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夜明けを知らぬ月の巫女  作者: てるみち。


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十 別人

臘春(ろうしゅん)は縄を解かれ、冷えた手首をさすった。


「……そろそろ、宮に戻りましょうか」


臘春が静かにそう提案すると、

火久弥(かぐや)は「ふむ、そうだな」と素直に頷いたまでは良かった。


次の瞬間。


彼は突然、風を裂く勢いで走り出した。


「ちょ、ちょっと火久弥殿!?せめて小走りで……!」


返事など当然ない。

火久弥にとって“帰る”とは“最速で駆け抜ける”ことと同義らしい。


臘春も慌てて後を追いかけたものの、数歩で悟る。


(……無理だ。追いつけない)


あっという間に姿は見えなくなり、夜風だけが取り残された臘春の袖を寂しく揺らした。


「……置いてかれた……」


途方に暮れてその場で立ち尽くしていると、地の底から響くような重い足音が戻ってくる。


火久弥だった。


戻ってくるなり、若干むっとした顔で臘春を見下ろす。


「……なぜ付いてこない?」

「ついて行けるわけがないでしょう!!」


臘春が珍しく声を荒げると、

火久弥は「ふむ……?」と顎に手を当て考え、

直後にはなぜか──


「なら、こうだな」


と、臘春の抗議を最後まで聞くことなく、腰をつかんでそのまま肩へ荒々しく担ぎ上げた。


「!?やめっ……!」


聞き入れられるはずもなく、火久弥はそのまま爆炎のごとき勢いで走り出す。


臘春の視界は上下にがっくんがっくん揺れ、竹の葉の隙間に月がちかちかと瞬いた。



やがて竹藪を抜けた。


そこに広がるのは、整然とした家並みがどこまでも続く無辺の都。


月光だけに照らされた街は、不気味なほど静かだ。誰ひとり歩いておらず、扉は固く閉ざされ、ただ風だけがまっすぐに通り抜ける。


誰もいない街道を、火久弥の足音だけが乾いた音で駆け抜けた。


臘春は担がれたまま、優雅とは程遠い姿勢で揺れ続ける。


(……酔いそう……)


街を過ぎると、朱色の列柱と長い回廊が月光に浮かぶ――永夜(えいや)の宮が現れた。


火久弥の速度がようやく落ち、境内に入る手前で彼は臘春をどさ、と降ろした。丁寧ではなく、完全に荷物を下ろすような動作だった。


臘春はよろめきながら地面に膝をつき、呼吸を整えた。まるで酒樽に放り込まれて転がされたみたいだ。


(……本当に……心臓に悪い……)


