第81話
ジルナールが、口の端を吊り上げた。
「やれるもんならな」
その一言が合図だった。
男の掌の甲に埋め込まれた魔石が、再び淡い光を帯びる。
足元の土が、ざわりと逆立った。
次の瞬間、ジルナールの周囲から細い影が何本も伸びた。
土の鞭だ。
地面から生えたそれらは、しなやかにしなりながら、アルスめがけて一斉に襲いかかってくる。
「っ──!」
アルスはとっさに横へ跳ぶ。
避けた場所を狙うように、別の鞭がすでに地中から回り込んできていた。
足元の土が爆ぜ、脛をかすめる。
土の鞭は、一本ではない。
地面のあちこちから、まるで何本もの腕が伸びてきたかのように、遅れて、早く、絡み合いながら追いかけてくる。
(速い……!)
アルスは後退しながら、足元の土を隆起させて盾を作る。
だが、その盾に向かって来る鞭は一本もない。
わざと外れた場所に生えた鞭が、盾の影から抜けるようにして横合いを叩いてくる。
発生した地点と、襲ってくる場所が直線では繋がっていない。
地中で経路を曲げられている。
(土の魔法士同士の戦い方を、よく分かってる……)
土の防御を置きたくなる場所。
そこから半歩ずれたところ。
アルスが「ここが危ない」と本能的に感じる場所を、ジルナールはあえて外して攻めてきていた。
槍を作って正面から叩き落とそうとすれば、その影の下から別の鞭が伸びる。
壁を立てれば、地表すれすれを這う鞭が足首を狙う。
近づこうと一歩踏み込めば、その足場が爆ぜてバランスを崩される。
土が、ジルナールの意志にとって都合のいい形に、先回りして変化していく。
距離が詰められない。
土の魔法士同士の間合いが、一方的にジルナールの都合で管理されていた。
アルスは、息を整えながら横へ走る。
トールと戦ったときのように、ただ受けるだけではなく、動き回りながら様々な形の魔法を試していった。
細かい砂利を巻き上げて視界を奪おうとした。
足元を盛り上げて、自分のいる場所だけ高台にした。
地面に溝を刻み、相手の足場を限定しようともした。
だが、そのどれもが、あっさりといなされていく。
巻き上げた砂利は、鞭の一振りでまとめて叩き落とされた。
高くした足場は、側面から突き上げる衝撃で崩される。
刻んだ溝は、そのすべてを跨ぐように鞭がしなり、何の意味も持たなくなった。
(トールと違って……小さい魔法も、ちゃんと見てる)
アルスは、走りながら奥歯を噛みしめる。
マナの感知が甘くない。
どれだけ小さく、短く土を動かしても、その微細な変化がすぐに察知され、対処される。
土の魔法士としての経験値が、圧倒的に違う。
(セラさんほどじゃないかもしれない。でも……少なくとも、今の僕よりは遥かに上)
認めざるを得ない事実だった。
それでも、アルスは足を止めなかった。
走り、躱し、受け、また試す。
その一連の動きを、ジルナールはどこか楽しげに眺めていた。
「君も、だいぶ普通じゃないね」
ふと、ジルナールが言った。
アルスは答えない。
代わりに、土の槍をひとつ、低い姿勢から滑るように走らせる。
ジルナールはそれを、外套の裾をひるがえして避けた。
「その身体能力、目の良さ、身のこなし、壊れにくさ。それに勘もいい」
鞭を扱いながら、淡々と観察結果を並べ立てる。
「どれも、今まで遊んできた相手よりずっと上だ」
言葉の端に、「遊ぶ」という単語が乗っていた。
ルナに対して使ったものと同じ、最悪の響きだった。
「もしかして――君も、“珍しい生き物”なのかい?」
軽く首を傾げながら言う。
その瞬間、アルスの肩がぴくりと揺れた。
ジルナールは、その微かな反応を見逃さない。
「そっか。なら、あの翼獣に同情するよね?」
にやにやと笑いながら続ける。
ルナと自分を、同じ「珍しい生き物」という枠に入れられた。
それが、彼にとってはただの分類で、ただの興味でしかないということも、嫌というほど伝わってきた。
また、怒りが込み上げてくる。
