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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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十二 星祀りの巫女

──その日を境に、臘春(ろうしゅん)は可能な限り火久弥(かぐや)と顔を合わせないようにした。


気配を感じれば遠回りしてでも反対の方へ行き、遠くで箒の音が聞こえれば別の回廊へ逃げ、たとえ他の巫女に「臘春さま何してるんですか!?」と怪しまれようが、関係なかった。


(……できるだけ関わらない方がいい……!)


そんな日々が続いたある日、臘春は神官長から”至急(まい)れ”と呼び出された。



○○○○○○○○○○○○



神官長の部屋は静謐(せいひつ)さに満ちていた。


床には白い敷物、壁には月を象った金銀の飾り。香炉から立つ淡い香煙が、ゆらゆらと天井へと昇っていく。


臘春が正座すると、神官長はゆっくりと視線を上げた。


「臘春」


低く、重い声だった。

何か重大なことが告げられると、臘春でも分かった。


「お主を──十二人目の《星祀(ほしまつ)りの巫女》として選ぶことが決まった」


臘春の心臓がどくん、と跳ねた。


神官長は続ける。

「荒ぶる火久弥を静め、心を改めさせた功績は大きい。月神様も皇母神(こうぼしん)様も、そなたを優秀と認められた」


臘春は思わず視線を宙に彷徨わせる。

火久弥の脅し顔、暴言、箒の柄が喉元に押しつけられた光景が脳裏でフラッシュバックした。


「これより、巫女としての務めの重要さが格段に増す。覚悟しておけ」


臘春は不安でいっぱいになりながら、深く、深く頭を下げた。


「……は、はい。謹んでお受けいたします」


「それで、お主はこれより『月誓(げっせい)(ちぎ)り』の式を受けることになる。この式を終えてこそ、正式に星祀りの巫女と認められるのだ」


臘春は瞬きを忘れた。


……月誓の契り。


もちろん知っている。星祀りの巫女に選ばれた者は、必ずその式をする。月神の御前に立ち、血を捧げ、誓いを立てる儀式。古い書物にも、壁画にも描かれている。巫女たちはみな、嬉し泣きをしてその日を迎えたと伝えられている。


でも、まさか、本当に自分が。


「式は、一週間後だ」

「い、一週間……?」


思わず声が裏返った。

そんなに早いのか。


神官長は眉をひそめたが、咎めはしない。冷静に言葉を継いだ。


「そなたが選ばれた以上、準備は早いに越したことはない。必要な指導はこちらで全て行う」


(……それにしても早いわ……心の準備が……心の準備が追いつかない……!)





その日を境に、臘春の毎日は一変した。


穢れ落としの務めから外され、代わりに“星祀りの巫女としての準備”が臘春のすべてになった。


まずは神官長と数度にわたる段取り確認。


誓詞(せいし)の読み上げ方から、立ち位置、歩き方や歩幅まで細かく指導され、臘春が少しでも間違えるたび、神官長は静かに咳払いする。


(き……緊張で手汗が……!)



続いて、式で身にまとう衣の選定。

巫女頭や裁ち人の侍女たちが入れ代わり立ち代わり現れては、紅色の長袴、淡藍の表着、桜色の唐衣などを次々と臘春に当てていく。


「臘春殿には清らかな色が似合いますわ!」

「いえ、もっと濃い色がよろしいかと!」

「髪飾りは月桂と星簪(ほしかんざし)のどちらに──」


侍女たちが左右から勝手に重ね色を争わせ、人形のように次々と着せ替えさせられる。

臘春はただ振り回されるばかりだった。




そんな慌ただしくも濃密な日々は、臘春の頭の中の実感をじわじわと満たしていく。


(本当に星祀りの巫女になるんだ……ぼんやりしていたはずの未来が、急に形になって押し寄せてくる感じ……)


