十三 契り
神官長が立ち上がり静かに大きな玉串を捧げ持った。神官長は月神と臘春とを交互に見やり、深い息を吸って祝詞を読み始めた。
「──掛けまくも畏き、天つ神、国つ神。今ここに、月の神が人の子、臘春を娶られること、神々に奉告申し上げます」
やがて、神官長が一礼して下がると、側で控えていた神官が歩み出た。
両腕に載せられた銀の大皿は、光を受けて白く輝いている。その中央には、漆黒の陶器で作られた大杯が一つ。中には澄みきった神酒がかすかに揺れている。
神官は月神の前で膝を折り、大杯を差し出した。
月神は袖口に隠していた小刃を取り出し、指先に浅く傷をつける。
ぽたり、と赤い雫が神酒の中に落ち、瞬く間に溶けて消えた。
続いて臘春も小刀を手渡される。
思いきって刃を指に押し当てると、鋭い痛みのあと、じわりと温かい雫が浮かんだ。
ぽたり……と血が落ちる。
神酒に沈んだ臘春の血もまた、静かに溶けていく。
神官が離れると、月神が臘春に向き直った。その声は、薄絹を通してなお澄みきっている。
「汝の魂は、我が満ち欠けの中に溶け込み、我が光の及ぶ限り、共に在ることを誓うか」
「はい。この身、この魂、そしてこの運命のすべてを、月神たる貴方様に捧げます。貴方様のお導きのままに、仕えることを誓います」
そう言って、臘春は深々と頭を垂れた。
まず月神が杯に唇を寄せ、一口。次に臘春へ。臘春は両手で杯を受け取り、こぼさぬよう慎重に口をつける。冷たい陶器の感触と、神酒の甘く痺れるような味。そして、ほのかに鉄の香りがした。
月神は空になった杯を神官長へ返す。
そして再び臘春へ向き直った。
月神は臘春を真正面から見据え、静かに言葉を紡いだ。
「──今日より、汝は夜を統べる我が伴侶となる。満月と共に満ち、新月と共に新たになれ」
次の瞬間、ぱん、と軽やかな音が響いた。
楽人たちが再び雅楽の音色を奏で始めたのだ。龍笛が鋭く立ち上がり、笙の和音がそれに重なり、ゆらめく霧のように神殿を満たす。
女官たちが左右から進み出て、神楽鈴と錫杖を手に舞い始めた。
細かな鈴の音は星の粒を撒くようで、錫杖が振られるたび、低く澄んだ金属音が波紋となって広がった。
神官長が手に錫杖を捧げ持ち、進み出る。
それは臘春が見たこともない形だった。
持ち手は長く錫杖のようだが、先端には五色の房飾りと、火を宿すための小さな金具が付いている。
神官長は月神と臘春の前に跪き、その錫杖を差し出した。
月神がまず柄を取り、臘春へとそっと渡す。臘春の手が重なる。ひどく緊張しているせいか、柄が体温を吸い取るかのように冷たく感じられた。
二人は並んで祭壇へ向かい、五つの燭台──緑、赤、黄、白、紫の順に並んだ灯のない火皿を見つめる。
神官長が小さく合図すると、月神が錫杖を最初の緑の火皿へとかざした。
──ぽう、と淡い翠の光が花開く。
次に赤。続いて黄、白、紫。
かざすたび、それぞれの火皿に対応する色の炎が音もなく灯り、神殿全体を幻想的に照らし出していく。炎は揺れているのに、不思議と熱は感じられない。まるで光だけを分け与えられているようだった。
最後の紫の炎が灯ると、月神は錫杖を臘春へと全面的に預けた。
「振るんだ」
その一言だけで、臘春の心臓は跳ねた。
臘春は深呼吸し、両手で錫杖をしっかり握り、胸元で一度構える。
そして──
錫杖を空へ向けて大きく振り上げ、円を描くように振り下ろした。
五色の炎が錫杖の先から混ざり合い、光の粒となって弾け、シャワーのように降り注いだ。
星屑そのもののような光は臘春の肩へ、装束へ、髪へ、そして床へふわりと落ち、触れた瞬間に溶けるように消えていく。
観ていた神官たちが息をのむ気配が伝わってきた。
五色の光はしばらく降り続け、やがて静かに収束していく。
五色の光が最後のひと粒まで溶けて消えたのを見届けると、月神は臘春へ向けて静かに告げた。
「──成就せり。行こう、我が巫女よ」
月神が先に一歩進むと、侍女たちが駆け寄り臘春の重い裾を持ち上げる。
臘春は月神の少し後ろ、肩を並べるでもなく、しかし遠すぎもせず、定められた距離を保って歩いた。
やがて本殿の外へ出る。
白砂利の参道には牛車がひとつ待機していた。
