一 宵闇の国
永遠に夜が明けない──そんな不可思議な国がある。
宵闇の国と呼ばれるその地では、月は決して地平へと沈まず、空の高みに凛と輝き続けていた。
人々はその淡い光を当たり前のように浴び、昼という言葉すら遠い昔話のように記憶の彼方へ消え去っていた。
宵闇の国を統べるは月の神。
その月神に仕える巫女の一人が、臘春である。
彼女の役目は、国へ流れ着く者たちの穢れを祓い落とすこと。宵闇の国は行き場を失った者、罪を背負った者、居場所をなくした者たちも受け入れる、広大な流刑地のような場所だった。
だが、月神の眼差しの下で暮らすには、ただ足を踏み入れればいいわけではない。
受け入れられる前に、清められなければならない。
その清めを担う巫女は、長いこといる臘春ですら把握しきれないほど多くいる。ただ、その中でも臘春の評判は良かった。
臘春の穢れ落としを受けた者は、みな何かが抜け落ちたように静かな表情になる。まるで胸の奥にずっと絡まっていた糸が、ようやくするりとほどけたかのように。
臘春の手にかかると、不思議と心の奥底まで洗われるようだといわれていた。
臘春は今日も淡々と務めを果たした。
釣灯籠が揺れる休憩処に戻るとようやく肩の力を抜き、香のかすかに漂う部屋で一息つく。
その静けさを破ったのは、かすかな足音だった。
「臘春さま、お疲れ様でございます」
軽やかな声とともに顔をのぞかせたのは八千瑠。続いて千代が控えめに一歩遅れて頭を下げる。
「お疲れ様……二人とも、今日はどうでしたか?何か問題は?」
臘春は穏やかに二人を見つめる。
「臘春さま、問題どころか大惨事ですよー!」
八千瑠は大げさに両手で顔を覆った。
「大惨事?」
臘春は眉をひそめる。
「はい!途中でこけちゃいましたし!それから言い間違えも何回も……!」
「……またやってしまったのね」
臘春は茶碗に口をつけ、苦笑を浮かべる。
「あ、でも臘春さま!時間はかかっちゃいましたけど、ちゃんと穢れは落とせましたから!誤解なさらぬよう」
八千瑠は慌てて弁解する。
千代は小さく笑みを浮かべ、八千瑠の肩に手を添えて言った。
「八千瑠はかなり慌てていて、普通なら一人あたりニ十分ほどで終わる穢れ落としをなんと一時間もかけていましたけれど……それでも、ちゃんと穢れは落とせていましたよ。受けた人たちはみな、魂が抜けたような顔をしていましたし」
「うっ…………!」
八千瑠は顔を真っ赤にして千代を軽く睨み付ける。
千代はにっこり微笑みながら、臘春に向き直る。
「臘春さま、私は特に問題なく務めを終えることができました。臘春さまの普段からのご指導のお陰でございます」
八千瑠は「むぅぅ」と唸る。
そして、不意にぱっと顔を上げた。
「……あ、でも臘春さま!千代だって!千代だって実はやらかしてたんですよ!」
「はい?」
千代は即座に警戒した目つきになる。
臘春は「ふうん?」と興味深そうに首をかしげた。
「千代も……何かあったの?」
「八千瑠?」
千代はにこりと微笑む――目が一切笑っていない。しかし八千瑠は恐れず胸を張った。
「はい臘春さま!言っちゃいます!千代、途中で――途中で――」
そこで八千瑠は一度息を吸い込み、声をひそめて続けた。
「……サボってました!!」
「はあっ!?」
千代は素の声で叫んだ。控えめに頭を下げていたさっきの姿勢はどこへやら、眉がぴしっと跳ね上がる。
臘春は湯飲みを置き、静かに首をかしげる。
「……サボっていた?」
「そうなんですよ臘春さま!」
八千瑠は勢いよく続ける。
「普通は、一人あたり二十分くらいかけるじゃないですか?なのに千代、十数分で終わらせて、部屋から人を出した後も次の人をすぐに呼んでいませんでした。私、休憩の時間を貰ったときに、千代はどのくらいの早さでやっているのか気になって、こっそり時間を計っていたので間違いないです!絶対ちょっと横になってましたよ!」
「横になってない!!」
