第80話
学院のある市街から外れ、畑と林が入り混じる郊外まで出てきていた。
低く伸びる畑の土の匂いと、まだ若い木々の葉の匂いが、風に乗って頬を撫でる。
ルナの背にまたがるリデルの前で、ハルナが安定した高度を保ちながら飛び、その後ろをルナが少しぎこちない軌道で追いかけていた。
アルスはリデルのすぐ後ろ、鞍の後部にしがみついている。
「結構遠くまで来ちゃったね」
リデルが振り返り気味に言う。
「そうだね」
アルスは頷きながら、眼下を流れていく土の国の景色を見下ろした。
ルナの翼がひと振りするたびに、世界の輪郭が少しずつずれていく。
遠くに学院の塔が小さく見え、そのさらに向こうに、土脈のなだらかな丘が続いていた。
「尻尾も、どんな感じで調整すればいいか分かったから、大きな収穫ね」
リデルが笑う。
空中での姿勢、旋回のきつさ、高さによって変わる負荷。
ルナが飛ぶたびに、その全てがリデルの中に「感覚」として蓄積されていく。
今日は、それを確かめるための、実地の飛行でもあった。
アルスがふっと息を吐き、肩の力を抜いたそのときだった。
「――っ、ガウ!!」
ルナの喉から、鋭い声が飛び出した。
次の瞬間、ルナの体が、まるで何かに引きずり下ろされたかのように、急角度で地面へと沈んでいく。
「わっ――!?」
「ルナ!? ちょっと、どうしたの急に!」
リデルの叫びが風にちぎれる。
ルナはハルナから大きく離れ、ほとんど落下に近い角度で地面へ向かった。
風圧が顔を叩き、アルスの胃がふわりと浮く。
そのまま、地表近くでぐっと翼を広げると、わずかな距離を滑るようにしてから土の上へ着地した。
着地の衝撃が背中まで伝わり、アルスは思わず鞍にしがみつく。
ルナはすぐに前へ飛び出した。
喉の奥で低く唸りながら、目の前にある一点を睨み据える。
一つの人影に向かって。
「そんなに怒って、どうしたのルナ!?」
リデルがルナの首元を抑えながら声を上げる。
ルナはそれを振り払うように身を低くし、今にも飛びかかりそうな姿勢を取っていた。
その人影は、腰まで伸びる土色の外套をまとった男だった。
背はアルスより少し高い程度で、痩せぎすの体つき。
だがその細さは弱々しさではなく、どこかしなやかな獣を思わせる。
前に跳ねた黒髪はところどころ焦げたように色が抜けていて、瞳は濁った琥珀色をしている。
顔立ちは整っているが、目の下には薄い隈が刻まれ、口元には常に笑いとも嘲りともつかない線が浮かんでいた。
腕や首筋には、細かな魔具と思われる金属片や細い鎖がいくつも巻きついている。
どれも、土のマナを淡く滲ませていた。
男はルナの突進を、半歩横に滑るだけでひらりとかわした。
「――っと! びっくりした」
軽い声で言いながら、土埃を払うように外套の裾を払う。
そのままこちらに視線を向けた。
「それで君たち、何者だい?」
声音は柔らかい。
だが、その目には「子どもを見ている」という意識すらなく、ただ目の前の状況を値踏みする冷たさだけが宿っていた。
ルナの低い唸りが、なおも喉の奥で続いている。
男はふと、ルナに目を留めた。
「おっ」
口元の笑みが、少しだけ意味を持った形になる。
「そいつはこのあいだ、俺が面倒見たやつじゃないか?」
「……なに?」
アルスは思わず聞き返していた。
男はそのまま、楽しげに言葉を継ぐ。
「言うこと聞かなかったから、捨ててきたやつじゃん。……なんだ、人の言うこと聞くじゃん」
その口調は、壊れた道具について語るように軽い。
「なら、やっぱりほしいな。そいつ」
ルナの喉の唸りが一段低くなる。
言葉の端々から分かる。
こいつが――ルナに魔石を埋め込んだ人間だ。
胸の奥で、何かが静かに色を変えた。
どす黒い感情が、じわりとアルスの中に広がる。
「……お前が」
アルスは、唇の内側を噛む。
「お前が、ルナにあんなことをした張本人――『ジルナール』なのか?」
「おお。俺のこと知ってるの?」
男――ジルナールは、嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ話が早い。その翼獣を置いて行きな、小僧」
軽く告げると、こちらに向かって片手をかざした。
掌の甲に埋め込まれた魔石が、土の光を帯びる。
次の瞬間、ジルナールの足元の土がうねり、蛇のように伸びてきた。
