第83話
ジルナールが、アルスを怯えた目で見ていた。
さっきまで土の鞭を自在に操っていた男の瞳から、余裕の色がきれいに消えている。
代わりに浮かんでいるのは、理解できないものを前にした、薄い恐怖と困惑だった。
アルスは、肩で息をしながら、その視線をぼんやりと受け止める。
胸はきつく上下し、全身は鉛のように重い。
額から流れた血が頬を伝って、顎の先からぽたりと土に落ちた。
それでも、頭の中は妙に静かだった。
(……勝ったんだ、この人に)
ようやく、その事実が輪郭を持つ。
さっきまで自分を一方的に追い詰めてきた男。
震えているのは、自分ではなく相手のほうだった。
「今のはなんだ!」
ジルナールが、押し殺しきれない声で怒鳴る。
「お前、何者だ!」
縛られたまま、絞り出すように叫ぶ。
だが、その言葉はアルスの耳の中には入ってこなかった。
ただ、ジルナールが言う様にアルスも不思議な感覚に包まれていた。
まるで自分が自分じゃない様な感覚。
世界の音が、一枚膜を隔てた向こう側へ追いやられていく。
アルスは、足元の土を見下ろした。
杭になった土。槍となって噴き出した石。沈んだ足場。背中を塞ぐ壁。
それら全部の配置が、頭の中で一枚の絵のように組み上がっていく。
(……すごかったな)
自分で自分に驚いていた。
まるで、散らかったパズルのピースが、ぴたりとはまっていく感覚だった。
ユベルの魔法で作り、覚え、分解してきた「形」が、今ようやくひとつの使い方として繋がった。
アルスは、ユベルの魔法の可能性をはっきりと感じていた。
(これが、いろんなマナでできたら――)
今は土の魔法の訓練しかしていない。
けれど、土と同じくらい他のマナも扱えるようになったら、どうなるだろう。
水で。風で。火で。
それぞれのマナを、ユベルの魔法で結晶として組み替えられるようになったら――。
頭のどこかが、その先の景色を夢中で描き始める。
そこまで思って、ふと別の声を思い出した。
リュマの、少し困ったようなため息混じりの声。
――『あんたは今から、ユベルの魔法を禁止するよ』
(……リュマとの約束、破っちゃった)
胸の奥が、きゅっと縮む。
ルナを守るためだった。
この男を止めるために、他に方法がなかった。
そう自分に言い訳しようとして、それでも、なぜか小さな後悔が顔を上げる。
ユベルの魔法を使ったことを、今さらになって気にしている自分がおかしくて、アルスは小さく息を吐いた。
そんなことを考えていると、遠くから聞き慣れた羽音が近づいてくる。
見上げると、空から二つの影が降りてきていた。
一つはルナ。その背に、リデルの小さな姿。
一つはハルナで、その背にはセラが乗っている。
ハルナは本来なら他の人間を背に乗せることはしない。
それでも今は、緊急時だからと、渋々了承してくれたのだろう。
先にルナが地面すれすれまで降下し、軽やかに着地する。
「アルス! 大丈夫!?」
リデルがほとんど飛び降りるようにして地面に降り、砂埃も気にせず駆け寄ってきた。
そして、その勢いのままアルスに抱きつく。
「わっ……」
ふらつきそうになる体を、なんとか踏ん張る。
リデルの腕に、震えが伝わってくる。
「頭から血が出てる! すぐに止血しないと!」
リデルは慌てて自分の服の裾を掴み、びりりと破った。
「ちょ、ちょっと待って――」
制止の声も聞かず、彼女は破いた布をアルスの額に押し当てる。
目元は今にも涙が溢れそうで、声も少し上ずっていた。
大袈裟なくらいの反応だ、とアルスは心のどこかで思う。
けれど、その大袈裟さが、リデルらしくて少しだけ嬉しかった。
ルナも、心配そうに顔を近づけてくる。
大きな瞳でじっとアルスを見つめ、鼻先でそっと頬をつついた。
「……大丈夫。ちょっと、ぶつけただけ」
アルスは、苦笑しながらそう言う。
少し遅れて、ハルナが土の上に降り立った。
