十五 聖言
「……え?穢れ落としはもうやらないんですか?」
臘春は思わず聞き返した。
「ああ。星祀りの巫女は別にやることがある」
早緑はあっさりと言い、腕を組む。
臘春はまばたきを繰り返す。
「その代わり!」
彌生が両手を元気いっぱいに挙げた。
「めちゃくちゃ覚えることがありますよ!」
瑞季が穏やかな微笑みで補足する。
「星祀りの巫女が真に果たすべきは、月神様のために“聖言”を覚え、正しく祈りを紡ぐことです。ですから、暗唱が主になります」
「暗唱……?」
臘春は聞き返す。
瑞季は優雅に頷き、膝の上に置かれた巻物の一つを開いた。そこには、細かい文字が無数にびっしりと並んでいる。
「これが……最初の聖言の一部です」
臘春は、思わず息を呑んだ。
「…………これを全部?」
「全部ですねえ」
花朝がのんびりと答える。
「すべて覚え、間違えずに唱えられるようになる……それが星祀りの巫女の務めなんですよ」
臘春の頭の中で、数が数として認識できなくなる。
「……これはほんの触りだ。覚えないとならない聖言は、まだたくさんある」
涼が淡々と告げる。
「一人でも間違えるとやり直しになるから、気をつけてねー」
時雨がニヤリと笑う。
そこに、葉月が柔らかな笑みでそっと寄り添うように言う。
「大丈夫ですよ。皆、最初は怯みますから。ゆっくり覚えていきましょうね」
梢は凛とした姿勢のまま、短く言った。
「……覚悟は必要です」
するとサツキが腰に手を当てながら笑う。
「私でも覚えられたんだし、ちゃんと毎日やっていれば大丈夫だよ!」
雪見が静かに補う。
「毎日、皆で一緒に練習をいたしますので……どうかご安心を」
「……これを覚えてどうするのかは……未だ知らされていませんけどね………」
卯花は憂鬱そうに溜め息をついた。
穢れ落としはなくなる。
代わりに始まるのは――果てしない暗唱の日々。
けれど、それは孤独にはならない。
十二の輪の中で、同じ務めを抱えて進むのだ。
「……私、頑張ります。皆さんと共に」
早緑がにっと笑う。
「その意気だ臘春。今日からが本番だ」
それからは、ほぼ一日中巻物と向き合う日々が続いた。巻物に書き連ねられた果てしない聖言を巫女たちと声に出し、心で反芻する毎日。
そのうち臘春は聖言を唱えていないときでも頭の中で聖言が流れるようになり、夢の中でも聖言を唱えている事がしばしば起きていた。
今日もいつも通り侍女が入室し、臘春の身支度を整え始めた。
「臘春さま。大切なお知らせがございます」
臘春は条件反射で背筋を伸ばす。
「……何でしょうか」
侍女は柔らかな微笑みをつくる。
「四日後、月神様がお越しになります」
「……お越しにっ!?」
声が裏返った。
侍女の指が少しだけ止まったが、すぐに何事もなかったように手を動かす。
「はい。周期どおりでございます。星祀りの巫女は皆、その周期に従い、お迎えの準備をいたします」
(ここ最近は聖言のことばかり考えていて忘れていたわ……月神様が定期的にこられること……)
臘春の心は大騒ぎだったが、侍女はまるで次の日の天気を伝えるような平常さで続ける。
「四日あれば十分に整えられます。ご安心くださいませ。それまでに身心を整えられれば、月神様もきっとお喜びになります」
頭の中で勝手に“聖言”が流れ始め、さらにその上を“月神様”という単語が重なって、思考がぐしゃぐしゃになっていく。
「分かりました。四日後に備え心身を清め、月神様に見事な聖言を披露できるようにします」
侍女の手が完全に止まった。
「……え?」
「え?」
「臘春さま、月神様は聖言を聴きにいらっしゃるのではございません」
「じゃあ、何をしに?」
「前回と同じことでございますよ」
侍女の声がしんと落ちた瞬間、臘春の頭の中で“聖言の脳内再生”がぶつりと途切れた。
――前回と同じこと。
その一言で、記憶の蓋がぱかりと開いた。
「……ああ、そうか。思い出しました」
侍女は安堵の笑みを浮かべた。
「それならば、あとは心身を整えるのみでございます」
○○○○○○○○○○○○
そして四日後。
月神は予定通り臘春の前に再び現れた。
白磁の肌、銀の髪、淡い光を宿した瞳。
月神は臘春に微笑む。
「汝がここに来て、三週間と少し経ったな。慣れたか?」
臘春は深々と頭を下げる。
「はい。おかげさまで、穏やかな日々を過ごさせていただいております。月神様のご厚意に、心より感謝申し上げます」
月神はそっと近づいてきて、臘春の顎に指を添えて顔を上げさせた。
「何か気になることはないか?」
臘春はふと、他の巫女たちの囁きを思い出した。
――「その質問は、聞いても教えてくれないのよ」
それでも、聞いてしまった。
「月神様。どうかお教えください。あの聖言は、いったい何のためにあるのですか。他の巫女たちは、月神様に訪ねても教えてくれないと言っておりました。でも、私は知りたいのです。なぜ、あれほど長い聖言を覚えさせるのか」