土の塊が一本の鞭となり、アルスたちの足元へ一気に迫ってくる。
「――っ!」
アルスはとっさにルナの背から飛び降りる。
自分の足元の土を呼び起こし、細長い槍の形に押し出す。
突き出した槍の穂先が、迫ってきた土の鞭を横から叩き、鈍い音を立てて砕いた。
ルナが、今にもジルナールに飛びかかりそうな勢いで前へ出る。
「ルナ!」
リデルが叫ぶが、怒りに燃えたルナの耳には届いていない。
「ルナ! リデル! ハルナ! セラさんを急いで呼んできてくれ!」
アルスは一瞬で状況を判断し、声を張った。
この相手は危険だ。
しかも晶装士。
自分一人では、どう考えても荷が重い。
「……だめ! ルナが言うこと聞いてくれない!」
リデルが悲鳴に近い声を上げる。
ルナは完全に怒りに飲み込まれていた。
牙を剥き、今にも飛び出すその体から、荒いマナの揺れが伝わってくる。
「リデル!」
アルスはリデルのほうを振り向いた。
「君はルナの“盟晶”なんだろ! 君ならできる!」
視線をぶつける。
リデルは、はっと目を見開いた。
自分の胸元へ手を当てる。
服の下、琥珀色の魔石がそこにある。
ルナの瞳と同じ色をした、自分の魔石。
「……ルナ」
リデルは目を閉じ、マナを集中させた。
胸の奥で、何かがルナと繋がっていく感覚。
「ルナ! 言うこと聞いて!」
怒りの濁流の中で、かすかな糸のようなものが揺れた。
ルナの瞳が、はっと瞬く。
全身にみなぎっていた荒々しい力が、わずかに引き絞られていく。
そして――ルナは、自分の意思で一歩退いた。
翼を広げる。
リデルとアルスを振り返り、一瞬だけ目を合わせると、その背にリデルとアルスを乗せたまま飛び立とうと身構えた。
「おいおい、逃がすわけないだろ」
ジルナールの声が飛ぶ。
今度は複数の土の鞭が、一斉にリデルたちへと伸びてきた。
細いものから太いものまで、まるで森の枝が一気に伸びてくるようだ。
地面の下を走るマナの筋を、感覚を研ぎ澄まして探る。
土の槍で一つひとつを、短く、鋭く断ち切っていく。
鞭のうち、いくつかは途中で崩れたが、全てを捌き切るには一瞬足りない。
「今だ、ルナ!」
アルスが叫ぶ。
ルナは地面を蹴り、翼を大きく打った。
土の鞭が届くよりも一瞬早く、ルナの体は空へ躍り出る。
翼の影が地面をかすめ、次の瞬間にはもう、高度を取り始めていた。
すぐ後ろを、ハルナが追いかける。
「逃します」
アルスは、地上を睨むジルナールに向かって、短く言った。
ジルナールは肩をすくめる。
「あーあ。チャンスだったのに。君、魔法士か、うざいね」
まるで友人に悪戯を邪魔されたかのような、軽い声だった。
「まあ、いつでもいっか」
ひらひらと手を振るようにして、ジルナールは背を向ける。
そのまま、何事もなかったかのように森のほうへ歩き出そうとした。
「――待ってください」
アルスの声が、その背中を止めた。
ジルナールが足を止める。
振り返りはしないが、耳だけはこちらに向けられていた。
「聞きました。あなたたちは、珍しい生き物を密猟していると」
アルスは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「なぜ、そんなことを?」
わずかな間があった。
ジルナールは振り向き、肩越しにこちらを見た。
「珍しいし、なんか楽しいでしょ?」
あまりにもあっけらかんとした声だった。
「それに高く売れるから」
アルスの胸の内で、再び何かが音を立てた。
(そんな理由で――?)
そんな理由で、ルナはあんなふうになったのか。
結晶化で尾を失い、痛みに震え、それでも飛びたくて、必死に空へ爪を伸ばしていたのに。
静かな怒りが、足元からじわじわとせり上がってくる。
胃の底が冷たくなり、同時に胸の内側が熱くなるような感覚。
「分かりました」
アルスは、静かに息を吐いた。
「では、あなたには捕まってもらいます」
ジルナールの眉が、ほんの少しだけ動く。
「『自分ができることは、相手にもできる』と思わなきゃ」
挑発とも宣言ともつかない調子で告げる。
ジルナールは、その言葉ににやりと笑った。
「やれるもんならな」
薄い笑みを浮かべたまま、今度こそ背を向ける。
土のマナが、その周囲からすっと引いていくのを、アルスは感じた。