臘春はこめかみを押さえながら、ふらつく足取りで立ち上がった。


二人は連れ立って歩き出す。

夜の宮を照らす灯籠の橙が、二人の影を長く引き伸ばした。


境内へ入った瞬間、ぱたん、と誰かの文書が落ちる音が響いた。


居並ぶ巫女たち、夜詰めの神官たちが臘春と──その後ろに立つ火久弥を見て、まるで熊が祭壇に現れたかのような顔で固まった。


「えっ……あの者は……!」

「巫女殿、無事で……!?しかしその背後の異形は……!」

「いや待て、まず拘束を──!」


ざわめきが瞬く間に広がり、次の瞬間、神官たちが一斉に飛び掛かった。


火久弥は反射的に腕を振り上げ──

そのまま殴り飛ばす勢いで力がこもりかけた。


臘春は即座に火久弥の袖をきゅっと引っ張る。目配せだけで“暴れるな”と伝える。


火久弥は眉をひそめつつも、その合図を受けて動きをぴたりと止めた。


「……分かっている。穏やかに、だろう?」


ぼそっと呟いて、大人しく両腕を差し出す。


神官たちは逆にたじろいだ。


「えっ……自分から腕を……?」


拍子抜けしたような声が漏れる。だが、すぐに我に返ったように神官たちは縄を素早く巻き、瞬く間に手首から肘、肘から脚までががっちりと縛り上げる。


火久弥は微動だにしない。ただ、わずかに唇を歪めただけだった。


縄がぎちぎちと音を立てるたび、火久弥の腕や脚の筋がわずかに動き、神官たちはその度にびくっと身体を跳ねさせた。


「……締めすぎではないか?」

「いや、この男のひと蹴りで五、六人は飛ぶと聞いたぞ。もっと縄を巻いた方がいい」


「……きつい」

火久弥が小さな声で呟くと、神官の一人がびくりと肩を震わせた。

縄が結び終わる頃、年長の神官が臘春に歩み寄る。


「巫女殿……一体、これはどういうことです? あの男は貴女を連れ去ったはず──」

臘春は深く息を吸い、静かに頭を下げた。神官たちの視線が一斉に彼女へ向く。


「はい。最初は確かに連れ去られました」


周囲がどよめく。


「でも、私は彼にこんなことはもうお辞めなさい、と根気強く諭したのです」


臘春はゆっくりと顔を上げ、火久弥を見た。縛られたままの火久弥はうつむいている。


「私は彼に、ずっと聖言を唱えて聞かせました。意味が伝わるように、ゆっくりと、丁寧に。逃げようとすれば追いかけて、寝ている横でも唱えました」


「聖言を……あの男に……?」

「巫女殿ひとりで……?」

ざわり、と空気が揺れる。


「すると……彼が突然泣き出したんです。『もう、嫌だ』って。『自分は間違ってた』って」

臘春は少し笑った。優しげで、どこか意地悪な笑みだった。


「それからというもの、彼は自分で『みんなに謝りたい』と言い出しまして。『ちゃんと土下座して詫びたい』と懇願するので……だから宮へお連れしたのです」


神官たちはぽかんと口を開け、縛られた火久弥を、そして臘春を交互に見た。


「……本当なのか。臘春殿の言葉は、真か?」

低い声で問いかけたのは、朔臣(さくおみ)だった。縛られた火久弥へ半歩進み出る。


火久弥はわずかに顔を上げた。

縄で固められた肩がぎしりと鳴り、神官たちが身構える。


臘春はその動きを横目で牽制した。

(忘れないで。穏やかに)


火久弥はわずかに頷くと、まるで別人のように大人しく、柔らかい声音で答えた。


「……うむ。こむ……臘春……殿の申した通り…でございます。わ……わたしは……ええと……悔い改めました」


「で、ご……ざいます……?」

朔臣が目を見開く間、火久弥は用意していた“練習台詞”を探すように目を動かし、

「わ、私は……これまでの狼藉(ろうぜき)……深く反省し……皆々様に……お、お詫び申し上げます」

と、ひどくぎこちないながらも丁寧な言葉遣いで頭を下げた。


神官たちは一斉に揺れた。

「えっ……?」

「お、お詫び……?」

「この男が……?」


臘春は横で静かに微笑む。


火久弥は更に言葉を継いだ。

「わたしは……巫女殿のお導きにより、己の過ちに……気づき……」


火久弥は内心舌打ちしながらも演じきる。涙まで勝手に滲んでくるのは反省したからではなく、ただ単に悔しさのせいだった。


だがその涙が、逆に効果を上げていた。


これまで牙を剥き出しにしていた男がまるで別人のようにしとやかになり、長い睫毛を伏せて視線をさまよわせる。縄で縛られた肩が小さく震え、頬を伝う涙の筋が、月明かりに照らされてきらめいた。