千代は即座に否定した。声が裏返るほど全力だ。
「その時だけ早めに終わっただけ!その人、穢れがほとんど溜まってなかったの!ちゃんとやったのよ!」
「いやいやいや、あの早さはおかしいでしょ。私なんて時間かけすぎて足つったのに」
「時間をかけすぎる八千瑠の方がおかしいのよ!それに早い方がいいでしょ!」
「はいそこ二人とも落ち着いて」
臘春が柔らかく言うと、二人はぴたりと口を閉ざした。
だが、八千瑠はまだ言いたげに身を乗り出している。
「千代。早く終わらせても、しっかり役目を果たしていたのであれば構いませんよ。あなたの判断は信頼していますから」
その一言で千代は赤くなる。
八千瑠は「えーっ」と不満顔で腕を組む。
「じゃあ私も転んでも言い間違えても許されるってことですか?信頼されてるってことで!」
「それとこれとは話が別です」
臘春は即答した。
「ですが、時間よりも穢れがちゃんと落ちているかどうかが一番大事なことです。それができているなら及第点。八千瑠はまだ巫女になって日が浅いし、多少時間がかかっても構いません」
八千瑠はその言葉にぱっと明るい顔になり、千代は「あーあ、甘やかされてる」と小声でつぶやいた。
「臘春さま、ありがとうございます!ねっ、千代、聞いた?時間なんて些細な問題なの!」
「はいはい。じゃあ次は五時間かかっても許してもらいなよ」
「それは流石に許容しかねるわね……」
臘春は苦笑いを浮かべる。
臘春はそっと立ち上がり、棚から茶碗を取り出した。
火鉢のそばに置かれた小鍋の中では、甘葛の濃い蜜がとろりと湯気を立てている。
「二人とも、今日は本当にお疲れでしょう。甘葛煎を温めておいたから……少し甘いものでも召し上がって、休んでいきなさい」
「えっ、甘葛煎!?嬉しいです臘春さま!」
八千瑠は椅子から跳ね上がりそうになった。
千代も、普段の冷静さをわずかに崩して目を細める。
「臘春さまの甘葛煎、久しぶりですね……ありがたく頂きます」
甘葛の蜜を静かに茶碗に注ぎ分けると、室内にはかすかに焦がし飴に似た甘い香りが広がった。
八千瑠はもう限界とばかりに一口すする。
「~~~~っ!幸せ……!疲れ全部とけてく感じ……!」
「語彙が飛んでるわよ」
千代は言いながらも、口元がほころんでいた。
臘春はそんな二人の様子に目を細めた。
(可愛いものね……まったく)
八千瑠は一息つくと、突然ぱっと目を輝かせた。
「そういえば臘春さま、星祀りの巫女の選定ってもう始まっているんですよね?」
臘春は茶碗をそっと置き、「そうよ」と短く頷いた。
千代も興味を引かれたようで、少し身を乗り出す。
「星祀りの巫女って……確か、月神様の“妻”になる人たちのことですよね?十二人選ばれるって」
「ええ。もう十一人まで決まったみたいだけど」
八千瑠はすぐさま身を乗り出した。
「私、その十一人のうち五人くらいお見かけしたことあります!なんていうか……もっと、すっごい美人ばっかりかと思ってたんですけど、意外とそうでも――」
「ちょっと」
千代が即座に肘で小突き、八千瑠の言葉を叩き落した。
「そういうこと言わない。失礼でしょ」
「痛っ……ご、ごめんなさ……でも本当に、気が強そうだったり、近寄りがたかったり、色んな雰囲気の人がいて……もちろん綺麗な方もいましたが……」
臘春はふう、と息を吐いた。
(この子はほんと正直すぎるのよ……)
「確かに、容姿だけで選ばれるものではないとは聞きますね」
臘春は二人に向き直る。
「星祀りの巫女は月神様の妻として、神前で務めを果たす。そのために必要なのはきっと磨かれた技と心。そして、月神様と並び立つ覚悟。美しさは、あくまで副産物みたいなものなんでしょうね」
八千瑠は茶碗を抱えたまま、じーっと自分の手元を見つめていたが、臘春が言い終えると顔を上げきらきらと目を輝かせた。
「じゃあ……もしかして、私も選ばれたり……しないかなっ!」
千代が即座に吹き出した。
