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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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十一 労働奉仕

しばらくすると、宮中で火久弥(かぐや)に関する噂は広まっていた。

臘春(ろうしゅん)が聞こうとしなくても宮の隅々にまで伝わり、耳に飛び込んでくるほどだった。


「聞いた聞いた? 拘束解かれたんだって!」


「反省の弁がすごく丁寧だったらしいわ。土下座までしたって!」


「月神様と皇母神様が『今回は労働奉仕で許す。ただし次に穢れを撒いたら重い罰を下す』って裁定されたんだって!」


「あの人、火久弥っていうんだってー」


巫女たちの輪から抜け出し、廊下を歩きはじめた臘春の耳に、まだ断片的な噂話がひっきりなしに飛び込んでくる。


「でで、住まいはどこに?」

「永夜の宮の、昔の物置小屋だって!」

「ええっ、あの埃だらけの……」

「しかも労働奉仕は当分続くらしいよ。宮中全部を一人で掃除するんだって!」


(……火久弥が、掃除……小屋暮らし……)


想像して、臘春は思わず胸の奥がざわついた。


(嫌がって暴れたり……しないよね?……あの火久弥が……毎日黙って掃除なんて……)


どう考えても、爆発の予兆しかない。


臘春は月を見上げ、小さく祈るように呟いた。


(……頼むから、大人しく労働に勤しんでいますように………!)




臘春は休憩処へ向かって歩いていた。

湯気の立つ粥と甘葛の茶のことを考えて、ほんの少しだけ気を緩めていたその時──


「……火久弥殿は東方回廊の池のあたりを掃除してるようだな……」


神官とすれ違い様、耳に入れるつもりもないのに、勝手に言葉が飛び込んでくる。

臘春は立ち止まり、茶碗の幻影を頭の中でそっと片付けた。


(……いや、別に見に行かなくてもいいのだけれど……ううん、でも……もし何かあったら責任の半分くらいは私なのだから……)


言い訳を心の中で並べながら、臘春の足は目的地を変更した。

休憩処とは逆方向へ、迷いなく。




そこは靄が淡く立ちこめ、鳥の声が遠くで響く静けさに包まれていた。


そして、その池の縁に──火久弥がいた。


長い柄の箒を手に、黙々と落ち葉を集めている。火久弥は眉が少し寄っており、その表情が妙に勤勉な青年に見える。


風が吹くたび髪が揺れ、時々落ち葉が頬に張り付くと「はー……」と小声で文句を言いながら払っていた。


臘春は柱の陰に身を隠す。心臓が無駄に跳ねる。

(……本当にやっている……!暴れても逃げてもいない……!)


その瞬間。


火久弥が、不意にぴたりと動きを止めた。

ゆっくりと顔を上げ――臘春が隠れている柱の影を、まっすぐ見た。


臘春は固まった。


火久弥は箒を持ったまま、静かな足取りで近づいてくる。


「臘春殿、お久しぶりです。お変わりなく、何より」


その声音は絹のように柔らかい。臘春は思わず胸に手を当てる。

(……れ、礼儀正しい!まさか本当に心を入れ替えて……?)