──美しかった。


元々非常に整っていた顔立ちが、乱暴な態度をかなぐり捨てた途端、毒気を抜かれた花のように儚げに咲いた。

白い喉が細く震え、唇がわななく。まるで今にも折れてしまいそうな、壊れものめいた気配が漂う。


神官たちはどきりとし、あの堅物の朔臣さえ、まっすぐ向けられた火久弥の瞳に視線を絡められた途端、耳まで赤く染めた。


「な、なぜ目を合わせてくる……!?」

「い、いえ、その……謝罪の意を伝えるために……」

「やめよ……そんな目で見つめるな……!」


朔臣が混乱して一歩下がり、他の神官たちも、頬を染め、視線を逸らす者、逆に凝視してしまう者、様々だった。


荒くれ者を縄で縛ったつもりが、どう見ても“殊勝な心を持った美丈夫”が丁重に謝罪をしている構図になってしまった。



神官たちのざわめきが広がる中、神官長が威厳を取り戻そうと胸を張り、声を張り上げた。


「──この者の処遇については月神様にお伺いを立てねばならぬ。連行せよ」


その一言で、場にあった熱がすうと引いていく。号令と共に神官たちが火久弥へと近づく。

だがその様子は、乱暴者を押さえつけるものではない。

むしろ、壊れやすい硝子細工を運ぶような、ぎこちない優しさが神官たちの間に広がっていた。


縄で縛られた火久弥の両腕に、そっと手が添えられる。まるで高価な献上品を運ぶような足取りだ。

ある者は「足元、お気をつけください」と小声で言い、またある者は「寒くないか」と自分の外套を脱ぎかけて、慌ててまた羽織り直す。


火久弥はされるがままに歩かされる。


神官長はその光景を見て、思わずまばたきをした。


「……おい。連行とは……そのような、丁寧にするものではないのだが……?」


注意のつもりだったが、若い神官たちは真面目な顔で口々に反論する。


「しかし神官長。転倒して怪我でもすれば大事です」

「そ、そうです。月神様の御前に立てる場へ向かうのですから………」

「それに、この方……その……儚げで……」


誰かがそこまで言いかけ、慌てて口をつぐむ。


だが火久弥の横顔をちらりと見れば、確かに“儚げ”という表現も強ち間違いではなかった。


粗暴さを脱ぎ捨て、縄に縛られてうつむいている姿は妙に庇護欲をそそる。

神官たちは視線を合わせるたび、妙な動揺を見せた。


「こ、これ……本当に狼藉者か……?」

「……別人が入れ替わったのでは……?」


ひそひそ声が後を絶たない。


こうして、火久弥は神殿奥へと連れて行かれた。




火久弥が丁重すぎるほど丁重に連れられていったあと、境内にはふっと静けさが戻った。


その静寂を──

「臘春さまぁーーっ」

という、情緒を吹き飛ばすような叫び声が破った。


次の瞬間、華やかな衣が一斉に押し寄せてくる。


「臘春さまっ!」

八千瑠が一番に飛びついてきた。涙まで浮かべている。

「ご無事で……本当に良かった……!」


「ちょっと千代、離れなさいってば!臘春さまが苦しそうじゃない!」

千代が八千瑠の襟首を引っ張りながら、自分も臘春の腕をぎゅっと握った。


臘春は肩を揺らされながら息を呑む。


「連れ去られて……もう戻られないのではと……!」

八千瑠につられたのか、千代も涙を指で拭っている。


月見は少し離れたところで両手を組み、目を輝かせている。

「あの乱暴者を……本当に浄化したのね」


「魂まで入れ替わったみたいだったわよね。椿、ちゃんと見てた?」

比奈江がくすくすと笑う


椿は頬を赤く染め、こくこくと頷いた。

「見てた……最後にちらっとこっちを見たとき、目が潤んでて……もう、胸が……」


若い巫女たちも一斉に頷く。


「涙まで流して謝ってました!」

「……あれはもう……」

「二度と暴れない気がしますわ!」


臘春は、なんとか笑みを保とうとしながら小さく頷いた。

「……まあ、結果としては……落ち着いてくださったようで……」


後ろに控えていた巫女たちは一斉に手を叩いて歓声を上げた。

「臘春さますごーい!」

「これで夜も安心して眠れます!」

「あの男……ちょっと見直しました……」


「「浄化成功、おめでとうございます!」」


臘春は困りつつも、どこか達成感に近いものを覚える。


──実際はただ言いくるめて、話し方を教えて、少し脅して、少し褒めて、ちょっと演技させただけなのだが。


巫女たちは臘春を解放しようとはしない。


「臘春さま、どうやってあの男を……?」

「どんな方法で穢れを……?」

「聖言、何回唱えたんですか……?」


質問攻めにされながら、臘春は遠くで連行されていく火久弥の背を思い出し──


(……まあ、うん。結果オーライ……よね……?)


と、肩の力を抜くのであった。


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