第9話
薄く曇った朝の光が、工房の高い窓から差し込んでいた。
山を下りて十歳でここに来た少年は、今は十四歳になっている。
魔道具工房の奥、棚と棚の隙間。
埃をかぶった器具や古い魔石の箱の間に、ぽつんと空いた作業台がある。
その端に、アルスはいつものように座っていた。
細い指が、小さな金属板と歯車をいじっている。
マナを通すための細い溝を、工具で少しずつ削り出し、
結晶をはめ込むための窪みを微調整していく。
額にかかる前髪を無意識にかき上げながら、
アルスは目の前の魔道具から視線を離さない。
指先に宿るマナは、ごくわずか。
けれど、その流れは迷いなく器具をなぞっていた。
「アルス。……またここにいる」
背後から聞き慣れた声がした。
アルスは手を止めなかった。
きちんと聞こえているはずなのに、返事がない。
「ねぇ、アルス」
もう一度名前を呼ばれても、やっぱり反応がない。
「アルス。聞いてる?」
小さなため息とともに、温かな指先が肩を軽く叩いた。
ようやくアルスは顔を上げた。
「……リデル?」
「そう。やっとこっち向いた」
リデルは腕を組んで、わざとらしく眉をひそめてみせた。
あどけなさの残る顔立ちは、四年の間に少し大人びている。
栗色の髪は肩のあたりで結ばれ、動くたびに揺れた。
「おはよう。……いつ来たの?」
「さっきからだよ。三回は呼んだ」
「ごめん。ちょっと、ここ気になってて」
アルスは、自分がいじっていた金属板を示した。
魔石を収めるための小さな溝が、細かく刻まれている。
「マナの流れが、まだうまく通らなくて。少し変えてみてた」
「そういうのは授業の後にやりなさいって、何度言えば分かるの?」
リデルは呆れたように言いながらも、視線は作業台の上に吸い寄せられていた。
けれど、アルスの指先の動きには、どこか安心するような規則性があった。
「授業……?」
「ほらね。忘れてる」
リデルは腰に手を当てて言った。
「今から始まるの、マナ理論の共通授業でしょ。
アルス、またすっぽかすつもりだった?」
「……ああ」
アルスは視線を彷徨わせ、それから申し訳なさそうにうなずいた。
「完全に、忘れてた」
「もう。ほんとに来た時から変わらないなぁ」
呆れた声には、少しだけ笑みが混じっていた。
「でもね、今年は本当にちゃんとしてよ。
私、今年で学院卒業なんだから」
「……そっか」
「そう。だから、“リデルが連れに来てくれるから大丈夫”って顔してると、
来年から困るのはアルスだからね?」
アルスは少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「気をつけるよ」
「全然信用できないけど、まあいいや。
とりあえず、ご飯まだでしょ? 一緒に行こ」
リデルがくるりと身をひるがえし、工房の出口の方へ歩き出す。
アルスは手早く工具を片付け、作業台の上の魔道具に布をかぶせた。
四年前、学院に来たばかりのころ。
彼は文字の読み書きもおぼつかず、魔道具どころか、鍋の扱いも危うかった。
今、同じ工房で、小さな器具の中を流れるマナの通り道を考えている。
四年という時間が、確かにそこにあった。
◆
食堂へ向かう廊下は、昔より少しだけ騒がしくなっていた。
色とりどりのローブを着た導士見習いに混じって、
見慣れない意匠の服を着た人々が行き交っている。
胸元に風の国の紋章をつけた研究者、
土の国の硬い革鎧を改造したような制服を着た学生、
淡い白衣をまとった光の国の調査官らしき人影。
「なんか、増えたよね、こういう人たち」
リデルが囁くように言った。
「僕が来た時は、もう少し静かだったよね」
「最近、先生たちがいろいろ研究発表したからじゃないかな。
他の国の学院からも、見に来る人が増えたって聞いたし」
アルスは廊下の先を歩く人々を眺めながら答えた。
「その中でもリュマ先生!新しい魔法だって、すごいよね!」
リデルが、嬉しそうに言った。
ユベルの魔法。
“魔法を結晶として保存し、あとから再構築する術”。
今ではアルベスのあちこちで、そう呼ばれている。
魔法の発案者として記録に残るのは、
故人・ユベル=ローデン。
共同研究者として、リュマの名。
「そういえばミーナ、今どこにいるんだっけ?」
食堂前の階段を上りながら、リデルが話題を変えた。
「風の国。お母さんの手伝いしてるんだって」
「すごいよね。ミーナはやること見つけて」
リデルは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに明るく笑顔を作った。
アルスは、その表情に気づいたけれども、リデルと同じように笑った。
リデルはその笑顔から目をそらすように、慌てて話題を変えた。
「ヴァーンは、どうしてるんだろう?
