十六 遭遇
星祀りの巫女になり三ヶ月が経ったある日。
臘春は侍女と連れだって、月影の宮の静かな回廊を歩いていた。
この宮に流れる空気にもすっかり慣れ、今日も穏やかに一日が終わる――そう思っていた、その矢先だった。
角を曲がった瞬間、向こうから箒を担いだ男が歩いてくる。
真正面でその男と視線が合った瞬間、記憶が電撃のように背筋を走った。
――星祀りの巫女に選ばれなかったら、覚えとけ
――選ばれたら不老不死の実のことを月神から聞き出せ
そう脅しをかけられた記憶が鮮明に蘇る。
(……あ……ああああああああああ!!!)
臘春の顔が、みるみる青ざめていく。
「まあ、火久弥殿ではありませんか」
侍女が柔らかく声をかけた。
当然の礼節ではあるが──臘春としては悲鳴をあげたい。
やめて……!呼ばないで……!!
臘春は侍女の肩を揺さぶりたかった。
月影の宮に移ってから、火久弥と遭遇することは一度もなかった。
おかげで臘春は、彼の存在を半ば忘れ、平穏な毎日を送れていたのだ。
――なのに、なぜ?!
だが火久弥は、侍女に向き直り丁寧に一礼した。
「本日もお務め御苦労様です」
にこやかな、礼儀正しい物腰。
表向き“ただの感じの良い青年”でしかない。
そして、臘春に向けられたその目もまた、柔らかかった。
「臘春殿も、ご機嫌麗しく。お変わりございませんか?」
臘春の膝は勝手に震え、身体は半歩後ずさる。そのまま踵を返して逃げ出そうとした。
だが腕をそっと侍女に掴まれ、足が止まってしまう。
「臘春さま?どうなさいましたの?火久弥殿がご挨拶していますよ」
「──っ!」
なんでそんな余計なことを……!!
と喉まで叫びが込み上げたが、声にならない。
通りすがりの侍女たちは火久弥の姿を目にした途端、頬を染めてひそひそと囁き合う。
「見て、火久弥殿がいらしてる……」
「とても綺麗でお優しい方よねぇ……」
「どなたにも丁寧で……素敵だわ……」
うっとりした囁きが、臘春の耳に突き刺さる。火久弥の猫被りは未だ健在のようだ。
臘春は喉の奥に石を詰められたような気持ちで、ゆっくりと顔を上げた。
逃げられない。
逃げてはいけない空気が、この場には満ちている。
だから臘春は仕方なく、ひどく乾いた声で言葉を絞り出した。
「……お久しぶりですね。火久弥殿もお変わりないようで……」
火久弥はその返事に、どこまでも胡散臭い笑顔で応じる。
「ええ。おかげさまで。月影の宮は清らかで、務めていて心地よい場所です。侍女の皆さまもよくしてくださる。ありがたいことです」
火久弥は続ける。
「実はですね──有難いことに、こちらの宮の掃除も任せていただけることになりまして」
「え!?」
臘春の呼吸が止まる。
火久弥は穏やかに説明を重ねた。
「以前より真面目に務めてきたことを、宮の方々が評価してくださったようで。それに……こちらの侍女の皆さまにも、ぜひ掃除の助けになりたいと申し上げたところ──快く承諾して頂けたんです」
臘春の傍にいた侍女は嬉しそうに微笑む。
「助かりますわ。火久弥殿は働き者ですから……」
「ですので──これから度々こちらへ伺うことになります。どうか、よろしくお願いします」
それは威圧でも脅しでもなく、言葉遣いだけ見れば極めて礼儀正しい。
だが臘春には、背筋を刃物でなぞられたような冷たさが走った。
(お前は逃げられないって……言いに来たの……?)
火久弥は別れ際、自然な仕草で手を差し出した。
「それでは──改めて、よろしく」
「…………」
臘春は身体が固まったまま、手を下ろして動けなかった。
しかし火久弥は困ったように笑い「遠慮なさらず」と言いながら、臘春の手を自分から掴んだ。
そして──思い切り、握る。
ぎゅう、と。
痛みを堪えるほど強く。
「いっ……!」
「失礼。嬉しくて、つい」
にっこりと微笑む。
侍女たちはその姿に胸をときめかせているようだが、臘春の心臓は氷点下に落ちていた。
(……終わった……)
その握手は、解かれたあとも臘春の手に痺れを残した。
以来、火久弥は本当に時おり月影の宮に顔を出すようになった。
箒を手に廊下の埃を払い、庭の落ち葉を掃き、時には屋根に登って枯れ葉を取り除く。
侍女たちは最初こそ驚いていたが、次第に「火久弥殿、こちらのお庭もお願いできますか?」と甘えるようになっていた。
幸い、月影の宮はそれほど大きくない。大抵誰かが近くにいる上に、臘春には侍女が付き従う。
火久弥が現れても、いつも周囲には必ず第三者の目があった。
それは火久弥にとっては不都合でも──臘春にとっては、願ってもない守りの網だった。
(……助かった……)
その夜は一日の疲れもあってか、いつもより深い眠気が臘春を包んでいた。
星祀りの巫女に選ばれた者は、他の巫女たちと違ってひとつの間を丸ごと与えられている。
それは名誉であり、特別であり、そして今となっては致命的な孤立でもあった。
“人は月の光の下にあれば、穢れは落ち、邪な心は起こらない”
それがこの国の常識であり、絶対の信頼だった。
ゆえに警備は必要とされず、置かれていなかった。
……本来なら、それで問題はない。
だが──一人だけ、それが通じない者がいる。
○○○○○○○○○○○○
臘春は香炉の火を消し、薄い燈の明かりを消し、静かに横たわった。
臘春のまぶたが落ち、意識がゆっくりとほどけていく。
御寝所の外、蔀戸の向こうで音がした。
(……え? 今の……?)
風が木の枝を揺らした音だろうかと、臘春は一度は思いかけた。
だが、次に落ちてきた音は──風ではありえなかった。
コツン……カチャ……。
金属の棒で、何かこじ開けているかのよう音。
(誰か……いる?!)
胸が跳ね上がり、臘春は寝具から身を起こしたが遅かった。
蔀戸は既に上げられ、引き戸がゆっくりと開けられていくのが目に入る。
(来る……!)




