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造物のアルス  作者: おのい えな


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第88話

 帰ってしばらく経った。


 マギア院の朝は、相変わらず静かだった。

 石壁に沿って流れる冷気と、魔石灯の淡い脈動。

 廊下を歩く靴音だけが、必要な分だけ響く。


 ミーナはまだ風の国にいるらしい。


 リュマは、土産の手紙を読み終えたあと、いつも通りの顔でこう言った。


「お土産の中で一番嬉しい」


 淡々としているのに、揺るぎがなかった。

 アルスは返事をしそびれたまま、相槌だけを落とした。

 何が書いてあったのだろう。

 師の目が、ほんの僅かに柔らかくなっていた気がした。


 その日の午後、授業が終わると同時に、リデルは鞄もきちんと閉じないまま廊下へ飛び出した。

 髪が背で跳ね、足取りが軽い。

 けれど、行き先は決まっている。


 工房。


 アルスは少し遅れて廊下に出た。

 彼女の背中が角を曲がって消えるのを見て、足を向ける。


 扉の前で、微かな木の匂いがした。

 乾いた樹皮と、削り屑の甘い香り。

 アルスはノックをして、返事を待つ間もなく中の音に気づく。

 金具が触れ合う硬い音、紙を擦る音。

 誰かが机に身を寄せている気配。


 扉を押す。


 工房の中は、夕方の光が斜めに差し込んでいた。

 粉塵がその筋の中でゆっくり舞う。

 作業台の端に、枝が何本も並べられている。

 節、曲がり、太さ。

 どれも同じ木ではないのに、似た色だけが揃っていた。


 リデルは器具と枝を睨み合うように前屈みになっていて、アルスに気づかない。


「この枝が一番、お母さんに合ってると思うんだけど……」


 言葉が、独り言の形で落ちる。


 アルスは一歩だけ近づいた。


「やあ、リデル。順調?」


「わあっ! アルス!」


 リデルが肩を跳ねさせて振り返った。

 頬に木屑がひとつ付いている。


「びっくりした……もう。入るときは言ってよ」


「ノックした」


「聞こえなかった……」


 言いながら、彼女は慌てて木屑を払った。

 けれど目はすぐ枝へ戻る。

 笑顔が残りきらない。


「なかなか難しいの。ルナと違って、羽をもらって測る、ってやり方ができないでしょ? それなのに、できるだけ腕や足の……マナの形に近づけないといけないの」


 リデルの指先が、枝の表面を撫でる。

 撫でるというより、確かめる。

 息を止めて、触覚だけで答えを探しているみたいだった。


 アルスは作業台の向こう側に立った。

 枝に並べられた小さな刻印の数が多い。

 試した回数の記録だ。


「先に、腕を切るのは……なしだよね」


「なし」


 短く、強かった。


「お母さんの負担が大きすぎる。見つかるかも分からないものに、そんな賭けはできない」


 その言葉には、現実があった。


 リデルは枝を持ち上げ、光に透かした。


「これが一番、マナを通しやすかったの。ほんの少しだけど、動かしやすいって……お母さんが言ってた」


「見せてもらってもいい?」


「うん」


 アルスは枝を受け取った。

 手のひらに乗せた瞬間、乾いたはずの木が妙に冷たく感じた。

 中心のあたりに、わずかな湿り気がまとわりつくような——いや、湿りではない。

 皮膚の下で、別の流れが引っかかる。


 アルスは、息をひとつだけ整える。


 “分析”まではしない。

 それでも、指先が教える。


(……水の気配)


 アルスは顔を上げてリデルを見た。

 彼女は、期待と不安の両方を瞳に入れたまま、口を開きかけて止めている。


 アルスは枝を少し回し、節の近くを指で叩いた。

 誤魔化すように、言葉を選ぶ。


「……ここ、少し引っかかる」


「引っかかる?」


「通りが、悪い気がする」


 リデルが眉を寄せて枝を受け取り、アルスが指した箇所に指を添えた。

 彼女の指先が、慎重に同じ場所を撫でる。


「そう? ……あ。確かに、ここだけ引っかかる感じがする」


 リデルはすぐ机の引き出しを開け、薄い金属の輪と小さな針のついた器具を取り出した。

 枝の周りに輪をかけ、針を軽く押し当てる。

 針の先が、微かに震える。


「ちょっと調べてみる」


 工房の空気が、作業の音に変わる。

 金具の擦れる音。

 紙に走る鉛筆の音。

 リデルの呼吸が浅くなる。


 アルスは黙って見ていた。

 机の端に落ちた木屑を、指で寄せる。

 手を動かしていないと、何かが勝手に動いてしまいそうだった。


「本当だ」


 リデルが小さく息を吐いた。

 器具を外し、別の測定具を当てる。

 今度は透明な板の中で、淡い光が一点に溜まった。


「この部分だけ、水が溜まってる。……変だね。問題なさそうに見えるのに」


 アルスは頷いた。

 言葉を出しすぎると、線がずれる。


「すごいわ、アルス。よく気づいたね」


「たまたま」


「たまたまじゃないでしょ」


 リデルは笑おうとした。

 けれどその笑みは途中で崩れ、口元が歪んだ。

 枝を置く音が、少し乱暴になった。


 それから、時間は早かった。


 枝は何本も調べられ、何本も印が付けられた。

 日が傾き、工房の床に伸びる影が長くなっていく。

 窓の外の空が黄昏色に染まり始めた頃、リデルは最後の器具を片付ける手を止めた。


「……これは、だめね」


 声が低かった。


「どう……だめ?」


 アルスが訊くと、リデルはさっきの枝を持ち上げ、指摘箇所を爪先で軽く叩いた。


「ここが、どうしても通りを塞ぐ。お母さんが動かすときに、引っかかると思う。……力を入れるほど、痛くなる」


 言いながらリデルは枝を戻し、手のひらを見つめた。

 木屑がまだ残っている。

 拭えば落ちるのに、拭わない。


「もう……百本以上、試してるのに」


 声がかすれた。

 怒りではない。

 疲れでもない。

 積み重ねた時間が、届かない場所へ落ちていく音に近かった。


 リデルは机に額をつけそうになって、すぐに姿勢を正した。

 代わりに、肩で大きく息をつく。


「あー……同じ枝で、この部分だけ直した枝、ないかなー……」


 冗談みたいに言った。

 冗談にしたかった。

 けれど目は笑っていない。


 アルスは、その一言に引っかかったまま動けなくなる。


 同じもの。

 部分だけ。

 変える。


 土の国で、義尾を“作り直した”ときの手つきが脳裏をよぎる。

 切り離し、組み直し、動きを取り戻す。

 痛みと引き換えに、歩く道を残す。


 ユベルの手順が、勝手に並ぶ。


 分析。

 記録。

 分解。

 圧縮。

 構築。


 枝一本なら、簡単だ。

 生体ほど揺れない。

 危険も、ずっと少ない。


 ——それでも。


 アルスの指先が、無意識に自分の手首を掴んでいた。

 皮膚の下の魔石の冷たさが、そこにある。

 禁を破った夜の後味が、舌の奥に戻る。


(やってみたい)


 喉が動いた。


 リデルが顔を上げる。

 泣いてはいない。

 ただ、目が真っ直ぐすぎた。


「アルス?」


 呼ばれて、アルスは一度だけ瞬きをした。


 言うべきか。


 言わないべきか。


 枝の上に落ちた夕光が、刃のように細く揺れていた。

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