火の国に行っちゃったきり、見てないけど」
「……元気だと、いいけど」
「元気よ」
そう言い切る声には、少なからず信頼があった。
◆
午前の共通授業が終わると、アルスはリュマの研究室へ向かった。
導士たちのための個別訓練は、通常の授業の枠外にある。
アルスにとって、ここに通うのは四年間、当たり前の日課だった。
扉をノックすると、中からくぐもった声がした。
「入りな」
部屋に入ると、相変わらず雑然とした机と本棚が目に入る。
魔道具の残骸や、記録用の紙束。
窓際には、小さな水晶玉と、土の塊と、火を灯したランプ。
リュマは机に肘をつきながら、アルスを見た。
「よし。じゃあ、今日も確認からやろうかね」
指先で、机の上の器具をとんとんと示す。
小さな金属皿の上に、五つの素材が並べられていた。
土、砂、小さな水の入った皿、布切れ、金属片。
「まずは、土から」
「うん」
アルスは、土に指先を近づける。
ごく薄くマナを通すと、土の表面がゆっくりと盛り上がり、
小さな柱のように形を変えた。
「安定してる。前より崩れにくくなったね」
リュマが頷く。
「次、水」
アルスが水面に指を触れると、
静かな波紋が広がり、その一部がわずかに浮き上がった。
水滴はすぐに皿へ落ちるが、形を保とうとする抵抗が見えた。
「よし。“触れる”ところまでは、ちゃんと来てる」
「風は?」
「今日はやらない。ここ、紙だらけだから」
リュマは肩をすくめた。
「火もね、ここでは勘弁しておくれ。
あんたの火の扱い、悪くないけど、まだ“消すほう”の練習が足りないからね」
アルスは少しだけ苦笑した。
導士としての基本。
それぞれの属性に、少しだけ触れる程度の技術は身についてきた。
でも、それ以上踏み込めば、“他のもの”が顔を出し始める。
だから、リュマはいつも、境界線を慎重に引いた。
「じゃ、“本命”いこか」
リュマが机の引き出しから、小さな木片を取り出した。
掌に収まるほどの、大して価値のなさそうな木の欠片。
「いつもの」
「うん」
アルスは、木片を両手で包み込むように持った。
意識を向ける。
木の中を通る細い線が、ゆっくりと浮かび上がる。
成長の記憶。年輪のような、渦を巻いた流れ。
それらを、一本ずつ解いていく。
分解。
整理。
圧縮。
木片から、光が静かにこぼれ、アルスの手の中に集まりはじめた。
やがてそれは、透明な結晶へと姿を変える。
ほんの数息の間の出来事だった。
「……ふう」
アルスが息を吐き、手を開く。
そこには、さきほどの木片が、一片の透明な結晶に変わった姿があった。
「見事なもんだね」
リュマが、感心したように笑った。
「昔は、これの三倍はかかってたからねぇ」
「リュマがたくさんやらせたから」
「そうだねぇ」
リュマは結晶を指先でつまみ、光に透かして眺めた。
「ところでアルス。ユベルの魔法。この名前が世間に広がってきた感想はどうだい?」
「……うれしいよ」
リュマは、結晶を木の板の上に戻した。
「じゃ、戻しておくれ」
アルスが結晶に指を触れ、静かに意識を流す。
ほどかれた線が逆流し、形を取り戻していく。
光がほどけて、もとの木片が掌に現れた。
四年前と同じ手順。
でも、その速さも、安定感も、まるで違う。
「よし。いいよ」
リュマが満足そうにうなずいた。
「……アルス」
「なに?」
「あんた、この四年で本当に強くなった。
体も、心も、魔法もね」
「そう、かな」
「そうだよ。あんたが自分で思ってるよりずっと」
アルスは返事をしなかった。
静かな沈黙のあと。
部屋の扉が、控えめに二度叩かれ、学院職員の声が響く。
「リュマ様。お客様がおいでになっています」
アルスは思わず顔を上げた。
扉の隙間から、ほんのりと風の匂いが流れ込んだ。