セラはその背から飛び降り、周囲を一瞥する。
「――なっ」
思わず、声が漏れた。
土の国に所属している数々の魔法士を打ち破ってきたジルナールが、土の帯に拘束されている。
その少し先には、血まみれの少年。
セラは、ジルナールのほうとアルスのほうを何度か見比べた。
ここへ向かう途中、最悪の光景を想像していた。
アルスが倒れているかもしれない。
ジルナールはどこかへ逃げた後で、手がかりだけが残っているかもしれない。
そう覚悟して、急いで飛んできたはずだった。
なのに、実際に目にしたのは、自分の“弟子”が血を流しながらも立っていて、相手の晶装士が縛られているという、想定の外側の結果だ。
(……どういう、ことだ)
セラは、頭の片隅でそう呟く。
自分が認識しているアルスの実力と、この結果が、すぐには結びつかない。
だが、考えるよりも先に、胸の内側から別の感情がせり上がってきた。
安堵だった。
もしかしたら、もう息をしていなかったかもしれない。
ここへ飛んでくる間中、何度もそう覚悟しようとして、できなかった。
今、目の前で血を流しながらも立っている少年は、まだ確かに息をしている。
セラは、そっと歩み寄った。
「アルス」
名前を呼ぶ声は、いつもの導士としてのそれよりも、少し柔らかかった。
リデルの肩に手を置いて、「少しだけ」と目で合図し、アルスの身体をゆっくりと抱き寄せる。
血の匂いと、土の匂いが混じった。
「お前が無事でよかった……」
小さく、押し殺したような声。
「うん」
アルスは、それに短く返事をした。
返事をした、その次の瞬間だった。
さっきまで冴え渡っていた頭が、一気に霞みに包まれる。
足元から力が抜け、世界の輪郭が遠ざかっていく。
(あ、眠い……)
そんな子どもじみた感想とともに、アルスは意識を手放した。
◆
次に目を覚ましたとき、アルスは見慣れた天井を見ていた。
自分の部屋の、真っ白とは言えない天井。
上半身をゆっくり起こすと、きしむような痛みがあちこちから抗議してくる。
「……いっ……」
思わず声が漏れた。
肩、肋、腰。
動かすたびに鈍い痛みが走る。
布団をめくって見下ろすと、胸から腹にかけて白い包帯がいくつも巻かれていた。
腕にも、ところどころ布が巻きついている。
身体中が痛い。
よく見ると、傷だらけだった。
(ジルナールと戦った後、リデルたちが来て、それから――)
そこから先の記憶が、ぽっかり抜けている。
セラの腕の温もりと、「無事でよかった」という声。
そのあたりまでで、意識は途切れていた。
ぼんやりと部屋を見回していると、扉の向こうから声が聞こえた。
「ちょっと、ウィル、どうしたの? 引っ張らないで」
リデルの抗議する声だ。
そのあとに、低い唸り声と、床を滑る足音が続く。
誰かに腕を引かれているのだと、音だけで分かった。
次の瞬間、扉の取っ手ががちゃりと回り、扉が勢いよく開いた。
前足で器用に扉を押し開けたウィルの横から、リデルが半ば押し出されるようにして部屋に入ってくる。
「やあ、リデル。おはよう」
アルスは、とりあえずそう言った。
扉の向こうで、リデルが一瞬固まる。
次に、目にいっぱい涙を溜めて、勢いのまま駆け寄ってきた。
「アルス!」
「わっ」
ベッドに腰をかけたままのアルスに、リデルがぎゅっと抱きつく。
包帯に触れないように、どこかぎこちない抱き方だったが、その腕にははっきりとした力がこもっていた。
「よかった……ほんとに……!」
背中越しに、くぐもった声が聞こえる。
扉のところでは、ウィルとルナがひょっこり顔を出して、こちらの様子を覗いていた。
ルナは小さく「ぎゃう」と鳴き、安心したように尻尾を振る。
ウィルも喉の奥でくぐもった唸り声を洩らし、それが、彼なりの安堵の声のように聞こえた。
「……ただいま」
アルスは、少しだけ困ったように笑いながら、リデルの背にそっと手を回した。