稽古で疲れ、衣で締められ、神官長に詰められ……それでも逃げる暇などないまま、日は過ぎた。


胸の奥が誇らしく、怖く、落ち着かない。


臘春は誓詞の巻物を胸に抱きしめ、これから挑む大役の重さに息を整えた。



○○○○○○○○○○○○



そして──ついに、その日がやってきた。


湯殿には静かな湯気が立ちのぼっていた。香草が浮かぶ湯は澄みきり、その香りは臘春の心まで清めていくようだった。


侍女たちが湯をすくい、臘春の背へ、肩へとそっと流す。


「式の日ですからね、しっかりお清めいたしましょう」


湯が肌を滑り落ちるたび、まるで心の内側まで洗い流されるようだった。


清めが終わると臘春は白布をまとい、湯殿を後にした。



外に出て侍女たちに先導されて向かったのは、月影の宮の晴れの儀にのみ用いられるという、清衣(せいい)の間であった。


臘春が足を踏み入れると、侍女たちは一斉に頭を下げた。


「臘春さま、着付けをいたします」


侍女たちが左右から臘春を取り囲む。


「はい腕を!お召し物通しますね!」

「髪、結い上げますよ、動かないでくださいね!」

「簪、金具固いですから少し痛いかもしれません!」


侍女たちは手際よく着付けていく。

白を基調に蒲公英(たんぽぽ)色・紅色・若菜色が何層にも重なる見目麗しい女房装束だ。

臘春の肩に静かに降り積もるその重さは、新しい役目の重みそのものに感じられた。


臘春の藍色の髪は丁寧に梳き上げ高く結われ、月光を思わせる金の簪が挿された。


「臘春さま、まことにお美しいですよ。星祀りの巫女に相応しい見事な装いでございます」


侍女の低い囁きに、臘春はかすかな微笑を返した。


(……重い。けれど、この重さをこれからずっと背負っていくのね)


支度が整うと、扉がゆっくりと開いた。



外では、雅楽(ががく)の調べがすでに響き始めていた。龍笛は空を裂くように澄み、(しょう)の和音が薄い霧を震わせる。


鳥居の前では、祭列が厳かに整列していた。


先頭の神官長は白の浄衣に身を包み、その後ろに神官たち、楽人が控え、誰もが静かな面持ちで臘春の到着を待つ。


やがて、女房装束に身を包んだ臘春が、侍女に導かれて姿を現した。


直後、太鼓がどん、と鳴り響く。


先頭の神官長が第一歩を踏み出し、続いて楽人、神官たちがそれに続く。


その中心で、臘春もゆるやかに一歩を踏み出した。数名の侍女が裾を両側から支え、慎ましい足取りで彼女の歩みに寄り添う。



やがて、長い石畳の参道を進み、一行は荘厳(そうごん)な祭壇の前に辿り着いた。


神官長が片手を上げると、楽人たちの(しょう)篳篥(ひちりき)が一際高く響き渡る。

それは入殿(にゅうでん)を告げる調べだった。


楽人たちがまず左右へと退き──

続いて神官たちも道を開くように身を引いた。


臘春は開けられた道を一歩、また一歩と進み出る。


神官長は静かに臘春の手を取り、ゆっくりと祭壇へと導いた。冷たい石畳を踏むたびに、臘春の心臓は早鐘を打つ。



祭壇の中央に、皇母神と月神らしき姿が見えた。月神は深い藍色と柔らかな薄鼠色を基調とし、所々に金色の縁取りが施された装束を身にまとっている。皇母神は藤紫の小袿姿(こうちぎすがた)だ。


どちらも純白の薄絹で顔を覆い、輪郭すらぼんやりとしか浮かばない。


神官長は臘春の手をそっと離し、祭壇の前へと進み出た。そして低く、しかし澄んだ声で祓詞(はらえのことば)を奏上し始めた。


(つつし)んで(そう)す。 天地の初めに成りし時より、月の神と人の子の契り、ここに成る。 夜を照らし、人を導く神。 その御手を取り、人の世に降り、人の温もりを知らんとする。 今この時、皇母神の御前にて、天津祝詞(あまつのりごと)太祝詞事(ふとのりごと)()る。 相携(あいたずさ)えて永遠の契りを結び給え。 月と人の子、満ち欠け、寄り添い合う。 神人合一(しんじんごういつ)の契り、ここに成るものなり」


皇母神が前へ出た。

手には、小さな金細工の水瓶がある。


臘春が(てのひら)を上に向けると、清らかな水が細く流れ落ちる。冷たい水が掌に触れた瞬間、臘春は体中が浄化されるような感覚に襲われた。


続いて月神の両手に水を注ぐ。

月神は臘春よりも高い位置で両手を差し出した。その手は細く長く、同じ人間の手をしていることが不思議に思えた。


清めが終わると、月神はゆっくりと向きを変え、臘春と正対した。臘春は緊張から月神の顔をまともに見ることができない。絹で覆われているから、どのみち見えないのだが。



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