだ。……鬱憤も、苛立ちも、退屈も。すべて我慢して笑顔を貼り付けておるのだ。他の者の前ではな」


「確かに、なるべく隠した方がいい性格をしていますからね」


火久弥の目が鋭く臘春を射た。



「おい。そもそも、なぜ我がこのような仕打ちを受けねばならぬ羽目になったのか、もう忘れたか。我が演技をし、己は巫女として月神に近付き、実の在処を聞き出す――その為だぞ。こんな屈辱を受ける羽目になったのは、全てそなたのせいだとゆうのに……それなのに、未だ何の手掛かりも掴めぬとは、一体どういうつもりだ」



臘春は心の中で「しまった」と口にだす。


「……もう少し時間をください」


火久弥は舌打ちをし、忌々しそうな顔になる。


「役立たずでも、少しは期待してやろうという我の慈悲を忘れるなよ」


そして話題は、再び火久弥の愚痴へと移り変わる。このようなやり取りを二人は延々と繰り返していた。


火久弥が勝手に上がり込んでくるのは、今でも正直、迷惑だと臘春は思っていた。

それでも追い返すことはできなかった。


無理に突き放せば、火久弥が何かしでかすのではないかという懸念もあったが、それ以上に──ここが火久弥にとって唯一「仮面を外していられる場所」なのだと、臘春にも分かっていたから。


臘春は密かに願う。


いつの日か火久弥が不老不死の実などという虚ろな夢を自然と手放し、このささやかな日常にただ馴染んでくれる日が来ることを。

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