第94話
「――もしかして、ヴァーン!?」
「久しぶり。アルス」
答えは短い。
けれどその声は、記憶の中の少年と同じだった。
ただ、姿だけが違う。
背は伸びて、輪郭は整い、目の色だけが昔のまま赤い。
見慣れないはずの顔なのに、見慣れていると思ってしまう。
「なんだ?そんなに変わったか、俺?」
ヴァーンが片眉を上げる。
からかう口調は昔のままだ。
アルスは首を振って、素直に言った。
「変わったなんてもんじゃないよ。すごくかっこいいよ。久しぶり」
言い終えた途端。
ヴァーンがわずかに目を逸らす。
耳のあたりが、ほんの少し赤い。
その反応が、逆に“本人だ”と確信させた。
廊下の端から、駆ける足音が近づいてくる。
ミーナとリデルが合流した。
ミーナは息を弾ませ、リデルは状況を一度見回してから、アルスの隣に並ぶ。
「すごかったね。晶獣を馬鹿にしたから、ちょっとスカッとしたけど。それでその人は?」
「ヴァーンじゃん。久しぶり」
ミーナが間髪入れずに答えを言い当てる。
リデルの目が丸くなる。
まじまじとヴァーンを見て、確かめるように言った。
「えっ!これがあのヴァーンなの?」
「あのってなんだよ。それ挨拶より先か?」
ヴァーンが口の端を上げる。
リデルは一拍だけ遅れて、咳払いをした。
「あ、久しぶり」
「リデルもミーナも久しぶりだな」
「それにしても、ここまで変わるなんて驚きね」
その言葉の間にも。
周りの視線が、じわじわとヴァーンへ集まっていく。
特に女子生徒の視線は、刺すように真っ直ぐだった。
ヴァーンは気にしていないふりをしているが、肩の力は少しだけ固い。
「そうかな?そんなに変わった?」
ミーナだけが首を傾げる。
彼女には、あまり変わっていないように見えるらしい。
アルスは話を戻す。
今はそれが一番自然だった。
「それでどうしてここに?」
「元々、ここに住んでいたからな。こいつらの引率係に選ばれたのさ」
ヴァーンが親指で後ろを示す。
そこに、黒い制服の生徒たちがいた。
アルスと同じくらいか、それより下の年頃。
背筋が揃い、足が揃い、視線の高さまで揃っている。
「グレン士官院の人たち?」
「そうだ。世話になる」
その瞬間。
生徒たちが、一斉に声を合わせた。
「「「よろしくお願いします」」」
あまりに揃った声に、空気がぴんと張った。
圧倒されて、アルスは思わず瞬きをする。
リデルもミーナも、声が出ない。
「すごいね」
「だろ」
ヴァーンは短く笑った。
そして、視線を廊下の先へ投げる。
「この後、手続きでいろいろ忙しいが――」
言いかけて、ふいにヴァーンがアルスへ向き直った。
「アルス。まだ同じ部屋使ってるのか?」
アルスの喉がきゅっと鳴った。
答えが、昨日からの現実に繋がってしまう。
「それが――」
旧棟へ移ったことを、簡単に説明する。
寮を空けること。
古い棟のこと。
すぐに部屋が決まるわけではないこと。
「はは。そうか」
ヴァーンが笑った。
笑い方は軽いのに、視線はよく見ている。
次の瞬間。
ヴァーンが一歩詰め、アルスの耳元で小声になった。
「後でお前の部屋に行っていいか?」
距離が近い。
声が低い。
アルスは反射で頷いた。
「いいけど」
「よかった。では夜に」
ヴァーンがすっと距離を戻す。
周りの生徒たちは、動揺ひとつ見せない。
訓練された沈黙がそこにあった。
「ミーナとリデルもまたな」
「はーい。またね」
「またね」
ヴァーンが振り向いて歩き始める。
生徒たちが迷いなく続き、黒い列が廊下の奥へ吸い込まれていった。
残された三人の間に、短い静けさが落ちる。
リデルが、ぽつりとこぼした。
「すごい光景ね」
「うん」
ヴァーン。
戻ってきた。
それだけで、祭りの喧噪が少しだけ現実味を増した気がする。
食堂へ戻ると、さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、皿の音が戻っていた。
誰もが口には出さない。
けれど目だけが、何かを共有している。
祭の前には、こういう小さな摩擦が増えるのだと。
誰かが、ひそひそと囁いた。
ミーナが箸を止めて言った。
「そういえばお父さんがアルスのこと呼んでたよ」
「エルネさんが?わかった」
「今、お母さんの研究室にいるはずだから、食べ終わったら行ってみるといいよ」
◆
午後。
特に予定がない時間に、アルスは研究棟へ向かった。
廊下は静かで、遠くから紙をめくる音がする。
窓の外では、旗が張られ、色布が揺れていた。
外が浮き立つほど、建物の中は静まっていく。
「リアーナ=アルセリオ」。
立て札の前で足を止める。
扉の前には、余計な飾りはない。
ただ、魔石灯が小さく灯っている。
ノックをする。
「はい」
優しい女性の声が返ってきた。
扉が開く。
そこに現れたのは、綺麗な女性だった。
整った髪。
柔らかい目元。
それなのに、視線には一本、芯が通っている。
「あら、マギア院の生徒ね。なんの用かしら?」
「あのエルネさんがここにいると聞いて」
「うちの夫になんの用?」
言葉は優しいのに、線が細くない。
扉のこちら側とあちら側を、きっちり分ける声だ。
「リアーナ。その子は僕の客だよ」
奥から、エルネが現れた。
いつもの穏やかな顔で、けれど一歩前に出る。
「そうなの?」
「この子がアルス君だよ。ミーナから聞いているだろう?」
リアーナはアルスを見て、目を丸くした。
一瞬で表情が明るくなる。
切り替えが早い。
まるで、今までの牽制がなかったみたいに。
「あら、あなたがあのアルス君なのね!初めまして、ミーナの母のリアーナです」
リアーナは言い終えると、にこにこと笑った。
話の流れより、自分の興味を優先する。
そういう軽やかさがある。
「初めまして。アルスと言います」
「ミーナに聞いていたとおり、優しそうな子ね」
褒め言葉がさらりと出る。
アルスは少しだけ居心地が悪くなって、姿勢を正した。
「それで、なんの用かしら?」
「えっと、エルネさんに用があって」
「あら、そうだった」
リアーナがさらりと頷く。
用件より先に挨拶を楽しんだことを、気にも留めていない。
「リアーナ。奥の部屋を借りるね。少し込み入った話があるんだ。さぁ、アルス君入って」
「いらっしゃーい」
エルネに促され、奥の部屋へ通される。
扉が閉まる音で、外の気配が遠のいた。
机の上には資料の束。
紙の端が揃えられ、インクの匂いが微かに残る。
エルネは椅子に腰掛ける前に、一度だけ息を吐いた。
さっきまでの柔らかい顔から、目の光が少しだけ変わる。
「さて、話はなんの事だか分かるよね?」
「はい。僕がこの前送った結晶の調査結果についてですよね?」
「そうだね。あれから少し面白いことがわかったんだ」
祭の準備の明るさとは別の、静かな重さが部屋に降りる。
アルスは背筋を伸ばして、続きを待った。




