第82話
ジルナールの視線が、アルスの手の中の小さな結晶を一瞥して、それきり興味を失ったように流れた。
(相手は、この結晶を魔法と認識できていない)
アルスはそれを確認すると、ふっと口元を緩める。
そして、再び走り出した。
土の鞭が、すぐさま追いすがってくる。
地面を這い、空気を裂き、横から、後ろから、斜めから――さっきまでと同じように、何本もの鞭がアルスの体を捕らえようと伸びてくる。
けれど、もう一本も当たらなかった。
アルスの身体は、自分でも驚くほど勝手に動いた。
頭から血が出ている、なのに――。
頭が冴える。輪郭がくっきり見える。
体が軽い。それに――楽しい。
胸の奥で、血が熱く脈打つのを感じながら、アルスは走るたびにひとつ、またひとつと小さな結晶を落としていった。
足元に、手の届く壁際に、ジルナールと自分の中間に。
時には指先で弾いて、少し離れた場所へ投げる。
砂利の一つのように、何気なく。
拾った小石を、道端に並べていく子どものように。
「はは! こんなにも“自由”だなんて!」
新しい遊びを見つけた子どものように笑いながら、アルスは鞭の合間をすり抜ける。
土の鞭が振るわれるたび、そこに生まれる一瞬の隙間。
その隙を、アルスは正確に、楽しむように踏んでいく。
ジルナールの眉が、わずかに寄った。
「……気持ち悪いな、君。イカれたか?」
鞭の軌道はなおも正確だった。
だが、アルスは当たるぎりぎりのところで身をひねり、跳び、滑り込む。
転びそうになった足を、わざと近くに落とした結晶のそばに着地させる。
結晶は、ただそこにあるだけだ。
マナの新しい集まりも、大きな揺らぎもない。
土脈の流れに紛れている限り、それはただの“濃い石ころ”にしか見えない。
ジルナールの目からすれば、避け回る少年が、意味のない小石をばらまいて遊んでいるようにしか見えなかった。
それが、だんだんと癇に障ってきたのだろう。
「鬱陶しい!」
ジルナールが、吐き捨てるように言った。
掌を振り下ろす。
今までとは比べものにならない太さの土の鞭が一本、縦に振り下ろされた。
柱のような重さを持ったそれが、上からアルスを叩き潰さんと迫る。
鞭が地面に接触した瞬間、轟音とともに土が裂け、砂埃が爆ぜるように舞い上がった。
視界が、茶色の霧で覆われる。
「……っ、はは」
砂埃の向こうで、アルスの笑い声がした。
立ち上る土煙の中から、薄く開いたその口元がわずかに覗く。
ジルナールの目に、ニヤリと笑う顔が映った。
アルスは、その焦りを見逃さなかった。
直後だった。
地面のあちこちに転がっていた“石ころ”――結晶たちが、一斉に目を覚ます。
まず、ジルナールの右側に落ちていた結晶から、低い唸りとともに石の杭が数本、横へ飛び出した。
膝の高さほどの杭が、並ぶようにして立ち上がり、ジルナールの退路を塞ぐ。
「っ!」
ジルナールがそちらへ視線を向けた瞬間、今度は左斜め前の地面が、喉元を狙うように尖った岩の槍を突き出した。
正面には出ない。
避けたい方向、逃げたいと思う方向へ先回りして土が形を変える。
ジルナールは身を捻って槍を躱したが、その足裏で、さきほどアルスがそっと置いた結晶が砕けた。
足元の土が、ぐらりと揺れる。
地面そのものが、一瞬だけ泥のように柔らかくなり、重心が沈んだ。
「……っ、この……!」
体勢を立て直そうとしたジルナールの背後で、別の結晶が砕ける。
そこから伸びたのは、低い石壁だった。
背中にぴたりと貼りつく位置に、腰の高さほどの壁が急に生えたことで、逃げ場がひとつ消える。
右へ避けようとすれば杭。
左へ跳べば槍。
後ろへ下がれば壁。
足元は安定せず、わずかに沈み込む。
ほんの数呼吸のあいだに、ジルナールの周囲には、いくつもの“小さな地形変化”が折り重なっていた。
マナの新しい集まりや揺らぎは、やはりほとんど感じられない。
ただそこに、最初から“マナの塊”として組まれた石が転がっていただけ。
それが、アルスの合図ひとつで、土を現地で目覚めさせている。
「――っ!」
ジルナールの足元からも、土が噴き上がった。
足裏を狙う短い杭が何本も突き出し、そのうちの一本が脛をかすめる。
血が滲み、バランスを崩した身体に、別の方向から土の塊がぶつかった。
避けられないものもあった。
全てを見切るには、あまりにも同時多発で、あまりにも迂回してくる。
一本一本の魔法は小さい。
だが、それが絶え間なく、しかも四方から重なっていく。
蓄積するダメージと、何よりも足場を削られるストレスが、ジルナールの動きをじわじわと鈍らせていった。
「……っ、このガキが……!」
苛立ち混じりの声が漏れる。
その前に、ひとつの“石ころ”が転がってきた。
ジルナールの目の前で、ころりと止まる。
アルスが、砂埃の向こうからそれを投げたのだ。
「……?」
ジルナールが、無意識に視線を落とした、その瞬間。
結晶が、ほどけた。
石の表皮がぱきりと割れ、その内側から、帯のような土が伸び出す。
ジルナールの足首、膝、腰、両腕――四方から伸びた土の帯が、一気に絡みついた。
「なっ――」
抵抗するより早く、土が締め上げる。
過去にジルナール自身も使ったことのある、標準的な拘束魔法の構造だ。
だがそれは、本来なら事前に大きなマナの揺れと、土脈の変化を伴うはずのものだった。
今、ジルナールが感じ取れたのは、直前の、ほんの一瞬だけの細い揺れだけ。
その一瞬では、もう遅い。
土の帯が、完全に身体を固定する。
砂埃が、ようやく薄れていく。
視界が晴れ、拘束されたジルナールの前に、ゆっくりとアルスが歩み出てきた。
額から血を流しながらも、その表情は穏やかだった。
「ほら、僕にもできたじゃない」
アルスは笑顔でそう言った。
先ほどジルナールが口にした、「やれるもんならな」という挑発への、静かな答えとして。