今までに何度も受けたであろう質問を、同じく何度も言ったきたであろう返答で返す。
「時が来たら、知ることになる」
「……やはり、教えてはくれないのですね」
「すまぬな。だが、いずれ知ることにはなるからな。それまで待っていてくれ。今はそれしか言えぬ」
臘春はそこで諦めたようにそっと視線を伏せた。
「……わかりました。月神様がそう仰るのでしたら。時が来るまで、お待ちいたします」
「臘春。余は巫女たちから、そなたについて色々と耳にしておるぞ」
「……え?わ、私についてですか?」
「うむ。皆、そなたを高く評価しておった。“礼儀正しく、真面目に務めを果たす娘だ”とな」
臘春は驚いて目を丸くする。
「そ、そんな……皆さまが気を遣ってくださっているだけです。私はまだまだ至らないところばかりで……」
「謙遜もほどほどにせよ。余が見ておる限り、そなたは真摯に務めを果たしておる。人が汝を褒めるのは当然のことだ」
臘春は頬を赤らめ、目を伏せる。
「さて――臘春よ。ここからが余の聞きたいことだ」
少しだけ距離を詰め、耳に届くほどの柔らかな声で問う。
「汝は、他の巫女たちとうまくやれそうか?遠慮は要らぬ。余には正直に申してよい」
「……はい。皆さまとは……きっと、仲良くできると思います。まだ少し緊張もしますが……でも、みなさん親切にしてくださいます」
「……それなら良い。まあ元々、そのような気質の者を選ぶようにはしているが……」
月神はそう言いながら、臘春の表情を確かめるように覗き込んだ。
「だが――万が一、何か問題が起きたら、遠慮なく余に申せ。よいな?」
「はい。必ずお伝えします」
月神の言葉を聞きながら、臘春は胸の奥でそっと思考を巡らせていた。
(私たちに衝突が起きぬよう気遣って……しかも、あれほどの聖言を覚えさせている。やっぱり――月神様は、私たちに何かさせるつもりなのだ)
臘春はそんな確信めいた思いを抱えつつも、ふと胸の奥に別の疑問が芽生えた。
(月神様は……他の巫女さま方を、どう思っていらっしゃるのだろう?)
それは純粋な好奇心からくるものだった。ただ、この神は何を見て各々を選び、どう感じているのか――知りたいと思ってしまったのだ。
けれど、あからさまに「誰がお気に入りなのですか」などと聞くのは違う。
臘春は言葉を慎重に選び、あくまで自然に口を開いた。
「……月神様は、皆さまのことを……その……どのように感じておられるのでしょうか。私はまだ、皆さまのことを深く知らないので……月神様のお言葉を、参考にできればと思いまして」
月神は一瞬目を細める。
臘春の探りを、まるごと見透かしたような表情だったが――咎める気配はない。
「……なるほど。汝は上手に問うのだな。それならば――少しだけ話そう」
月神はふっと微笑んだ。
「そうだな……瑞季は気品があり芯が強い。彌生は賑やかだが、場を明るく保とうとする良い子だ。卯花は少し頼りなげだが、誰よりも人の痛みに敏い。葉月は人の心を掴むのが上手く、争いも鎮める才を持つ」
「早緑は弱き者を見放さぬ優しさを持っておる。花朝は柔らかく穏やかで、周囲を和ませる。サツキは性根から明るく、そして真っ直ぐだ。涼は任されたことは必ずやり遂げようとすする」
「梢は実直で義理堅い。時雨は裏表がなく、努力家でもある。雪見は何事も丁寧で奥ゆかしい……余から見た印象はそんなところだな」
臘春は小さく頭を垂れた。
「ありがとう存じます。皆さま、それぞれに素晴らしいお力を。お話を伺えて、なんだか安心いたしました」
口ではそう答えながら、心の奥では別の声が響いていた。
(……全部、思っていることではあるのでしょうけど)
月神は誰も貶していない。けれど、どれも「表の顔」ばかりだ。誰が一番心を許しているのか、誰の声に耳を傾けるたびに胸が疼くのか――そういう、決して口にしてはいけない順位のようなものは、綺麗に隠されている。
(私に遠慮しているのか、それとも……本当に、誰も特別視していないのか)
どちらにせよ、巫女同士の争いを避けようという配慮は伝わってきた。露骨に「この子が一番だ」などと態度で示せば、他の子たちの心がざわつく。それをわかっているからこその、公平さ。
臘春はほっとしながらも、どこか物足りなさのようなものを覚えた。
すると月神が、ふっと息を吐いた。
「他の巫女に興味を持つのは良い。だがな、臘春。こうして二人きりでいるのに、他の者ばかりを語るのもどうかと思うのだ」
そして月神は臘春へと近づく。
「余は汝のことをもっと知りたい。教えてくれぬか」
「……はい。私のこと、もっと知ってほしいです」
臘春はそう言いながら、月神の手に自分の手を重ねた。
「そして……もっと、教えてください。月神様のことも」