月神は牛車には乗らない。
星祀りの巫女となった臘春だけが、ゆっくりと侍女に手を引かれて車内へ乗り込む。
牛車は、月影の宮へと運び出される。
○○○○○○○○○○○○
月影の宮──星祀りの巫女が暮らすためだけに造られた、静謐な離宮。
そこに到着すると、侍女たちが臘春をゆるやかに降ろし、そのまま清衣の間へと導く。
間に通されると、まず装束を脱がされた。一枚、また一枚。重い衣が落ちるたび、臘春の身体が少しずつ軽くなっていく。そして最後に残ったのは、素肌の上に直接まとう一枚の薄絹だけ。
侍女たちが新しい衣を持ってきた。
臘春は白の小袖の上から白藤色の単を重ね、薄紅梅の打衣をまとう。侍女が膝をつき長袴を腰へ巻きつける。
侍女が最後に薄い香を袖に焚きしめると、臘春は鏡台にそっと座らされ、髪へ櫛が通された。
「臘春さま。準備が整いましたので、私たちは失礼します」
侍女たちが静かに去っていくと、残された臘春はふっと息を吐く。まるで糸が切れたように肩の力が抜けた。
臘春は小さな手炉を抱え、灰を整えた上に薄い雲母板を置き、その上に沈香の薄片を一つ、そっと載せる。
香木を直接炭火に当てず、灰の中に埋めた香炭の熱がゆるやかに伝わり、香は煙となって立ちのぼるのではなく、じわりと部屋全体に染み渡る。
そして寝具の上掛けを滑らかに直し、枕の位置を整える。枕元には新しい匂い袋を置く。袋の中身は丁字と麝香、それにほんの少しの梅の花の枯れたのを混ぜたもの。匂いすぎぬよう、袋の口はきつく結んでおいた。
そして灯りを落とす。
ほの暗い灯台の火を見つめながら臘春は御簾の陰に座り、膝を抱えて息を殺した。
自身の鼓動だけが落ち着かない。
(……本当に、ここへおいでになるのだろうか)
どれほどの時が流れただろう。
臘春がうとうとしていると、遠くで侍女の声がした。
「月神様がお着きでございます」
続いて、すっと戸が引かれる音がした。
臘春は反射的に背筋を伸ばす。
御簾がゆっくりと捲られた。
「月神様、この度は……恐れ多くもお側に召され、身に余る光栄に存じます」
臘春は畏まって頭を下げる。
膝の上で揃えた手は、冷たいほど強張っていた。
月神はしばし黙して臘春を見下ろし、柔らかく答えた。
「よい。顔を上げよ、臘春」
その声音に、臘春は胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
おそるおそる顔を上げると、月神は右手を上げ、自らの顔を覆う薄絹を静かに外した。
薄い布がはらりと落ちる。
銀の柔らかな髪が肩に落ちる。想像よりも柔和で、どこか儚げな色香を帯びた綺麗な顔立ち。恐ろしい神などではなく、ただそこにいるだけで空気が澄むような麗しさだった。
臘春は思わず呟いた。
「……思っていたより……優しいお顔を……」
その言葉を聞いた途端、月神の顔にふっと笑みが浮かんだ。
「汝はもっと、恐ろしげな面を期待していたのか?」
「い、いえ!失礼しました……」
言葉が迷子になり、臘春は頬を赤くする。月神は近づき、膝をついて臘春と視線を合わせた。
「我とて神とはいえ、汝の伴侶となる身だ。あまり遠い存在であっては困ろう」
そのやわらかな声音に、臘春の胸の奥で緊張がほどけていく。
月神の手が伸び、臘春の頬にかかった一房の髪をそっと払った。
指先はひやりとして、月光そのもののようだった。
「……緊張しておるのだな」
「は、はい……少し……いえ、かなり……」
「恐れることはない。汝を苦しませるために来たわけではない」
「……はい」
臘春の声は、自分でも驚くほどかすかだった。
胸の鼓動は相変わらず早いが、逃げたいわけではない。
むしろ、その神の手の温度をもっと近くで確かめたかった。
月神が臘春の両手を包み込む。
「今宵より、汝は我が伴侶。互いの清らかなる心を通わせ合おう」
その宣言は、祝詞でも儀式でもない。
ただ二人の間に落とされた、静かで確かな誓いのようだった。
「……私でよろしいのですか」
「勿論だとも」
その一言が臘春の胸を打った。
涙が溢れそうになるのを堪えた瞬間、月神は臘春をそっと抱き寄せる。臘春はその胸もとに身を寄せた。