「いや無理でしょ。だって今までに選ばれた十一人とも、古参中の古参て聞くじゃん。あなた今日転びまくってたでしょ」
「ちょっ、千代!そこは夢くらい見させてよ!」
八千瑠はぷくっと頬を膨らませる。
「というかさ、選ばれるなら私たちより臘春さまの方がよっぽど可能性高いでしょ。評判だって良いんだし」
「それはそう!」
八千瑠は勢いよくうなずき、臘春の方へ身を乗り出す。
「臘春さま、絶対声かかってもおかしくないですよ!むしろ、なんでまだ選ばれてないんですか!?」
唐突な直球に、臘春はまばたきを一度。そしてふっと柔らかく微笑んだ。
「まあ……私なんて、まだまだよ。ずっと声がかからないってことは、つまり……そういうことなんでしょうね」
八千瑠は「そういうこと……?」と首をかしげ、千代は「基準が想像以上に厳しいってことなんですね」と妙に納得していた。
臘春は二人の反応にくすりとし、軽く手を叩いた。
「まあ、そんなに深く考えることではないわ。星祀りの巫女が一人選ばれるたびに、式が行われることは知っているでしょう?」
「知っています!でも私たちって参加できないんですよね……?」
八千瑠が残念そうに眉を落とす。
「残念ながらそうね。神前の儀だから、場を乱すわけにはいかないし」
「……今、“場を乱す”って私の方見ながら言いました?」
八千瑠がジト目を向ける。
「気のせいですよ」
臘春は涼しい顔で流す。
「でも!」
臘春は少し声を弾ませるように言った。
「式の日は、私たちもちゃんと恩恵を受けられますよ。御膳が特別に豪華になるの。普段とは比べ物にならないくらい」
八千瑠と千代の目が、ぱっと同時に輝いた。
「えっ!?どんな……一体どんな御飯が……」
「臘春さま、教えてくださいっ!」
臘春は思わずくすっと笑った。
「そうねぇ……たとえば前回はね」
臘春は指を一本ずつ折りながら、ゆっくりと思い出すように話す。
「蒸した穂麦に、甘~い甘葛をたっぷり絡めた蜜麦とか。山芋をほくほくに煮て、葛でとろっとさせた山芋の葛煮もあったなあ。川から運んできた鯉は、丸ごと甘じょっぱく焼いて賀寿焼きにされていたわ。それからね……銀粉をきらきらふった葛餅も出て、噛むともちもちでとってもおいしいの。……この甘葛煎も、その時戴いた物よ」
「……っ!!」
八千瑠の肩がぴくんと震えた。
「え……銀粉……?そんな……夢みたい……」
千代の声もうわずって、うっとりしている。
「うん、とっても豪華よね。式の日は、宮中全体がいつもと違う空気になるの」
(……正直、私も毎回すっごく楽しみ。 あの蜜麦の甘さ、思い出すだけで幸せな気持ちになれるわ)
臘春はにこっと笑って続けた。
「まだ二人は食べたことないわよね。十二人目が決まったら、式が行われるから……今回は一緒に食べられると思うわ」
しばし三人は、式のときにだけ振る舞われる山海の馳走についてあれこれ想像をふくらませ、笑い合った。
その賑やかな空気がひと段落したあたりで、八千瑠が「あっ!」と思い出したように声を上げた。
「ねぇ臘春さま、そういえば――聞きました!?なんか最近、すっごい変な流浪人が来てるって噂!」
臘春は細い眉をひそめる。
「変な……流浪人?」
千代は八千瑠の方へ体を向けた。
「またあんた、どうでもいい噂拾ってきたんじゃないでしょうね」
「ち・が・う・の!」
八千瑠は勢いよく首を振り、さらに声をひそめた。
「すごい妙なんだよ!ほんとに!」
「どんな風に?」と千代が聞くと八千瑠は身振り手振りで説明し始めた。
「まずね……髪!もう、そこら辺の女の人よりも長くて赤いの。それをふり乱して歩いて……めちゃくちゃ尊大な口調で話すみたいなの。神官たちが注意してもぜんっぜん言うこと聞かないんだって!」
千代が呆れたように口を尖らせる。
「絶対関わりたくないやつ……」
「しかもね」
八千瑠は声をひそめ、ぐいっと二人に身を寄せた。
「自分のことを“日の神の化身”って名乗ってるらしいの」