「実は、少しお話ししたいことがありまして……こちらへ来てくれませんか」

「え、ええ……何かしらぁっ」


丁寧な言葉遣いとは裏腹に、有無を言わせぬ手つきで腕をつかまれ、思わず語尾がおかしくなる。

そしてそれとなく人目から外れる、池の裏手へ臘春を引っ張っていく。




すると、ついさっきまで絹のように柔らかかったはずの火久弥の声色が音を立てて剥げ落ちた。


「──まったく、牛歩のごとく歩みよ。もっときびきび動かぬか」


臘春は思わず足をすくませた。

さっきの“丁寧さ”は当然のように蒸発し、代わりに戻ってきたのは、いつもの横柄で傲慢な火久弥そのもの。


「か、火久弥殿……先程の態度は……?」

「演技に決まっておるだろう。まさかそなたも騙されたのか?」


言い捨てる声は低く、鋭い。

しかし、その鋭さをなんとか押し殺しているのが分かる。

二人きりでも誰かの耳が光っていないとは限らない──それを理解しているのか、火久弥は怒りを水に沈めたような、かなり抑えた小声で暴言を連ねる。


「……まあ、一瞬だけ……」

「愚かだな。どいつもこいつも、我がほんの少しばかりしおらしく振る舞うだけで、たやすく欺かれる。人とは本当に扱いやすい」


火久弥は鼻で笑った。

「……もっとも、愚かなのは人間だけじゃなかったがな」


「……どういう意味?」


「我はあの日、月神と皇母神の御前に連れ出された。姿は几帳で隠れて見えなかったが……」


火久弥はそこで、思い出しただけで吐き気を催す、というように肩を震わせた。


「“臘春殿のおかげで心を入れ替えました”や“誠心誠意つとめる覚悟ができました”だのと、そんな気色悪い台詞を、我はつらつらと並べてやったわけだ」


火久弥は続ける。


「で、二柱はどうしたと思う?“反省しているようだから、まずは労働奉仕で様子を見る”だとさ。本気で信じたようだ。この国は阿保ばかりで助かる」


嘲笑を隠そうともしない声が、臘春だけに聞こえるような声量で響く。


臘春はこみ上げてくる不安を押し込めながら言った。


「で、でも……言われた通り真面目に掃除して……」


「こんな雑用、いつまでもやると思っているのか。我はとっとと本来の目的を果たしたいのだ」


火久弥は箒の先で臘春の肩を軽くつつく。


「──さっさと“何とかの巫女”に選ばれて、情報を持ってこい」


「そ、それは……わ、私が選べることでは……」


臘春は慌てて両手を振って宥めるように言うが、火久弥は苛立ちを隠す気もなく、眉間に皺を寄せた。


「知らんな。やれ。……ここまでしてやったんだ。もしそなたが選ばれなかったら──」


箒の柄が、ゆっくりと臘春の喉元に押し当てられる。臘春の息が詰まる。


「覚悟しておけ」


火久弥は笑った。白い歯が覗く。相変わらずの美しさだが、今はそれよりも恐怖の方が勝った。



その冷たい圧迫に臘春が息を呑んだ、その瞬間。


「──火久弥殿!どこにおられますか!」


池の向こうから、神官の声が響く。


臘春の肩がびくりと跳ねた。

火久弥は露骨に舌打ちする。


「……チッ。あの見回り連中め。我が労働を怠けぬよう、奴らは一定の間隔で来る……実に鬱陶しい」


火久弥は箒をすっと引き、臘春の耳元で低く呟く。


「行くぞ。余計なことは言うな」


返事は許されない雰囲気だった。

臘春は喉の奥がひりつくのを感じながら、小さく頷くしかない。


二人は池の裏手から回り込み、神官の前へ姿を現した。


「火久弥殿!ああ、よかった……持ち場から外れたと聞きまして──」


神官が安堵したように近寄ると、火久弥はすぐさま柔らかな顔を貼り付けた。


「申し訳ありません、少々風が強く、落ち葉が裏手に流れてしまいまして。臘春殿に状況をお伝えしたところ、一緒に清掃を手伝ってくれたのです」


一瞬で戻る“しとやかな善人”の仮面。

あまりの切り替えの速さに、臘春は背筋が震えた。


神官はというと、すっかり信用してしまったらしい。


「なるほど……ご丁寧にありがとうございます、臘春殿も」


神官が深々と頭を下げると、火久弥の視線が臘春へ向けられた。

──何か言え。合わせろ。

言葉にせずとも、無言の圧力がじわりと押し寄せる。


臘春は引きつった笑顔を張りつけ、なんとか声を絞り出した。


「え、ええ……火久弥殿は……とても真面目に……その……ええ……」


自分でも何を言っているのか分からない。火久弥がふいに柔らかな声音を作った。


「臘春殿……お疲れのようですね。少しお休みになっては?」


まるで心配しているかのような声。

だが臘春には、その声音の裏に隠れた“帰れ”という鋭い命令がはっきり聞こえた。


「そ、そうします……」


臘春は震える足をなんとか前に出し、ふらつきながらその場を離れた。

背後で火久弥が神官に何か穏やかに説明する声がする。

振り返る勇気は出なかった。


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