胸の奥で、熱い何かが爆ぜた。
「…………っ」
アルスは、喉の奥で息を飲む。
思考よりも先に、身体が前へ出ていた。
今度はこちらから踏み込む。
土の槍を二本、三本と連ね、継ぎ目をずらしながらジルナールの足元を狙って突き立てる。
同時に、一歩でも距離を詰めようと身を低くする。
「そうそう。そうやって来てくれないと」
ジルナールの口元の笑みが、わずかに深くなる。
次の瞬間、地面がうねった。
今までのものとは違う、太い土の鞭が一本。
まるで柱のような重さを持ったそれが、横薙ぎにアルスの視界を埋める。
「──っ!」
避けきれないと判断したアルスは、自分の正面に土を盛り上げて衝撃を殺そうとした。
だが、間に合わない。
即席の壁ごと、土の鞭に叩き飛ばされた。
鈍い衝撃が全身を駆け抜ける。
視界がぐるりと回り、世界が上下を失う。
頭を何か硬いものにぶつけた感覚があった。
土の地面を数度跳ねてから、ようやく体が止まる。
「っ……」
うまく息が吸えない。
手をつこうとして、指先にぬるりとした感触を覚えた。
見ると、血がついている。
額のあたりから流れ出した血が、こめかみを伝って顎へ落ちていた。
(……やっぱり、土の魔法士としては勝てない)
荒い息を整えながら、アルスは思う。
それでも、意識ははっきりしていた。
倒れ込んだ姿勢のまま、土に触れている掌に意識を向ける。
地面を通して、ジルナールの強さが伝わってくる。
さっきからずっと、ジルナールは土に指先を浸し続けているような感覚だった。
こちらが少し土を動かそうとするたび、その前段階で、向こうのマナが先に反応する。
先読みしている。
いや。
(甘えてない)
アルスはそう言い換えた。
相手のマナ感知に、甘えがない。
小さな揺れも、遠くの変化も、全部拾っている。
土を通して伝わる「予兆」を、決して見逃していなかった。
その徹底ぶりに、隙がない。
バルドンの言葉が、頭の中に蘇る。
――『魔法の発動の予兆を感知してくる』
(今、まさにそれをやられてる)
土を動かせば、その瞬間に読まれる。
土の魔法士として正面からやり合う限り、自分の一手は、必ず半歩遅れる。
それが分かった瞬間、逆に頭が冷えた。
ジルナールがゆっくりと歩いてくる気配を感じながら、アルスは目を閉じる。
(なら──)
魔法を感知させない方法があれば。
土を通して予兆を読む、その前提から外れた攻撃があれば。
エルネの姿が、ふっと脳裏に浮かぶ。
「発想を自由に……」
小さな言葉として口に出ていた。
馬鹿正直に真正面から戦う必要はない。
土を通して予兆を読む相手なら、その思い込みの外から殴ればいい。
今、自分が使える魔法の中で、ジルナールの想定の外にある魔法。
――ユベルの魔法。
戦いのために使ったことは、まだほとんどない。
けれど、その構造と感覚は、骨の芯まで叩き込まれている。
(……もしかして)
アルスは、ゆっくりと上体を起こした。
額から流れた血が、頬を伝って落ちる。
ジルナールが、興味深そうにこちらを見ていた。
「まだ立つんだ。偉いね」
揶揄うような声。
アルスは、それには答えなかった。
頭の中はもう別の世界だった。
(ユベルの魔法は、本来なら魔法を作り出して、記憶して、分解して、結晶にする。
だが、その手順を全部踏めば、ジルナールに警戒される。
――なら、最初から結晶として作ればいい。
ここ二ヶ月、何度も練習してきた魔法だ。構造はもう身体が覚えている。
ここには、土のマナも潤沢にある)
アルスは手のひらに土が集まり、土マナの”結晶”を生み出した。
返事の代わりに、こつりと結晶が地面に落ちる。
でも、マナの大きな揺れは存在しない。
生み出したのはただの”マナの塊”
ジルナールの反応が、わずかに戸惑いを含んだものに変わる。
「……なんだその石?」
アルスの口角が、もう一度わずかに上がる。
土の国の郊外、静かな土の上で、少年は新しい戦い方を思い描いていた。




